FX検定公認テキスト「外国為替FX投資の黄金律」 → 詳しくはこちら

小栗上野介が駆け抜けた時代 13 明治新貨幣制度のスタート

1868年に明治政府がスタートしてからも数年間は、国内に多種多様な紙幣・貨幣が流通していました。明治政府が発行した太政官札(殖産興業を名目とした新政府の紙幣)や二分金、一分銀、幕府貨幣や藩札のほか、徳川時代の金・銀・銀貨などです。交換比率が設定されていたとはいえ、ひとつの国に多くの異なる貨幣が流通していたことで社会は大いに混乱しました。


明治元年、新政府はただちに海外へ造幣機械を発注、造幣所の建設に着手しました。そして明治政府は江戸時代の貨幣制度をそのまま踏襲か、新鋳するならどのような貨幣が適切なのかについて検討を始めます。最終的に全国統一の貨幣制度を確立することが近代国家の基盤になると判断されました。
こうして明治4年、「新貨条例」が公布されます。この条例によって、十進法に基づく円、銭、厘を単位とする新硬貨が発行されます。当時のアジアの貿易国が銀本位制を採用していたので、当初は銀本位制が内定していましたが、新制度では金本位制が採用されました。金貨を本位貨幣(金1.5g=1円)と定めたのです。


銀本位制から金本位制に変更されたのは、アメリカの政治・経済システムを学ぶ目的で渡米中の伊藤博文から「欧米諸国は金本位制へ移行している。日本も歩調を合わせるべきだ」という意見が出されたことによるといわれています。事実、イギリス(1816年)、ドイツ(1871年)、米国(1873年)、フランス(1876年)など、欧米主要国は次々と金銀複本位制や銀本位制などから金本位制へと移行し、この時期は国際的な金本位体制が確立する過程にあったのです。


しかし、その一方で明治政府は本位金貨に加え、貿易上の便益をはかる目的で「1円銀貨」(貿易銀)の鋳造も行われました。実質的には改革は「金銀本位制」で進められたというわけです。


新しい貨幣の呼称は「円」に決定し、アメリカ・ドル金貨1ドルに相当する1円金貨が基本貨幣に定められます。


新貨幣の呼び名が「円」に決定した理由には、
(1)新貨の形が円形に統一されたこと
(2)洋銀の中国別称である「洋円」を継承したこと
などが挙げられます。ほかにも香港銀貨の「壱圓」(洋円1個の意味)にちなんだという説もあります。また、大隈重信が「元」という呼称を提案していたという記録も残っています。


当時の日本の基本通貨は、幕末の金流出を契機として大量に発行された万延二分金でした。この二分金は2枚(1両)でアメリカ・ドル1ドルとほぼ等価とみなされていました。


そこで明治政府は、1両=1円金貨=1ドルと等価と定めたのです。「旧貨幣1両=新貨幣1円」と読み替えるだけで済むから、スムーズに新体制へ移行できると政府首脳が考えたのでしょう。
小栗上野介がアメリカで為替レートの改正に挑んでから11年後、ようやく「円」が誕生し、1円金貨=1ドルに落ちついたわけです。


「新貨条例」公布の翌年、明治5年には新しい政府紙幣(額面は百円、五十円、十円、五円、二円、一円、半円、二十銭、十銭)が発行されます。それまでに流通していた多種多様の紙幣の統一を図るのが目的でした。旧紙幣はこれらと交換回収されたのです。


しかし、貨幣システムが定着するまでには時間がかかります。幕末から明治初めの「負の遺産」が明治政府にはありました。明治政府はこれといった資産のないままにスタートしています。旧幕府軍と新政府軍が戦った「鳥羽・伏見の戦い」から「函館戦争」に至る、いわゆる「戊辰戦争」の戦費を明治政府は豪商からの御用金と不換紙幣でまかなっていました。明治政府を御用金によって金銭的に支援したのは三井でした。小栗上野介と親交の深かった三野村利左衛門が判断し、朝廷の軍資金に提供したのです。


一方、正貨準備のない不換紙幣は、なんの保証のない紙幣です。明治政府はこの不換紙幣を乱発したので、ますます価値が下がり、明治政府の財政は瀕死の状態でした。貨幣の価値は一気に下がり、これに正比例して物価は急上昇。インフレの到来です。明治10年には、再び不換紙幣を乱発し、金融システムは混乱します。

By Master K/益田 慶