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小栗上野介が駆け抜けた時代 11 上野介の運命を変えた大政奉還

今週と来週は、上野介の晩年を紹介します。それは政治・経済など国家を支える社会システムが激変した時代と重なります。
討幕運動が盛んになり、政治的な混乱が続きました。同時に開国にともなう経済的な変化が社会全体を不安にさせました。江戸や大坂などの大都市では物価が激しく上昇、経済政策に対する幕府の無能さがあらわになっていきます。

この時期に現在の赤字国債に近い性質の金融政策が実施されました。上野介が発案した、江戸と横浜においてのみ通用する金札の発行です。発行所は三井御用所、発行額は十万両。二十五両、十両、五両の三種の金札が用いられました。通用期間は2年で、2年後に正貨と交換するというものです。三井からすれば2年後に関税収入で充当してもらえるとしても、それまでは立替となるわけです。こんな非常手段を用いなくてはいけないほど、幕府の財政は追い詰められていました。
当時、各藩では藩内だけで通用する藩札を発行していましたが、領民たちはいやいや使っていたようです。新たに発行された、幕府が信用保証する金札は三井の信用に依存したものといえるでしょう。

1867年当時、上野介は海軍奉行と陸軍奉行を兼任していました。薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、推し進めている倒幕運動に対抗する重要なポストです。
同年10月、将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩から15代将軍徳川慶喜にあてて、大政(統治権)を天皇に返上する建議書が提出されました。そして遂に慶喜は「大政奉還」を発表しました。264年間に渡って江戸幕府、徳川将軍家が保持していた政権を朝廷へ返上すると申し出たのです。
大政奉還の上奏文を要約すると、「今日の時勢に至ったのは私の不徳のいたすところで恥じ入るばかりです。最近は外国との交際が盛んになり、政権がひとつにならないと秩序が保てなくなりました。政権を朝廷に返しますので、広く天下の議論をつくして天皇の決断をあおぎ、協力しあってゆけば海外の国々と肩を並べられるようになるでしょう」という内容でした。

 折りしも、薩摩・長州両藩と朝廷内の実力者である公家の岩倉具視らによって「討幕の密勅」が発せられるようとした時でした。つまり、軍事力によって政権を奪うクーデターが勃発しようとしていたのです。慶喜はこの動きを未然に防いだという解釈もできます。また、慶喜は一旦は形式的に政権を手放すが、いずれ徳川家が政権を握れると判断したのかもしれません。
 一方、結果的に討幕運動を停止させられてしまった薩長両藩と岩倉具視らは、天皇を手中にして朝廷をコントロールする計画を進めていました。

同年12月に「王政復古」の大号令を出します。これは「政権は天皇に移った」と宣言する政変でした。大政奉還しても朝廷による新政権は、徳川家がイニシアチブを握ることが予想されたことから、先に摂関制度(摂政・関白)と幕府を廃止し、総裁、議定、参与の三職を置く、天皇による新政府の設立を宣言したのです。と同時にこれは徳川幕府の廃絶を意味するものでした。

上野介は江戸城で主戦論を展開しました。薩長藩を武力で統一するという考え方が生まれたのは、幕府によって近代国家への脱皮を図るべきだという未来予想図を描いていたからでしょう。 
「王政復古」の大号令の後に開かれた会議によって、慶喜は内大臣の官位辞任と領地の返上が命じられました。この会議に慶喜は出席しておらず、会議で決定した内容を聞くと京都から大坂城へ身を退きました。このニュースが伝わると、旧幕府側や多くの大名から不満の声があがり、同情論とあいまって新政府のリーダーに慶喜を据えようという動きも活発になります。旧幕府と薩長同盟の対立は激しさを増していきます。

By Master K/益田 慶