小栗上野介が駆け抜けた時代 14 円銀鋳造はメキシコ・ドルの追放
明治政府が「1円金貨100円は、洋銀100ドルと等価である」と定めた結果、1円=洋銀1ドルというレートが生まれました。ここで注意しなければいけないのは、「1円金貨」と「1円銀貨(貿易銀)」の二つのコインがあったことです。内定していた銀本位制を覆して金本位制を選びながらも、実質的には「金銀本位制」が採用されたということです。
銀貨は貿易上の便益をはかる目的で鋳造されたとされていますが、新貨の1円銀貨は円銀の海外流出を願ってつくられたと同時に、メキシコ・ドルの追放という目的があったようです。明治政府は日本に悪をもたらす元凶として横行している洋銀、特にアジアを中心に流通していたメキシコ・ドルを国内から追放し、アジア市場に占めるメキシコ・ドルの地位を奪取、ひいては「円を国際通貨として流通させる」という構想を描いていたのです。
明治維新からさかのぼること4年前に当たる1864年(元治元年)、イギリスが香港造幣局を設立します。アジアに植民地を求めて進出してきたイギリス政府が、その造幣局で鋳造する香港ドルによって、アジアからメキシコ・ドルを追放し、それにかわって香港ドルを流通させるために建設したものです。
しかし、イギリス政府にとって予想もしない事態が起こりました。メキシコ・ドルの信用という壁を打ちかぶれなかったばかりか、中国人が香港ドルを額面価格の1%の割引でしか受け入れなかったのです。さらに中国人は受け取った香港ドルをただちにメキシコ・ドルに交換するという行為に出たのです。
このために香港ドルの鋳造は2年しか行われず、鋳造高もわずか200万ドルに終わりました。香港造幣局は明治元年に閉鎖されます。
この香港造幣局の機械を購入したのが明治政府でした。おまけに明治3年には、機械と一緒に元香港造幣局に勤めていたイギリス人技術者を雇用します。しかもこの機械は金貨や銅貨の鋳造には不向きの、銀貨専用の機械であったのです。いや、明治政府は銀貨専用の機械であることを知って購入したのです。メキシコ・ドルをアジアから追放し、アジアに流通させる円銀を鋳造する目的で機械を買ったのです。つまり、円銀が香港ドルの遺志を託された後継者のような存在になったのです。
国際通貨になることを願って鋳造された円銀ですが、当初は香港ドルと同じ運命をたどります。中国人が0.5~1.5%の割引率で扱ったのです。明治政府は明治6年、「損失・負担をかけた場合にはその費用・利子を日本政府が負う」という条件で、円銀をメキシコ・ドルと等価通用扱いで銀行に委託したり、円銀の鋳造手数料を引き下げたりしました。
やがて円銀は品位の確かさや贋造の少なさ、デザインの美しさなどの好条件も手伝って、徐々にメキシコ・ドルを駆逐し、流通圏を着実に広げていきます。やがてマレー半島から完全にメキシコ・ドルを追放し、中国や朝鮮、フランス領のインドシナの各地では、その国の貨幣と同等の価値として流通していきます。
しかし、明治26年にインドが「金為替本位制度」を採用、これに続くようにフィリピンやシャム、オランダ領東インド諸島、フランス領のインドシナなどが「金為替本位制度」を導入したことや、貨幣法が制定された明治30年の「第二次金本位制」の確立によって、銀貨は国際通貨の地位から脱落、アジアに流通していた円銀も本位貨幣ではなくなります。
そもそも新貨条例(明治4年施行)は金本位制度の確立を意識して作成されたものなのに、どうして明治政府が「1円銀貨」を鋳造したのかという疑問に対する答えは、「メキシコ・ドル対策」であったということです。これこそが、明治政府が最初に挑んだ海外に対する経済政策であったといえるのではないでしょうか。
しかし、円が国際通貨として認められるには、まだ数十年の歳月を要します。
By Master K/益田 慶