小栗上野介が駆け抜けた時代 10 上野介の幕府財政・軍事構造改革
幕末の財政の立て直しを指揮した小栗上野介。今回は上野介が挑んだふたつの大きな改革を紹介しましょう。
幕末期の幕府が担った出費の最も大きなもののひとつに、諸外国から購入した44隻の戦艦の購入費があります。その総額は333万6千ドル(現在の価値で340億円以上)でした。しかも満足に操縦できる人材が不足し、他国との交渉材料になりませんでした。他国から軍艦を購入すべきだと唱えたのは、かの勝海舟でした。
遣米使節の目付として渡米した経験のある上野介は、アメリカで造船所を見学しています。強い海軍を創設するためには自力で軍艦を建造することが必要だと考えたのでしょう。上野介は具体的な造船所の建設計画を練り上げます。アドバイスをしたのは、フランス公使レオン・ロッシュでした。
フランスが積極的であった理由は、当時ヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によって養蚕業が壊滅状態にあり、フランス最大の輸出品である絹織物の供給源として品質に優れた日本の絹が必要であったからです。実はロッシュはナポレオン三世の意向を受け、日本から絹を輸入する窓口になるべく、フランスから送り込まれてきた人物でした。
上野介は1864年(元治元年)、造船所建設案を幕府に提出します。勝海舟をはじめ大名からも多くの反発を受けましたが、2年後に第15代将軍となる徳川慶喜の支援もあり、建設案は受理されます。建設予定地は横須賀に決定します。
造船所の建設費は総額240ドル(現在の価値で240億円以上)。幕府は絹の利権を担保にフランスからの借款で充当することにしました。1865年(元治2年)、横須賀製鉄所の建設がスタートします。規模と建設費を考慮すると、当時のアジア最大の建設プロジェクトであったといえるでしょう。幕府認定の工事の責任者にフランス人を抜擢し、西欧の雇用規則や教育など近代経営を導入します。
さらに上野介は1867年(慶応3年)、15代将軍の徳川慶喜にある提案をします。「兵庫(現神戸)開港にともない、外国人と取引をする商社コンペニーを設立すべきだ」というものです。コンペニーとは、上野介がアメリカ視察で覚えた「株式会社」、特に外国貿易を営む商社のことです。上野介のビジョンは、有力商人から100万両を出資してもらい、株式会社を設立。そのコンペニーは3年間有効の同額の金札、銀札を発行、3年後に正貨と交換する。その財源の100万両は、兵庫開港による関税収入を充当。続いて幕府が100万両の金札を発行。これによって200万両の資金を幕府は利用できる。簡単にいえば、こういう構想でした。
やがて日本初の株式会社と呼ばれる「兵庫商社」が設立されます。
上野介は一度軍事奉行に転任するものの、勘定奉行を三度務めました。最後の役職は、海軍奉行を兼任する陸運奉行でした。この間に、前述した大きな改革を成し遂げただけでなく、諸色会所(商工会議所の前身)の設立、横浜フランス語伝習所(フランス語専門学校)の設立、横須賀製鉄所学舎(工業高等教育機関、企業内教育制度)の設立など多くの事業を起しました。また、中央銀行設立の計画、新聞発行の計画など近代化に欠かせないアイディアを提供しました。これらは外国貿易の商社(コンペニー)の利潤によって行えるとする画期的な構想でした。
1867年(慶応3年)に着工された「築地ホテル」は、明治5年に焼失するまで日本最初の本格的なホテルとして外国人から高い評価を得たホテルです。このホテルの開設について上野介は、「民間で行う者があれば土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から募り、利益を出資金に応じて分配する方法にするよう」と指導しています。第三セクター方式プラス株式システムの導入で自由競争をすべし、という近代的な発想です。
しかし、1867年の「大政奉還」によって上野介の人生は大きな転機を迎えます。将軍慶喜が「政権を朝廷に返上する」と発表したのです。
By Master K/益田 慶