2007年10月22日 (月)
豪休場 レイバーデー
香港休場 国慶節
08:50 日 ★★日銀短観 大企業製造業業況判断
23:00 米 ★★ISM製造業景況指数(9月)
豪休場 レイバーデー
香港休場 国慶節
08:50 日 ★★日銀短観 大企業製造業業況判断
23:00 米 ★★ISM製造業景況指数(9月)
15:45 (仏) 9月消費者支出
21:30 (加) 8月小売売上高
23:00 (米) 10月リッチモンド連銀製造業指数
幕末に活躍した一人の人物に様々な角度からスポットを当て、約1年半かけて彼にまつわるエピソードや事件を紹介していきます。
その人物とは、江戸幕府の勘定奉行(経済担当大臣の役割)として幕政を支え、また横須賀製鉄所の建設や日本最初の株式会社の設立をはじめ、多くの事業を興し、日本の近代化の礎となった小栗上野介(おぐり・こうづけのすけ/1827年~1868年)です。
小栗忠順(ただまさ)――のち上野介に昇進――は、文政10年(1827年)、江戸駿河台の旗本の家に誕生しました。第11代将軍徳川家斉が、太政大臣に任じられた年です。世界に目を転じれば、イギリスで蒸気機関車が実用されるようになった頃です。欧州で資本主義制度が始まり、いち早く産業革命に成功したイギリスが「世界の工場」の地位を獲得していました。しかし、そんな世界の様子は、日本には伝えられることはありませんでした。
忠順の父は、新潟奉行の小栗忠高です。小栗家は上総(現在の千葉県)、下総(現在の千葉県)、上野(現在の群馬県)、下野(現在の栃木県)などに領地を持つ禄高2500石の旗本でした。
江戸幕府の旗本とは、徳川将軍直属の家臣で1万石未満の家を指します。旗本は武家諸法度により統制され、町奉行や勘定奉行、大目付など諸役職に就きました。
父親に経済力があったため、忠順は教育を受ける環境にありました。屋敷内に開かれた塾で7、8歳から漢学を学び、剣や柔術など武芸にも優れていたようです。文武に抜き出た才能を発揮し、自身の意見をはばかることなく主張することから「天狗」と揶揄されることもあったようです。現在なら「自己主張の激しい秀才タイプ」ということでしょうか。
忠順は17歳から蘭学を学び、開明派幕臣の岩瀬肥後守忠震(ただなり)が翻刻刊行した『地図全誌』を読み、その先見的な構想にひかれ、早くから開国の必要性に目覚めたようです。ちなみに岩瀬忠震は、大老井伊直弼の代にアメリカ使節応接役を担う人物です。
やがて上野介は万延元年(1860年)、日米修好通称条約の批准書交換のために幕府初の遣米使節団として渡米し、通貨・為替交渉に当たり、1両小判と1ドル金貨の交換比率(為替レート)を決定します。不公平だった両国の為替レートをこの時期に改定したからこそ、明治4年、金本位制による「旧貨1両=1円=1ドル」という新貨幣体制へとスムーズに移行できたのです。つまり、上野介の活躍が大きな布石となり、日本の「円」が国際社会にデビューできたのです。
一方、彼が活躍した時代といえば、カリフォルニアのゴールドラッシュ(1845年~1850年代初頭)の時期と重なります。ヨーロッパが恐慌に見舞われ、多くの失業者が一攫千金を夢見て新大陸アメリカを目指した時代です。
じつはこのゴールドラッシュが世界経済に深くかかわり、ひいては「旧貨1両=1円=1ドル」という新貨幣体制の確立につながっていったのです。
当時はいち早く産業革命を迎えたヨーロッパの先進国が世界に君臨していました。欧州の強国は国外にも目を向け、海外との貿易を強化していった時代です。
一方、1848年にメキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアを手に入れ、ゴールドラッシュを迎えたアメリカは、西海岸から太平洋を横断して上海、広東を結ぶ汽船航路の開設を目指していました。アメリカの綿工業が、中国市場で優位にあったイギリスに追いつくためにはどうしても航路の確保が必要だったのです。
このように小栗上野介が駆け抜けた時代背景を知ると、世界経済の大きな流れと日本経済の関係性までも浮かび上がってきます。毎週お届けするコラムは、エンタテインメントに軸足を置きながら、一方では現在ある制度の基礎がこの時代に確立されたことを知識として身につけてもらうための読み物でもあります。
「現代」の世界と日本経済の見取り図を知るためには、その基礎となった「近代」を知ることが肝心です。「小栗上野介が駆け抜けた時代」が皆様にとって、おもしろくて役に立つ読み物になれば幸いです。
By Master K/益田 慶
上野忠順(のちに上野介)の初登城は、15歳とも17歳とも言われています。
初登城とは、いわば本社への初出勤です。
忠順の文武の才は、城内でもすぐに注目され、若くして両御番となり、手腕をふるいました。
「両御番」とは、戦時には将軍を直接護衛する部隊で、平時には江戸城本丸の主要な門の警護、将軍外出時には乗物の警護を担当する「書院番」と、より将軍の近くを警護する「小姓組」を併せた総称です。
しかし若き忠順は率直な物言いによって、ときにまわりから疎んじられることが多く、たびたび官職を変えられたようです。やがて忠順のその後の運命を変える、大きな出来事が発生します。
忠順初登城から10年後の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、幕府を震撼させる事件が起こります。
アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、遣日国使兼日本遠征艦隊総指揮官として4隻の軍艦を率いて江戸湾の入口、浦賀に来航したのです。
黒い塗装の軍艦であったことから、日本では「黒船」と呼ばれました。旗艦サスケハナ号(2450トン)、ミシシッピ号(1692トン)の2隻が蒸気軍艦。
サラトガ号(882トン)、プリマス号(989トン)が帆走軍艦です。
ペリーは政治家でなく、アメリカ海軍軍人です。アメリカ初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長となり、1846年に始まった対メキシコ戦争ではメキシコ湾艦隊副指令官として指揮をとった海軍のエリートです。
1852年、東インド艦隊司令長官に任命され、日本派遣特派使節を兼任しました。
1848年にメキシコとの戦争に勝利し、カリフォルニアを手に入れたアメリカは、中国との綿貿易を活発にするためにカリフォルニアから太平洋を横断して中国を結ぶ汽船航路の開設が急がれていました。
そして当時の汽船は石炭を大量に消費したため、寄港地を必要としていました。
石炭の搭載量を減らすことができれば、その分の商品を積めるからです。アメリカが鎖国中の日本に寄港地を求めた理由のひとつは、中国との貿易にあったということです。
もうひとつの理由は、捕鯨業です。当時のアメリカは北太平洋で盛んに捕鯨を行っていました。
しかし、遭難して日本にたどり着いた漁師は、帰還することができず、日本で拘束されていたのです。
アメリカは人道的な見地からも、日本に開国を求めるようになっていったのです。
カリフォルニアを領土にする直前の1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル提督率いる軍艦2艇が浦賀に入港し、幕府に開国の意志があるか打診だけして帰国したのは、どうやら幕府の感触を調べる事前調査だったようです。これがやがて1853年のペリー来航につながるのです。
当時のアメリカ海軍の情報収集能力にふれた文献が少ないので、明言はできませんが、幕府に最も近い港に来航したということから、アメリカ艦隊は日本の要所を描いた地図を持っていたことが想像できます。
また、江戸に政治を統制する機関があることを知っていたことがわかります。
余談ですが、幕末を描いたドラマではペリー艦隊が何の前ぶれもなく突然、浦賀に現われたかのように表現されますが、アメリカはこの前年、オランダ政府に対して、艦隊派遣の斡旋を依頼し、長崎のオランダ商館長を通して幕府に連絡していました。
そのことから「近くアメリカが日本に艦隊を送る準備をしている」という情報は、幕府の要人の耳には入っていたのです。
しかし、艦隊を迎え入れる準備は、何もされていませんでした。こうなった要因は、のちにこのコラムで綴ります。
アメリカ艦隊入港の情報をチャッチしておきながら、何の対策も取らなかったことに対して「危機管理能力の欠如」と指摘する作家や評論家は少なくありません。
しかしそこまで一気に飛躍するのでなく、まず「外交」という概念がまったくなかったと考えたほうがわかりやすいでしょう。
話は黒船に戻ります。ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させ、江戸城の老中たちを威嚇。久里浜において、浦賀奉行に修好通商を求めるフィルモア大統領親書を受け取らせ、再来を約して退去していきます。
By Master K/益田 慶
FX投資の知識習得は「FX検定」
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08:50 (日) 9月通関ベース貿易収支
10:30 (豪) 第3四半期消費者物価指数
17:00 (ユーロ圏) 8月経常収支
18:30 (南ア) 9月消費者物価指数
23:00 (米) 9月中古住宅販売件数
05:00 (NZ) RBNZオフィシャル・キャッシュレート
08:50 (日) 10/20までの対外及び対内証券売買契約等の状況
08:50 (日) 9月企業向けサービス価格指数
17:00 (独) 10月IFO景況指数
17:15 (香港) 9月貿易収支
18:30 (南ア) 9月生産者物価指数
21:30 (米) 10/21までの週の新規失業保険申請件数
21:30 (米) 9月耐久財受注
23:00 (米) 9月新築住宅販売件数
外国為替市場は、異なる二つの通貨を売買することから各国の通貨の価値と切っても切れない関係にある。そして各国の通貨の価値は、その国の政治・経済の状況、他国との関係を反映していることは言うまでもない。つまり、FX投資家は自ずと世界各国の政治・経済のニュースに敏感にならざるを得ないのである。
最もわかりやすい例を挙げるなら、内戦や政情不安などにより経済が不安定な国では通貨価値の変動が大きくなる。するとその国の隣国にも何らかの影響を及ぼす。大量の移民が生まれ、隣国に流れていけば、隣国にもまた政治・経済面で大きな変化をもたらすだろう。
確かにその国のGDPや物価指数、貿易の状況(黒字、赤字)などのデータを読めば、国勢と通貨の強さ・弱さの関係はおおよそ見えてくるだろう。そういった情報を分析し、FX投資家は今後のFX市場がどう動くのかを常に予測している。
しかし各国の通貨を扱う投資家は、表面的なわかりやすい事象、データばかりに目を奪われるのでなく、その国の深層部にあることにも目を向け、隣国との関係、主な輸出国・輸入国はもとより、民族構成や宗教、歴史的背景など多角的に分析したうえで投資に挑まないと、失敗を繰り返すことになりかねない。
たとえばある国では国民の所得水準は高いが、同様に物価も高い可能性もある。所得だけを比べて「隣国より経済が安定している」と捉えるのは早とちりとなる。所得と物価の両方を見て、隣国と比較しなければいけない。
またある国では昨年度の国民の所得は低いが、近年化石燃料の発掘が進んでおり、その開発の資本は特定の国から提供されているとしよう。その資本を提供している国は国内に化石燃料は埋蔵されておらず、石油やガスは輸入に頼っているという事実を分析したうえで、どちらの国の通貨が今後価値を上げるのかを熟考し、投資することが賢明だ。
あるいは、各国に流れている連続した歴史をチェックしておくことで、その国特有の「経済の法則」や「衰退と発展の法則」が見えてきて、突発的に思える事象も必然であることを発見できるだろう。
今回からスタートする本コラムは、FX投資家にとって必要な「世界地理の読み方」を紹介するものである。それは地理的側面を伝えるだけでなく、情報収集のあり方やニュースの見方・活用の仕方を知らせるものだ。また独自の分析的な視点を養ってもらうものであり、各国が向かっている「その先」を読むための論理的な思考を鍛えてもらうための道しるべと言えよう。
コラムのポイントをまとめるなら、下記の項目が挙げられる。
●所得や物価、金利などの経済統計や政治・経済ニュースの読み方
●エネルギー資源の有無など産業構造や輸入・輸出面、資本取引からの考察
●その国と他国との関係性から読み解く両国の将来性
●各国特有の地理的条件、歴史的背景などからアプローチする概況
世界の通貨といえば、ドルとユーロが自ずとメインになってくるが、アメリカとEU諸国だけに着目するのではなく、並行してマイナー通貨が流通している国の概況も紹介していく。マイナー通貨を使っている国々は、おおむね隣国の強い通貨の影響を受けているからだ。こうして多角的に、そして論理的に各国の概況を見たうえで、一般化されていない情報を自身で収集し、文脈をつくり、投資のアイディアに結びつく何かを発見することはできるはずだ。
それでも、すべての国、すべての通貨をウォッチングし続けることは容易ではない。そこで、気になる国や通貨を絞込み、投資に適した情報を集中して収集するのもひとつの手である。コラムを通じて気になる国や通貨を見つけたなら、それが投資へのスタートラインだ。このコラムが皆さんの投資ライフに役立つことを祈ります。
By Master K/益田 慶
世界経済をコントロールしている人物や組織とは、いったいどこにいる、どんな人でしょうか? それは経済大国の首相や大統領、政権を担う政党でもなければ、著名な経済学者、エコノミストでもありません。
「ヘッジファンドの大物が、世界経済を牛耳っている」と指摘する本があります。確かに彼らは世界経済、特に金融システムを動かす重要なプレイヤーですが、それでは小国の国家予算にも匹敵する資金を自在に動かすヘッジファンドの、その資金とは、どこから流れてきているのでしょうか?
視点を変えて、政治家やヘッジファンドの大物たちに活動の“軍資金”を提供し、同時に口も出している組織が背後にあると考えたほうが、世界の経済地図はすんなり描けるのではないでしょうか?
つまり、プレイヤーを操る組織、人物の動きに目を向けることで、金融システムを動かす大きなメカニズムの骨格が浮き彫りになってくるのです。
アメリカには「彼らの意向を無視すると、大統領の首が据え変わる」とされている巨大財閥があります。ロックフェラー、ヴァンダービルト、モルガン、アスター、デュポンなどがそれに該当します。財閥とは、創業一族を核にした企業集団であり、企業グループ、ビッグ・ファミリーとも称されます。そして彼らは日本経済にも多大な影響を及ぼしてきました。
そのアメリカで財閥・大富豪に入る階層の起源は、真っ先に産業革命に成功したヨーロッパ諸国にあります。いち早く資本主義経済の基盤を築いたヨーロッパの先進国の資本家たちは、王室や貴族階層の意向を受けながら、巨大な企業グループを構築してきました。現在の金融システムの土台を築いてきたのも彼らです。そのうちの何名かはやがて新天地、アメリカ合衆国へと移り、あるいは婚姻関係を築いて、アメリカ国内で影響力を及ぼすようになったのです。
そもそも株式や貿易、為替やリスクヘッジといった概念を真っ先につくりだしたのが、ヨーロッパの資本家なのです。中でも財閥といわれる、少数の企業集団です。歴史をひもとくと、驚くことに、彼らの動向が幕政や明治維新にも影響を与えていたことがわかります。約1年かけて連載する「ヨーロッパの財閥と企業グループの研究」は、資本主義経済の発展の歴史をひもとく読み物ともいえます。突出した人物や企業グループが行ってきた事業の立ち上げ、投資や買収劇の手法は、現代でもまったく色あせていないどころか、混迷する現在だからこそ、先人から学ぶべき点は数多くあるでしょう。
その象徴ともいうべきファミリーが、ヨーロッパのロスチャイルド家です。これからお送りするコラムの半分は、「ロスチャイルド家の興亡」を核に構成していきます。ヨーロッパを象徴する財閥といえば、誰もが真っ先にロスチャイルド家の名前を挙げるでしょう。19世紀から20世紀にヨーロッパの政治を金融面から動かした一族は、今日に至るまで数多くの伝説に彩られたファミリーとして君臨しています。
ロスチャイルド家は、近代の金融業や投資会社の方向性を確立し、さらにレバレッジ(テコの原理)やヘッジファンドの概念をいち早く導入した一族と位置づけることができます。さらに現在、世界の金融ネットワークに大きな影響力を及ぼしているユダヤ人の象徴としても見ることができます。
ロスチャイルド家の興亡は、一族の初代であるユダヤ人のマイヤー・アムシェル(1744~1812年)がドイツ・フランクフルトのユダ人街で古銭業を開いたことから始まります。マイヤーの先祖は代々、「赤い盾」(ドイツ語で「ロートシルト」、英語で「ロスチャイルド」と発音)の家紋をつけていたことから、「赤い盾」が同家の屋号になっていました。マイヤーがこれを姓として使ったことから、「ロスチャイルド家」の初代となったのです。そして彼の5人の息子がヨーロッパに散らばり、金融ネットワークを構築していくのです。
By Master K/益田 慶
外国為替の世界で重要となるのが基軸通貨であることは言うまでもないだろう。国際間の貿易や資本取引の決済に多く用いられ、諸外国で対外準備資産として用意される通貨で、その時代にもっとも影響力が強い通貨が事実上の基軸通貨となる。
19世紀にはイギリスのポンドが、基軸通貨の地位にあった。逸早く産業革命を果たしたイギリスが「世界の工場」とも「世界の金融の中心地」とも呼ばれた頃の話である。しかし第2次大戦後は、その大きな経済力と政治力を背景に、米国ドルが基軸通貨の役割を担ってきた。
単に「ドル」と呼んだ場合、アメリカ合衆国ドル(USドル、米ドル)を指すことが多い。これはアメリカ合衆国ドルが石油取引など国際決済通貨として世界で最も多く利用されているためである。世界地図を見渡してみれば、USドルが国の通貨として扱われている国や地域が多いことに気づく。その地域は、グアム(アメリカ領)、北マリアナ諸島(アメリカ領)、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、東ティモール、パラオ、エクアドル、エルサルバドルなど、東南アジア、アフリカにまで及んでいる。ちなみに返還前の沖縄では、当然のことながらUSドルが通貨となっていた。わずか30数年前のことである。
実は「ドル」と呼ばれる通貨を使っている国はざっと数えただけで22もある。それだけ「ドル」が通貨の一般名詞として世界で使われているということだ。
(1)オーストラリア・ドル (2)バルバドス・ドル (3)バハマ・ドル (4)ベリーズ ・ドル (5)バミューダ・ドル (6)ブルネイ・ドル (7)カナダ ・ドル (8)カイマン諸島ドル (9)東カリブ・ドル (10)フィジー・ドル (11)ガイアナ・ドル
(12)香港ドル (13)ジャマイカ・ドル (14)リベリア・ドル (15)ナミビア・ドル(16)ニュージーランド・ドル (17)シンガポール・ドル (18)ソロモン諸島ドル(19)スリナム・ドル (20)ニュー台湾ドル (21)トリニダード・トバゴ・ドル、(22)ジンバブエ・ドル
ドル(ダラー)という名前は、ドイツで使われた歴史的通貨のターラー (Thaler) に由来すると言われている。ターラーは、16世紀にボヘミアで鋳造された銀貨の名前の短縮形で、品質の高さで知られた銀貨を指す。これが広く流通し、自国の通貨を「ドル」と呼ぶようになったのである。アメリカ合衆国の建国は1776年なので、USドル自体の歴史はまだ新しいと言える。
たとえば日本人に馴染みのある「香港ドル」(HKD)を見てみよう。現在、中国香港特別行政区の通貨だが、中国広東省の一部でも通用する。イギリスの植民地時代から中国に開かれた自由港として金融、流通の中心地であった香港は、通貨においても周囲の地域に大きな影響をもたらしてきたのである。マカオでは、当地の法定通貨であるマカオ・パタカの流通量を超え、香港ドルによる通貨代替が著しいという。マカオもまた中国の中の異国であることを証明する事象である。
香港では額面20ドル以上の紙幣は、香港上海銀行、スタンダードチャータード銀行(イギリス)、中国銀行(香港)の3行により発行されている。発行元の銀行によって図柄はまったく異なるが、それぞれの額面貨幣価値はもちろん同じだ。使用および流通において使い分ける必要はない。また、10ドル紙幣は上記の銀行による発行ではなく、香港特別行政区政府発行の法定紙幣のみ発行されている。つまり、通貨としては統一されているが、発行元が異なる紙幣がいくつも流通しているのである。
1983年以降、USドルに対するペッグ制 (自国の通貨と、米ドルなど特定の通貨との為替レートを一定に保つ制度) を施行しており、発券銀行が香港ドルを発券する際には相応の額のUSドルを預託する必要がある。しかし現在もペッグ制ではあるものの、2005年5月18日より目標相場圏制度が導入されたことにより、1USドル=7.75~7.85HKDの間の変動が認められている。やはりここでもUSドルの強い影響を受けていることがわかる。中国の一部とはいえ、香港はドルの国。必然的に金融に対する基本的な考え方もグローバルであると言えるだろう。
By Master K/益田 慶
ロスチャイルド家の初代であるユダヤ人のマイヤー・アムシェル(1744~1812年)の躍進を語る前に、現在まで続くユダヤ人と金融業の深い結びつきを説明しておきましょう。
もともと中世ヨーロッパでは、多くのユダヤ人が高利貸しを生業としていました。これはヨーロッパ諸国の国教となったキリスト教が、他人から利子をとることを禁止していたため、ユダヤ人が金融業に進出したという見方ができます。キリスト教徒からすれば、金融業は「欲深い罪人の仕事」だったのです。
11世紀にキリスト教会が、ほとんどの職業からユダヤ人を追放した後、ユダヤ人にとって数少ない収入源となったのが、高利貸し、質屋、金塊の保管人、両替商など、利子を取り扱う金融業でした。
中世ヨーロッパの支配者が、ユダヤ人を特定の職業に追い込んだ理由は、「キリストを裏切ったユダヤ人(ユダ)」の子孫を社会共通の敵に設定することで、自らの権力を安定させるためだったと想像できます。
じつはユダヤ教も利子の徴収は禁じていたのですが、ユダヤ教は異教徒(外国人)からの利子の徴収は許されていました。こうしてユダヤ人は、金融業に進出し、ノウハウを築いていったのです。
やがて政教分離が進み、教会が経済活動に口出しできなくなり、利子をとることが罪悪ではなくなったとき、利子を受け渡しながら巨額の資金を集める近代経済の手法は各国に散らばったユダヤ人が得意とする手法になっていたのです。
では、本題に移りましょう。
ロスチャイルド家の初代マイヤーは、中部ドイツの町ハノーバーの銀行での奉公を終え、二十歳の頃、故郷のフランクフルトに戻りました。マイヤーの二人の兄弟は古物商を営んでいました。マイヤーは古物商でなく、古いお金を扱う古銭商を始めました。これがやがて欧州の政治や経済を動かす「ロスチャイルド金融王国」への第一歩になったのです。
領主が絶対王政の時代に、一般の人々にとって古銭商がどれほどの価値があったのかと想像すれば、おそらくまったく見向きもされなかったことでしょう。しかし、マイヤーの狙いは一般大衆ではありませんでした。彼は経済的に余裕のある貴族など支配者階級への接近を図ったのです。マイヤーは一般の人にはガラクタでしかない古銭を安く買い取り、手描きのパンフレットを作成し、顧客になりそうな貴族に届けたのです。古今のお金の由来を巧みに語り、古銭に付加価値をつけ、貴族の心をくすぐろうとしたのです。
近代経営学の基礎を築いたマイケル・ポーターは、名著『競争の戦略』の中で「近代経営の3つの基礎戦略」として、「コストのリーダーシップ」「差別化」「集中」を挙げています。基礎戦略のひとつである「集中」とは、特定の買い手グループや特定の地域市場へ企業の資源を集中する戦略のことです。
マイケル・ポーターの理論からすれば、マイヤーは経営者として「顧客を絞る戦略」をとったといえるでしょう。この戦略が功を奏したのです。
やがてマイヤーは支配者階級にアプローチしているうちに、フランクフルト地方の領主に古銭を売り込む機会を得たのです。領主はフリードリッヒ大王を父に持つドイツの名門貴族で、莫大な財産を築いていました。一説にはドイツのみならず、ヨーロッパ屈指の大金持ちであったようです。当時、下層階級とされていたユダヤ人が、領主から直々に注文を得たとは異例中の異例でしょう。どうやらマイヤーは人の心をつかむ術に長けていたようです。
領主との取引を開始したマイヤーは、すぐさま自宅の玄関先に「宮廷御用達商人 マイヤー・アムシェル ロスチャイルド商会」の看板を掲げたとされています。権威に弱い世間の風潮を熟知していたのでしょう。古銭商とともに、ささやかな両替商も兼ねていたマイヤーの破竹の躍進が、これから始まるのです。
やがてマイヤーは5人の息子を5つの都市に分家させます。これがゆくゆく「ファイブ・アローズ」(5本の矢)といわれる金融ネットワークを形成することになるとは、当時のヨーロッパの国王は予想もしなかったことでしょう。
By Master K/益田 慶
香港休場(中秋節翌日)
08:30 (日) 10月東京都区部消費者物価指数
08:30 (日) 9月全国消費者物価指数
08:50 (日) 9月鉱工業生産・速報
15:10 (独) 11月GFK消費者信頼感調査
17:00 (ユーロ圏) 9月マネーサプライM3
23:00 (米) 10月ミシガン大消費者信頼感指数・確報値
1853年、黒船に乗って来航したペリーが、久里浜において浦賀奉行に受け取らせたフィルモア大統領親書(正式な外交文書)の内容を説明します。
「与が志、二国の民をして交易を行わしめんと欲す。是を以て日本の利益となし、また兼て合衆国の利益となさんことを欲してなり。(中略)もし是等の難に遇ふに方っては、貴国に於いて其難民を撫恤(ぶじゅつ)し、其財物を保護し、以て本国より一舶を送り、救い取るを待たんこと、是与が切に請ふ所なり。日本国に石炭甚だ多く、又食料多きことは、与が會て知れる所なり。(後略)」
要約するなら、「アメリカ合衆国は日本と貿易をしたいと願っている。(つまり、日本を侵略するつもりはない)。お願いしたいことは、商船や捕鯨船などアメリカ船が立ち寄った際に物資の補給をしてもらうこと(寄港地として利用させて欲しい)、そして遭難船員の保護をしてもらうことだ」という内容です。
これに対して幕府が出した回答は「来年になったら返事をするから、とりあえず帰って欲しい」というものでした。
こうしてペリー提督を退去させた直後、今度はロシア使節で海軍中将のプチャーチンの艦隊が長崎に寄港し、開国を要求します。
当時の幕府で国政を統轄した職は老中です。5万石以上の譜代大名がこの職に就きました。将軍の補佐役である大老は、老中より位の高い最高職ですが、譜代大名の名誉職的な意味合いが強い職でした。大老として権力を行使したのは、これから登場する井伊直弼です。
老中の筆頭として財政担当を専任したのが老中首座です。ペリーが浦賀に来航した際の老中首座は、備後福山藩7代目藩主の阿部正弘です。自らが治めていた備後福山藩の藩校をリニューアルしたり、思い切った人材登用や「大船建造の禁」の緩和を実行したりするなどいくつかの改革を行った政治家ですが、ペリー来航時には鎖国を理由に開国を拒絶しています。
しかし、ペリー提督を退去させた後、意外なことに阿部正弘は、諸大名や幕臣に「開国についてどう考えるか」と広く意見を求めたのです。彼のこの態度に対して現在「指導者として主体性がない」「優柔不断」という批判と、「外様大名が幕政に参加できる機会をつくった先駆者」という賞賛の意見の両方が寄せられています。中には阿部正弘が外様大名に意見を聞いたことで、彼らが政治に目覚め、討幕運動につながっていったと分析する作家もいるくらいです。
さて、ペリー提督ですが、翌年の1854年(安政元年)に再び来航します。今度の艦数は7隻。しかし、来航は幕府が予想した以上に早かったようです。どうやらアメリカ政府あるいはペリー本人が、ロシア使節プゥチャーチンに先を越されまいと焦ったようです。
そして横浜に上陸したペリーは強硬な態度で開国を迫りました。諸大名から意見を聞いた阿部正弘はついにペリーの要求を受け入れ、「日米和親条約」を結ぶことになります。こうして日本は開国を迎えます。
のちに日本人使節団の一員として渡米する小栗上野介は、この翌年の1855年(安政2年)に家督を継ぎます。1856年にはアメリカの初代総領事ハリスが来日し、下田に駐在します。ハリスのミッションは、日本と通商条約を結ぶことでした。つまりハリスは「わが国と貿易をしよう」と言い寄る営業マンです。ハリスはもともと商人。この機会に一儲けしようと企んでいてもおかしくありません。こうしてハリスは幕府にアプローチを続けます。
一方、老中首座の阿部正弘は1855年、開国・通商派の人材を免職させたことで譜代大名たちから反発を買い、下総佐倉藩主の堀田正睦(まさよし)を老中首座に推挙して引退。新たな外交担当の堀田がハリスと交渉を続けました。ハリスの意向は自由貿易です。それは外交に無知な幕府につけこんだもので、日本に関税自主権はありませんでした。その一方で、日本は「通貨の流出」という大きな危機を迎えていました。日本はこうして初めて世界経済の荒海に見舞われていくのです。
By Master K/益田 慶
1858年(安政5年)、総領事ハリスの通商開国の申し出を受け、幕府はこれに調印することになります。
しかし、これですぐに条約が結ばれたわけではありません。当時、対外的な条約のような国の重大事項については、勅許(ちょっきょ)、つまり朝廷(天皇)の許可が必要とされたのです。老中首座の堀田正睦は、京都に出向き、当時の天皇である孝明天皇に勅許を求めます。すると外国人嫌いの孝明天皇は、これを拒否。その頃の朝廷は排除思想ともいうべき「攘夷」に傾いていたのです。
堀田はこれを機に幕府での政治的な力を失います。将軍の後継者争い、攘夷思想の高まりなど多くの問題を抱えていた幕府は1858年春、彦根藩主井伊直弼を大老に据え、一挙に問題解決を図ります。のちに井伊直弼が渡米使節団の一員として小栗上野介を任命するのです。
井伊直弼は藩政改革を断行した名君として知られていました。また、ペリー艦隊が来航した際に江戸湾の防備に活躍し、発言力も増していたようです。
この井伊直弼が大老になった直後、歴史が変わります。井伊直弼は天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのです。この独断が朝廷や攘夷主義者の大きな怒りを買い、事件に発展するわけですが、それはこのあとの連載で記すとして、先に日米修好通商条約の要点を記しておきましょう。
(1) 神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港と江戸・大阪の開市
(2) 通商は自由貿易
(3) 開港場に居留地を置き、外国人の国内旅行は禁止
(4) 領事裁判権(治外法権)の承認
(5) 関税自主権のない協定関税制度の承認
特に(5)に注目してください。この条項は、日本にとってたいへん不利なものです。外国製品の関税を決める権利が日本に認められず、アメリカと相談しなければ税を決定できないという制度が採用されたのです。この「不平等条約」を解消するために幕府および明治政府は大きな外交努力を払うことになるのです。幕府が通商条約を結んだのは、アメリカ以外にオランダ、ロシア、イギリス、フランスなどがあります。
さて、ここで幕府が抱えてきた大きな問題が浮上します。幕府は鎖国体制のもとで通貨の金銀比価を行ってきましたが、これが国際相場との大きなギャップを生み出していたのです。幾度となく貨幣改鋳を実行し、幕末には計数銀貨が銀貨残高の大部分を占めていました。開港すると、その割高な銀貨は「同種同量の法則」に基づいて、素材価値が低くても重量のある洋銀(メキシコ・ドル)と両替されることになったわけです。ちなみにメキシコ・ドルとは、アジア圏内での貿易決済手段として広く流通していた銀貨です。
重量で見れば、天保一分銀3枚の総重量25.8g=洋銀(メキシコ・ドル)1枚重量26.8gとなります。
実質価値では銀高化が進み、金銀比価は当時の国際相場1対15を大きく上回り、国内では1対5でした。幕府は「金銀の交換比率は素材価値に基づいて算定すべきだ」とハリスに主張しますが、最終的に押し切られます。
開港によって何が起こるかといえば、メキシコ・ドルを日本に持ち込めば、銀貨の金貨価値が国際相場の約3倍も過大評価されるために、リスクなしで多額の利益を獲得できることになったのです。次のような流れです。
洋銀を一分銀と交換→金貨(天保小判)に両替→海外に持ち出す→地金と交換→洋銀と交換→多額の利益
つまり、通貨が流出し、国内は物価高に見舞われるという危機に直面していたのです。幕府は開港直前の1859年(安政6年)、天保一分銀よりも重量・含有純銀量を増やし、かつ額面を半分に落とした安政二朱銀を新鋳しましたが、諸外国から強い反発を受け、開港後まもなく中止します。
そして翌年、天保・安政小判の対銀貨の通用価値を約3倍に引き上げ、続いて1両当たりの純金量を約3分の1に引き下げる金貨改鋳を実施するまで、国内から巨額の通貨が流出したのです。
By Master K/益田 慶
1855年(安政2年)、小栗忠順のちの小栗上野介は、家督を継ぎました。幕府では、それほど地位の高くない使番(つかいばん)でした。これは大名の監察、城の受け渡しの立ち会い、目付けとしての地方出張などが主な任務です。
日米修好通商条約が調印された翌年の1859年(安政6年)、ようやく大老の井伊直弼に抜擢され、旗本や御家人を監察する本丸目付となり、外交担当の外国掛(がいこくがかり)に任命されます。その秋、小栗忠順は日米修好通商条約批准書交換の使節の一人に選ばれ、さらにその年の末、豊後守に任官され、小栗豊後守忠順が誕生します。
大老の井伊直弼が独断で行ったのは、日米修好通商条約の調印だけではありませんでした。紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派の中心人物であった井伊は、一橋慶喜を将軍にしようとする一橋派を押し切って、強引に徳川慶福を将軍の後継者を選んでしまったのです。しかも独裁に反対する一橋派を謹慎や江戸城登城禁止など徹底的に弾圧しました。これが世に言う「安政の大獄」(1858年~1859年)です。
厳しい処罰を受けた歴史上の重要な人物をひとり挙げるなら、処刑された吉田松陰でしょう。長州(山口県)の萩で松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、多くの弟子を育成しました。門下からは高杉晋作、内閣総理大臣・山県有朋(やまがたありとも)、同じく総理大臣を務めた伊藤博文などが輩出しています。
さて、1860年(安政7年、3月に万延と改元)1月、77名の遣米使節団が迎船パウアタン号に乗り込み、アメリカに向かって出港しました。随行船(護衛船)は幕府の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)。艦長はのちに小栗忠順と対立する勝海舟です。咸臨丸には従者として若き日の福沢諭吉、通訳として中浜万次郎(ジョン万次郎)が乗船していました。
遣米使節団の三役は、外国奉行であった新見正興(まさおき)が全権を与えられた正使、村垣淡路守範正が副使に、小栗豊後守忠順が監察に名を連ねました。遣米使節団の最大のミッションは、日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ)の交換でした。批准書の交換とは、調印した条約を国家として正式に認めて最終的に確定する手続きのことです。
しかし小栗忠順には他にも「日米両国の通貨の為替価値決定」という目標がありました。小栗は小判と金貨の交換レートに疑問を抱いていたのでしょう。のちに記しますが、彼は交渉をスムーズに進めるためにある道具を積み込んでいたのです。
パウアタン号は途中サンドイッチ諸島(ハワイの旧称)に寄港し、1860年3月、サンフランシスコ港に到着します。
同じ頃、日本は万延元年に改元し、井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」が勃発します。「安政の大獄」で前水戸藩主徳川斉昭が自宅謹慎処分されたことに激怒した水戸藩士の一部が脱藩し、薩摩脱藩藩士らとともに井伊の暗殺をたくらんだのです。白昼堂々と幕府の大老が襲われ、殺害されたことで、幕府の権威は一気に失墜します。幕府の力が弱まった理由は、経済面にも見受けられます。
おりしも、これまで使用していた小判の金の含有量を3分の1に減らした万延小判を改鋳したことで物価高が起こっていた時期。さらに自由貿易によって外国製品が安く国内に流れ込み、急に輸入額が増加していました。また、国内の既存の流通システムが崩れたのもこの頃です。江戸時代はあらゆる商品はいったん産地から江戸や大坂などの問屋に集められ、問屋から仲買、小売へと流れる物流システムが確立していました。
しかし、生糸や茶などの輸出品はとても人気が高かったため、農村を拠点とする在郷商人は、農家から生糸や茶を買い付けると、問屋を通さずにそのまま開港場へ直送してしまったのです。消費地である大都市では生糸や茶が極端な品薄状態になり、価格が上昇、連動して物価が上がっていたのです。
By Master K/益田 慶
今回は小栗忠順の「万延元年の為替レート交渉」を詳しく紹介します。これが日米間の史上最初の為替レート交渉です。幕府はアメリカの初代総領事ハリスをはじめ、オランダ、イギリス、ロシア、フランスの各総領事とも「同種同量の貨幣の交換」という条文を交わしていました。小栗はこのような不法行為はいつの日にか正すべきであると考えていたのでしょう。
サンフランシスコに到着した遣米使節団は大歓迎を受けました。市主催の歓迎式典に出席し、街を見物します。一行はその後、パナマ~カリブ海を北上~首都ワシントンというルートで進みました。ワシントンではホワイトハウスで大統領ブキャナンと批准書の交換を行いました。そして小栗は正使・新見正興とともに合衆国造幣局を訪れました。アメリカの金貨と日本の小判における金の含有量を調べ、交換比率を決めようとしたのです。
会議が開始されると、小栗は象牙でつくられた「天秤ばかり」を、従者の一人にはソロバンを持たせて臨みました。当時のアメリカの新聞は次のように記しています。
「それを見て、われわれはショックを受けた。アメリカでは鉄で出来ている部分が、日本製では象牙でつくられている。約1フィートの長さにわたって精緻な目盛りが刻まれ、皿とおもりがついている。実験してみると、一分の狂いもない精密さを維持していた」
またソロバンの便利さにも驚きを表わしています。
「日本の高級役人の一人は計算器を持っていた。五つずつ木のボタンが十五列並んでいる。そのボタンをあちこちに滑らせると、恐るべきスピードで計算ができてしまう」
チョンマゲを結った異国の人々の科学的な合理性を見直したのでしょう。
「さらに驚いたことに、日本の重量の単位は十進法だった。日本人のほうが、アメリカ人よりも合理的なのである」とも記しています。
小栗が主張したのは、「これまでのような目方だけで行うのではなく、金の含有量の多少によって正確に定めるべきである」というものです。アメリカ側もこれを当然な意見として聞き入れ、両国代表の立会いのもとで、アメリカ金貨と日本の小判における金の含有量の測定を行ったのでした。
再び当時のアメリカの新聞から引用します。
「日本使節団のメンバーが、通貨交換比率、為替レート問題のような、微妙でかつ難解なテーマについて、それを理解するに十分な知性と明敏さを持っていたことに、われわれは心から驚き、そして日本人に対して格別に好意的な印象を抱くようになった。この中で日本人最高の人物は、監査官オグロ・ブンゴ・ノカミであった。デュポン大使はオグロのことを“法務長官”と呼んで、特別に尊敬の意を示した」
小栗が「オグロ」と呼ばれていることはさておいて、実に堂々とした交渉の態度であったようです。
そして実験の結果、日本の小判のほうがアメリカ金貨よりも、かなりの多めに金を含有していることが判明しました。
しかしこれで交渉が終わったわけではあません。小栗は持論を説明します。
「日本の小判にもアメリカの金貨にも金以外の金属が含まれている。日本では銀を多く含有させているが、ドル金貨はどうなっているのか? これからの含有量も分析しなければ正しい交換比率の決定はできない。あなたの国のハリス総領事は、江戸で間違った交換比率を要求し、日本政府がそれを受け入れたために、通商貿易とは別に交換レートによって日本の経済は大きな損害を被っている。今回の合同実験で交換レートを正確に定める必要がある」
小栗は自信を持っていました。訪米前にアメリカの金貨には銀がほとんど含有されていないことを調査していたのです。突然の申し出にアメリカ側は「金の含有量を調べるだけで十分ではないか」「技術的に難しい」として小栗の提案を一度は拒否します。
By Master K/益田 慶
フィラディルフィアの造幣局に乗り込んだ小栗忠順は、「金以外の含有量を分析して正しい交換比率を決定すべき」と主張し、一歩も引きませんでした。当時のアメリカの新聞記事から小栗の様子を引用します。
「オグロ(小栗)は、どれだけ時間がかかっても結構と言って、動かなかった。それは、あきれかえるほどの忍耐心であった」
もともとアメリカ側は大がかりな合同実験を日本使節団とやることになるなど考えていなかったようです。小栗の要求でやむを得ず挑んだというのが正直なところでしょう。しかもこの交渉は幕府から正式に命令を受けたものでなく、いわば小栗の自己判断でした。彼は「一切自分ひとりで責任を取る」と言い切って交渉を開始したと伝えられています。
合同実験の結果、日本の小判のほうがアメリカの金貨に比べてはるかに良質であることが証明されました。ここで決まった新通貨交換・為替レートは次のようなものです。
●安政小判1両=3ドル41セント
日本側にきわめて有利な結論が出て、“日米間初の為替レート交渉”は終了します。
この実験結果を踏まえて交換レートは再評価され、日本は無用な金の流出を防止することが可能になったのです。
当時のアメリカの新聞は「将来、日本人がアメリカ人の教師になる時がくるだろう」と記しています。もともと独立精神の強いアメリカ人は自分の考え方を堂々と主張する人間を高く評価する傾向があります。小栗がアメリカで尊敬のまなざしで見られたのは、彼が子供の頃から宿していた“生意気さ”であったのかもしれません。日本では敬遠されがちな歯に衣着せぬ物言いが、アメリカでは効果的だったのでしょう。
そういった意味では、小栗は最初にアメリカ人に認められた交渉人、しかもタフ・ネゴシエイターであったようです。
一方、小栗はアメリカで多くのことをつかんだようです。港の大きさと船の巨大さに驚き、また初めて本格的な蒸気機関車に乗り、この鉄道を日本に建設するために必要な構造から建設に要するコストの計算まで行っていたといわれています。そして港や鉄道など巨額な建設資金を調達する方法として「コンペニー」(カンパニー=株式会社)というシステムがあることも知ります。
軍艦、新聞、造幣技術、蒸気機関車など科学技術の進歩を目の当たりにし、日本もこれらの科学技術をできるだけ早く吸収し、世界に対抗できる国にしなければいけないと考えたのでしょう。のちに勘定奉行に任官される小栗は、兵庫開港に際し、真っ先に「コンペニー」創立の必要性を説きます。
さて、遣米使節団一行は帰国します。諸説では帰国時に歓迎の儀式はまったくなかったとされています。帰国した1860年(万延元年)11月、小栗忠順は外国奉行に任官されます。翌1861年(文久元年)、小栗上野介に昇進。当時は名を変えることは昇進とされ、多くは役職の位が上がるのを機に改名されました。
しかし同年、上野介にひとつの試練が待ち構えていました。ロシア軍艦の対馬占領事件、通称「対馬事件」が勃発したのです。
ロシア軍艦のポサドニック号が対馬付近を測量し、芋崎浦に停泊。船体修理を名目として永住施設を建設しはじめたのです。対馬藩の抗議に対し艦長ビリレフは、設営資材・食糧・遊女を要求、芋崎付近の永久租借権とロシア軍による警備権をも要求してきたのです。
土地を侵された島民は激しく抵抗しました。幕府から派遣された外国奉行の小栗は藩の上層部とともに折衝に当たります。島民の抵抗を押さえる一方、艦長と交渉するとともにイギリスに折衝を依頼します。小栗はここでもタフ・ネゴシエイターぶりを発揮します。駐日英国大使オールコックが2隻の軍艦を派遣して退去を強硬に迫り、ポサドニック号は退去、事件は落着します。しかし小栗は事件の責任を問われて免職となります。
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1862年(文久2年)2月、小栗上野介が対峙したロシア軍艦の対馬占領事件、通称「対馬事件」で上野介は実力でロシア艦を退去させることはできませんでした。東洋での利権の争奪戦を演じているイギリスとロシアを互いに牽制させるというアイディアは上野介の発案であったとされていますが、実際に駐日英国大使オールコックに相談したのは老中安藤信正でした。上野介は外国奉行の役職を解かれます。解任については、安藤信正が上野介を更迭したという説と、上野介自身が辞表を提出したという説が残っています。
どちらにしても上野介がロシア軍艦を自力で排除できなかったことに屈辱を感じたことは確かでしょう。アメリカ帰りの上野介はこの時、おそらく日本の経済力、軍事力、工業技術の低さを痛感したからこそ、のちに幕府の反対を押し切って横須賀製鉄所を建設し、さらには日本初の株式会社と呼ばれる「兵庫商社」を設立するに至ったのではないでしょうか。
同年6月、上野介は勘定奉行勝手方(かつてかた)に登用されます。勘定奉行には、公事方(くじかた)と勝手方があり、前者は裁判を担当、後者は財政を受け持ちました。といっても財政大臣ではなく、中央官庁でたとえるなら次官か主計局長クラスです。
この時期に小栗家に出入りしていたのが、のちに三井銀行を創設する「三井の大番頭」三野村利左衛門です。素性ははっきりしていませんが、当時彼は菜種油や砂糖を販売する「紀ノ国屋」に気に入られ、入り婿となり、紀ノ国屋利八を襲名していました。コンペイトウの行商で貯めた資金を元手に両替商の利権を買い、油や砂糖の商売のかたわら、小規模な両替商も兼業していたようです。
当時の両替商は、両(金貨)を他の貨幣に替える商いでした。江戸時代には、金貨・銀貨・銭貨という3種類の貨幣が利用されていましたが、金銀貨の流通範囲は地域によって異なっていました。特に江戸と大坂では金銀貨と銭貨との価値が異なっていたので、3貨幣の交換業務が不可欠だったのです。
やがて両替商の業務範囲は広くなり、商人や大名などを主な取引相手として預金を受け入れたり、手形の発行・決済をしたり、金銭の貸し付け、為替の決済などの金融業務を担うようになりました。大手の両替商は大名向けの貸し出しを行い、大名の財政を資金面から支えるようになっていました。江戸で最大の両替商が、幕府御用達の「三井両替店」でした。
三井組(のちに三井グループ)の始祖、三井高利は伊勢・松阪から江戸に進出し、「越後屋」の看板で呉服店を経営し、短期間に財を築いた人物です。この越後屋が「三越百貨店」の起源です。三井高利は京都に仕入店(本店)を構え、大坂にも呉服店と両替店を開きました。
当時の呉服商人は、大名、武家、大商人をメインの顧客とする訪問販売を営んでいました。代金支払いは年2回が普通でした。掛売りですから値段も高かったようです。越後屋呉服店は発想を転換し、値段を安くして店頭売りとし、そのかわりに掛売りなしの現金商売を行いました。低料金の新品の着物を販売したことで庶民の人気を博しました。
越後屋呉服店からすれば、訪問販売に費やす人件費が削減でき、現金取引なので資金の回収が早いというメリットがありました。呉服で財を築いた三井組は、横浜の開港とともに横浜にも両替店を設けていました。
こうして三井と江戸幕府は深くつながっていきます。そして幕府の財政危機によって上野介と三野村利左衛門を窓口とした三井との関係も深くなっていくのです。
その接点が、小栗家に出入りしていた紀ノ国屋利八なのです。彼は勘定奉行の上野介が奉行所下役に対して「金と銀との交換レートを、金に対して約3倍有利なレートに変更する」と告げているのを小耳にはさみ、金の含有量の高い天保小判を買いあさりました。交換レート変更の布令が出たのちに銀と交換すれば3倍の利益が得られるからです。
By Master K/益田 慶
小栗家に出入りしていた紀ノ国屋利八、のちの三野村利左衛門の情報収集能力を逸早く見抜いていた男がいました。三井両替店の一番番頭、斉藤専蔵です。専蔵は利八を通じて勘定奉行の小栗上野介と接点が持てるよう働きかけます。
三井は横浜が開港された際に幕府に願い出て、外国奉行所御用達にしてもらった経緯があります。しかし新たに着任した上野介とは面識がありませんでした。
当時の外国貿易は幕府の管理下にありました。外国へ商品を販売した場合、外国商人からの代金はいったん奉行所へ入り、奉行所から商品を納品した国内の商人に支払われました。その際に関税も徴収されました。それらの業務を担ったのが、御用の認可を受けた三井のような商人でした。幕末は“民営化”が進んだ時代ともいえるでしょう。
貿易代金の納入から支払いまで60日の期間がありました。ご用達はこの間に資金の運用ができたわけです。この時代の金利は月1%が普通でした。三井両替店はここでも利益を上げていましたが、様々な要因から財政破綻の危機にあった幕府は、三井家などの裕福な豪商に献上金を強制しました。
一方の三井家もまた融資の焦げ付きや洋銀相場での失敗などが重なり、経営状態は悪化していました。
幕末に幕府財政が火の車であった理由は、1863年(文久3年)将軍家茂の二度にわたる上洛費、長州征伐費、軍艦購入費、四国連合艦隊との交戦の賠償金、薩摩藩士によるイギリス人殺傷「生麦事件」の賠償金など臨時の出費がかさんだからです。当時の幕府の財源は、直轄領400万石からの租税がメインでした。
財政危機をしのぐために考え出されたのが、豪商に対する献金命令です。幕府ご用達の両替商は地方で納められた税金を江戸で納金するので、巨額の公金を無利子で運用できました。納入から支払いまで原則60日でしたが、90日、150日といった特例も認められたといいます。そこで、三井家に献金命令が下されていたわけです。幕府が三井家に要求した額は50両でした。
三井家にできるのは減額申請だけです。そこで三井両替店の一番番頭、斉藤専蔵は小栗家に出入りしている紀ノ国屋利八を使って、上野介に減額申請を説くか、ワイロを渡して手加減してもらうか、戦略を練ったのでしょう。専蔵は献金を減額できる方法がないか、上野介に尋ねてもらえるよう利八に打診します。
紀ノ国屋利八を介して専蔵に返された返事は、「天下のためにできることを考えて欲しい」ということでした。
上野介の構想は次のようなものでした。
「融資する金のない幕府に代わって三井家が中小の商人に対して融資をする。原資は10万両。出荷商品を担保としてその商品価格の70%を3ヵ月期間で貸し付ける。利子は12%。原資10万両は横浜の三井両替店が預かっている関税を充当するが、これはもともと公金なので、三井家は幕府に年利10%の利子を支払う。商人に融資する利子と幕府に支払う利子の差額2%によって三井家は利益が出る。これを引き受けるなら、献金の減免を考えてもいい」
無利子だったものが、一転して幕府に年利10%の利子を支払うことになったことを苦々しく思った専蔵ですが、最終的に小栗案を了承します。しかし、京都の本店に納得させるには、献金の減免の確約と証人が必要です。これに対して上野介は「紀ノ国屋利八なら信用できる」と返答します。専蔵は勘定奉行の信頼の厚く、金融情報に明るい利八を雇い入れることによって大きなメリットが生まれることを悟ります。
上野介の幕府財政建て直し計画は、すぐさま実施されます。1866年(慶応2年)、中小商人に対する小口の融資制度「江戸市中荷物御引受当御貸付金」を施行。三井家はこの新制度の運営のために、両替店とは切り離した組織「三井御用所」を設置し、利八には「通勤支配格」と称する取締役クラスの役職が与えられました。利八は三野村利左衛門と改名し、三井グループの中で地位を築いていきます。
By Master K/益田 慶
幕末の財政の立て直しを指揮した小栗上野介。今回は上野介が挑んだふたつの大きな改革を紹介しましょう。
幕末期の幕府が担った出費の最も大きなもののひとつに、諸外国から購入した44隻の戦艦の購入費があります。その総額は333万6千ドル(現在の価値で340億円以上)でした。しかも満足に操縦できる人材が不足し、他国との交渉材料になりませんでした。他国から軍艦を購入すべきだと唱えたのは、かの勝海舟でした。
遣米使節の目付として渡米した経験のある上野介は、アメリカで造船所を見学しています。強い海軍を創設するためには自力で軍艦を建造することが必要だと考えたのでしょう。上野介は具体的な造船所の建設計画を練り上げます。アドバイスをしたのは、フランス公使レオン・ロッシュでした。
フランスが積極的であった理由は、当時ヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によって養蚕業が壊滅状態にあり、フランス最大の輸出品である絹織物の供給源として品質に優れた日本の絹が必要であったからです。実はロッシュはナポレオン三世の意向を受け、日本から絹を輸入する窓口になるべく、フランスから送り込まれてきた人物でした。
上野介は1864年(元治元年)、造船所建設案を幕府に提出します。勝海舟をはじめ大名からも多くの反発を受けましたが、2年後に第15代将軍となる徳川慶喜の支援もあり、建設案は受理されます。建設予定地は横須賀に決定します。
造船所の建設費は総額240ドル(現在の価値で240億円以上)。幕府は絹の利権を担保にフランスからの借款で充当することにしました。1865年(元治2年)、横須賀製鉄所の建設がスタートします。規模と建設費を考慮すると、当時のアジア最大の建設プロジェクトであったといえるでしょう。幕府認定の工事の責任者にフランス人を抜擢し、西欧の雇用規則や教育など近代経営を導入します。
さらに上野介は1867年(慶応3年)、15代将軍の徳川慶喜にある提案をします。「兵庫(現神戸)開港にともない、外国人と取引をする商社コンペニーを設立すべきだ」というものです。コンペニーとは、上野介がアメリカ視察で覚えた「株式会社」、特に外国貿易を営む商社のことです。上野介のビジョンは、有力商人から100万両を出資してもらい、株式会社を設立。そのコンペニーは3年間有効の同額の金札、銀札を発行、3年後に正貨と交換する。その財源の100万両は、兵庫開港による関税収入を充当。続いて幕府が100万両の金札を発行。これによって200万両の資金を幕府は利用できる。簡単にいえば、こういう構想でした。
やがて日本初の株式会社と呼ばれる「兵庫商社」が設立されます。
上野介は一度軍事奉行に転任するものの、勘定奉行を三度務めました。最後の役職は、海軍奉行を兼任する陸運奉行でした。この間に、前述した大きな改革を成し遂げただけでなく、諸色会所(商工会議所の前身)の設立、横浜フランス語伝習所(フランス語専門学校)の設立、横須賀製鉄所学舎(工業高等教育機関、企業内教育制度)の設立など多くの事業を起しました。また、中央銀行設立の計画、新聞発行の計画など近代化に欠かせないアイディアを提供しました。これらは外国貿易の商社(コンペニー)の利潤によって行えるとする画期的な構想でした。
1867年(慶応3年)に着工された「築地ホテル」は、明治5年に焼失するまで日本最初の本格的なホテルとして外国人から高い評価を得たホテルです。このホテルの開設について上野介は、「民間で行う者があれば土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から募り、利益を出資金に応じて分配する方法にするよう」と指導しています。第三セクター方式プラス株式システムの導入で自由競争をすべし、という近代的な発想です。
しかし、1867年の「大政奉還」によって上野介の人生は大きな転機を迎えます。将軍慶喜が「政権を朝廷に返上する」と発表したのです。
By Master K/益田 慶
今週と来週は、上野介の晩年を紹介します。それは政治・経済など国家を支える社会システムが激変した時代と重なります。
討幕運動が盛んになり、政治的な混乱が続きました。同時に開国にともなう経済的な変化が社会全体を不安にさせました。江戸や大坂などの大都市では物価が激しく上昇、経済政策に対する幕府の無能さがあらわになっていきます。
この時期に現在の赤字国債に近い性質の金融政策が実施されました。上野介が発案した、江戸と横浜においてのみ通用する金札の発行です。発行所は三井御用所、発行額は十万両。二十五両、十両、五両の三種の金札が用いられました。通用期間は2年で、2年後に正貨と交換するというものです。三井からすれば2年後に関税収入で充当してもらえるとしても、それまでは立替となるわけです。こんな非常手段を用いなくてはいけないほど、幕府の財政は追い詰められていました。
当時、各藩では藩内だけで通用する藩札を発行していましたが、領民たちはいやいや使っていたようです。新たに発行された、幕府が信用保証する金札は三井の信用に依存したものといえるでしょう。
1867年当時、上野介は海軍奉行と陸軍奉行を兼任していました。薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、推し進めている倒幕運動に対抗する重要なポストです。
同年10月、将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩から15代将軍徳川慶喜にあてて、大政(統治権)を天皇に返上する建議書が提出されました。そして遂に慶喜は「大政奉還」を発表しました。264年間に渡って江戸幕府、徳川将軍家が保持していた政権を朝廷へ返上すると申し出たのです。
大政奉還の上奏文を要約すると、「今日の時勢に至ったのは私の不徳のいたすところで恥じ入るばかりです。最近は外国との交際が盛んになり、政権がひとつにならないと秩序が保てなくなりました。政権を朝廷に返しますので、広く天下の議論をつくして天皇の決断をあおぎ、協力しあってゆけば海外の国々と肩を並べられるようになるでしょう」という内容でした。
折りしも、薩摩・長州両藩と朝廷内の実力者である公家の岩倉具視らによって「討幕の密勅」が発せられるようとした時でした。つまり、軍事力によって政権を奪うクーデターが勃発しようとしていたのです。慶喜はこの動きを未然に防いだという解釈もできます。また、慶喜は一旦は形式的に政権を手放すが、いずれ徳川家が政権を握れると判断したのかもしれません。
一方、結果的に討幕運動を停止させられてしまった薩長両藩と岩倉具視らは、天皇を手中にして朝廷をコントロールする計画を進めていました。
同年12月に「王政復古」の大号令を出します。これは「政権は天皇に移った」と宣言する政変でした。大政奉還しても朝廷による新政権は、徳川家がイニシアチブを握ることが予想されたことから、先に摂関制度(摂政・関白)と幕府を廃止し、総裁、議定、参与の三職を置く、天皇による新政府の設立を宣言したのです。と同時にこれは徳川幕府の廃絶を意味するものでした。
上野介は江戸城で主戦論を展開しました。薩長藩を武力で統一するという考え方が生まれたのは、幕府によって近代国家への脱皮を図るべきだという未来予想図を描いていたからでしょう。
「王政復古」の大号令の後に開かれた会議によって、慶喜は内大臣の官位辞任と領地の返上が命じられました。この会議に慶喜は出席しておらず、会議で決定した内容を聞くと京都から大坂城へ身を退きました。このニュースが伝わると、旧幕府側や多くの大名から不満の声があがり、同情論とあいまって新政府のリーダーに慶喜を据えようという動きも活発になります。旧幕府と薩長同盟の対立は激しさを増していきます。
By Master K/益田 慶
「王政復古」の発令後、薩摩藩が江戸で挑発的な乱暴を働くようになります。薩摩の西郷隆盛が藩士を使い、江戸城西の丸を放火し、旧幕臣やその家族を襲撃し、江戸の町と幕府を撹乱する戦法を選んだのです。現代的に表現するなら「ゲリラ活動」です。江戸には不穏な空気が漂いました。血気にはやる旗本らが報復に出ます。江戸にある薩摩藩の屋敷を焼き討ちしたのです。しかしこれは慶喜の新政府への参加を防ぐために仕掛けられた、討幕派のワナでした。この焼き討ちが「鳥羽・伏見の戦い」へと発展していくのです。
1968年1月、大坂城にいた旧幕府軍と会津・桑名藩の兵は、天皇がいる京の封鎖を試みて伏見に向かいました。薩摩・長州藩を中心とする朝廷政府軍は、京都の入口である鳥羽と伏見で待ち構え、ここで武力衝突が始まります。これが「鳥羽・伏見の戦い」です。
旧幕府軍15,000人、対する朝廷軍5,000人。わずか3分の1の人数で朝廷軍が勝利します。これは両軍の装備に圧倒的な違いがあったからです。旧幕府軍が火縄銃を武器にしたのに対して、朝廷軍は外国から輸入した最新式の小銃や大砲で迎え撃ちました。旧幕府軍の敗戦が決定的になると、慶喜は側近とともに密かに大坂城を脱出し、大坂湾に停泊中の軍艦開陽丸に乗って品川沖に着き、江戸城に帰還します。総大将の退去を知った多くの藩が旧幕府軍を見限ります。新政府が送り出した征討の軍隊は、こうして「官軍」と呼ばれるようになります。
慶喜が帰還した江戸城で開かれた緊急対策会議の席で上野介は、官軍に対する迎撃作戦を唱えます。上野介と榎本武揚が主戦派の急先鋒でした。迎撃作戦とは、東海道を進撃してきた官軍の一部を箱根の山中に誘い込み、後続の官軍を駿河湾に待機した旧幕府の軍艦が砲撃するという計画です。しかし主戦派の主張は退けられ、すぐさま上野介は役職を解かれます。
上野介の身を案じた、小栗家のかつての出入り業者であった三井の中興の祖、三野村利左衛門はこの時期に上野介にフランスへ逃げるよう懇願したといわれています。その時、上野介は「謀略ばかりの政治にはもはや興味はない。これからは教育が必要だ。学校をつくり、世界に通用するリーダーを育てたい」と語ったとされています。
役職を解かれた上野介は、「主君慶喜が新政府に逆らわないと決めたのなら、旧幕府軍が抗戦しても大義名分がない」として、彼の領地のひとつであった上州の権田村に移り住み、村の青年を集めて外国語や数学などを教え、余生を送ることにします。前将軍の慶喜は、謹慎生活に入ります。
しかし官軍は、上野介が望むようなのどかな暮らしを許しませんでした。1868年4月、東山道総監府軍(官軍)が「小栗に反逆の意図あり」として上野介追討令を上州の各藩に出します。官軍にとって旧幕府の主戦派の急先鋒であった上野介は恐れる相手だったのでしょう。
権田村の住まいの周辺を官軍に囲まれた上野介は家族だけ逃がし、官軍に捕らえられます。そして反逆に対するなんの取り調べもなく、家臣とともに斬首さます。小栗上野介、41歳。ここに彼の人生は閉じます。
上野介が斬首される約半月前、江戸城は無条件で官軍に明け渡されます。西郷隆盛を実質的な最高司令官とする官軍との和平交渉にあたったのは、旧幕府陸軍総裁を務めた勝海舟でした。かつて外国軍艦を買いあさり、幕府に経済的な負担を与えた勝海舟が「江戸城無血開城」に貢献した人物として歴史に残り、公共事業の推進や株式会社の設立を唱え、近代的国家の枠組みをつくろうとした上野介が官軍の手によって斬首されたのは、皮肉な結果です。
「「江戸城無血開城」の後、旧幕臣の抵抗による局地戦が続きますが、官軍の前にことごとく破れ去ります。こうして1868年はそのまま明治元年となり、新政府が誕生します。
次週は、明治政府のもとで貨幣制度の構造改革が進められ、1両=1円の割合が決定するまでを紹介します。
By Master K/益田 慶
1868年に明治政府がスタートしてからも数年間は、国内に多種多様な紙幣・貨幣が流通していました。明治政府が発行した太政官札(殖産興業を名目とした新政府の紙幣)や二分金、一分銀、幕府貨幣や藩札のほか、徳川時代の金・銀・銀貨などです。交換比率が設定されていたとはいえ、ひとつの国に多くの異なる貨幣が流通していたことで社会は大いに混乱しました。
明治元年、新政府はただちに海外へ造幣機械を発注、造幣所の建設に着手しました。そして明治政府は江戸時代の貨幣制度をそのまま踏襲か、新鋳するならどのような貨幣が適切なのかについて検討を始めます。最終的に全国統一の貨幣制度を確立することが近代国家の基盤になると判断されました。
こうして明治4年、「新貨条例」が公布されます。この条例によって、十進法に基づく円、銭、厘を単位とする新硬貨が発行されます。当時のアジアの貿易国が銀本位制を採用していたので、当初は銀本位制が内定していましたが、新制度では金本位制が採用されました。金貨を本位貨幣(金1.5g=1円)と定めたのです。
銀本位制から金本位制に変更されたのは、アメリカの政治・経済システムを学ぶ目的で渡米中の伊藤博文から「欧米諸国は金本位制へ移行している。日本も歩調を合わせるべきだ」という意見が出されたことによるといわれています。事実、イギリス(1816年)、ドイツ(1871年)、米国(1873年)、フランス(1876年)など、欧米主要国は次々と金銀複本位制や銀本位制などから金本位制へと移行し、この時期は国際的な金本位体制が確立する過程にあったのです。
しかし、その一方で明治政府は本位金貨に加え、貿易上の便益をはかる目的で「1円銀貨」(貿易銀)の鋳造も行われました。実質的には改革は「金銀本位制」で進められたというわけです。
新しい貨幣の呼称は「円」に決定し、アメリカ・ドル金貨1ドルに相当する1円金貨が基本貨幣に定められます。
新貨幣の呼び名が「円」に決定した理由には、
(1)新貨の形が円形に統一されたこと
(2)洋銀の中国別称である「洋円」を継承したこと
などが挙げられます。ほかにも香港銀貨の「壱圓」(洋円1個の意味)にちなんだという説もあります。また、大隈重信が「元」という呼称を提案していたという記録も残っています。
当時の日本の基本通貨は、幕末の金流出を契機として大量に発行された万延二分金でした。この二分金は2枚(1両)でアメリカ・ドル1ドルとほぼ等価とみなされていました。
そこで明治政府は、1両=1円金貨=1ドルと等価と定めたのです。「旧貨幣1両=新貨幣1円」と読み替えるだけで済むから、スムーズに新体制へ移行できると政府首脳が考えたのでしょう。
小栗上野介がアメリカで為替レートの改正に挑んでから11年後、ようやく「円」が誕生し、1円金貨=1ドルに落ちついたわけです。
「新貨条例」公布の翌年、明治5年には新しい政府紙幣(額面は百円、五十円、十円、五円、二円、一円、半円、二十銭、十銭)が発行されます。それまでに流通していた多種多様の紙幣の統一を図るのが目的でした。旧紙幣はこれらと交換回収されたのです。
しかし、貨幣システムが定着するまでには時間がかかります。幕末から明治初めの「負の遺産」が明治政府にはありました。明治政府はこれといった資産のないままにスタートしています。旧幕府軍と新政府軍が戦った「鳥羽・伏見の戦い」から「函館戦争」に至る、いわゆる「戊辰戦争」の戦費を明治政府は豪商からの御用金と不換紙幣でまかなっていました。明治政府を御用金によって金銭的に支援したのは三井でした。小栗上野介と親交の深かった三野村利左衛門が判断し、朝廷の軍資金に提供したのです。
一方、正貨準備のない不換紙幣は、なんの保証のない紙幣です。明治政府はこの不換紙幣を乱発したので、ますます価値が下がり、明治政府の財政は瀕死の状態でした。貨幣の価値は一気に下がり、これに正比例して物価は急上昇。インフレの到来です。明治10年には、再び不換紙幣を乱発し、金融システムは混乱します。
By Master K/益田 慶
明治政府が「1円金貨100円は、洋銀100ドルと等価である」と定めた結果、1円=洋銀1ドルというレートが生まれました。ここで注意しなければいけないのは、「1円金貨」と「1円銀貨(貿易銀)」の二つのコインがあったことです。内定していた銀本位制を覆して金本位制を選びながらも、実質的には「金銀本位制」が採用されたということです。
銀貨は貿易上の便益をはかる目的で鋳造されたとされていますが、新貨の1円銀貨は円銀の海外流出を願ってつくられたと同時に、メキシコ・ドルの追放という目的があったようです。明治政府は日本に悪をもたらす元凶として横行している洋銀、特にアジアを中心に流通していたメキシコ・ドルを国内から追放し、アジア市場に占めるメキシコ・ドルの地位を奪取、ひいては「円を国際通貨として流通させる」という構想を描いていたのです。
明治維新からさかのぼること4年前に当たる1864年(元治元年)、イギリスが香港造幣局を設立します。アジアに植民地を求めて進出してきたイギリス政府が、その造幣局で鋳造する香港ドルによって、アジアからメキシコ・ドルを追放し、それにかわって香港ドルを流通させるために建設したものです。
しかし、イギリス政府にとって予想もしない事態が起こりました。メキシコ・ドルの信用という壁を打ちかぶれなかったばかりか、中国人が香港ドルを額面価格の1%の割引でしか受け入れなかったのです。さらに中国人は受け取った香港ドルをただちにメキシコ・ドルに交換するという行為に出たのです。
このために香港ドルの鋳造は2年しか行われず、鋳造高もわずか200万ドルに終わりました。香港造幣局は明治元年に閉鎖されます。
この香港造幣局の機械を購入したのが明治政府でした。おまけに明治3年には、機械と一緒に元香港造幣局に勤めていたイギリス人技術者を雇用します。しかもこの機械は金貨や銅貨の鋳造には不向きの、銀貨専用の機械であったのです。いや、明治政府は銀貨専用の機械であることを知って購入したのです。メキシコ・ドルをアジアから追放し、アジアに流通させる円銀を鋳造する目的で機械を買ったのです。つまり、円銀が香港ドルの遺志を託された後継者のような存在になったのです。
国際通貨になることを願って鋳造された円銀ですが、当初は香港ドルと同じ運命をたどります。中国人が0.5~1.5%の割引率で扱ったのです。明治政府は明治6年、「損失・負担をかけた場合にはその費用・利子を日本政府が負う」という条件で、円銀をメキシコ・ドルと等価通用扱いで銀行に委託したり、円銀の鋳造手数料を引き下げたりしました。
やがて円銀は品位の確かさや贋造の少なさ、デザインの美しさなどの好条件も手伝って、徐々にメキシコ・ドルを駆逐し、流通圏を着実に広げていきます。やがてマレー半島から完全にメキシコ・ドルを追放し、中国や朝鮮、フランス領のインドシナの各地では、その国の貨幣と同等の価値として流通していきます。
しかし、明治26年にインドが「金為替本位制度」を採用、これに続くようにフィリピンやシャム、オランダ領東インド諸島、フランス領のインドシナなどが「金為替本位制度」を導入したことや、貨幣法が制定された明治30年の「第二次金本位制」の確立によって、銀貨は国際通貨の地位から脱落、アジアに流通していた円銀も本位貨幣ではなくなります。
そもそも新貨条例(明治4年施行)は金本位制度の確立を意識して作成されたものなのに、どうして明治政府が「1円銀貨」を鋳造したのかという疑問に対する答えは、「メキシコ・ドル対策」であったということです。これこそが、明治政府が最初に挑んだ海外に対する経済政策であったといえるのではないでしょうか。
しかし、円が国際通貨として認められるには、まだ数十年の歳月を要します。
By Master K/益田 慶
先週のコラムで1円銀貨鋳造の目的が、メキシコ・ドルの追放にあったことを紹介しました。それは明治政府がアジア圏で経済的なイニシアチブを握るための方策でした。長い間鎖国政策を敷いてきた日本は、国の近代化にも国際市場の進出にも大きく出遅れたという焦りがあったのでしょう。
明治初期の日本は、慢性的な国際収支の赤字状態が続きました。内外における市場金銀比価は法定比価を上回り、これまで良貨であった銀貨は逆に悪貨となりました。実質的には銀が本位貨幣の地位を占めていましたが、一方で明治4年に公布された貨幣制度に記された金本位制は維持されていきます。
金が再び本位貨幣の座に復帰したのは、明治30年になってからです。明治政府は、金のみを本位貨幣とする貨幣法を公布します。この貨幣法では、「1円は純金750mgと等価である」と定められました。
対外的には1ドルとほぼ同量の金であり、1両とほぼ同量の金を含む1円金貨を本位貨幣に据えることで、近代的貨幣制度の基本前提が完成したといえるでしょう。
円とドルの交換比率は、明治初期には1ドル=1円と定められていましたが、その後、実際にはドルのほうが圧倒的に力があるため、次第に円安に動き、昭和初期には1ドルが3~4円程度になっていたようです。
しかし、この金本位制はイギリスを除く欧米列強よりも先駆けるものであったことが、その後の100年の歴史を大きく左右することになります。日本経済を欧米列強が中心となっている国際市場へ直結させことになったのです。
1929年の世界恐慌により、金本位制は機能しなくなり、やがてすべての国が金本位制を脱退、第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制度を中心としたIMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が創設されます。
日本が太平洋戦争の敗戦国として再出発し、IMFという国際社会の仲間入りを許可された時には、固定相場が引かれ、円の対ドルレートは360円と評価されました。戦後の超インフレ時には仕方がなかったといえます。
長く続いた固定相場の時代から、円とドルの通貨の交換比率を示す外国為替レートは、その後、スミソニアンレート(1ドル=308円)という時代を経て、1973年2月より完全な変動相場制に移行したのは、周知のごとくです。その後、円の価値は上昇し、1985年の「プラザ合意」を経て、1988年には対ドル120円45銭という交換レートがマークされます。
日本の本位金貨、旧1円、2円、5円、10円、20円や新5円、10円、20円は1987年(昭和62年)5月末限りで流通停止となり、現在の管理通貨制度が実施されることになります。
単純にいえば、1988年の「対ドル120円」というレートは、国際社会復帰時の円に対して、およそ3倍の価値を持つようになったということです。「円高・ドル安」の推移は、他のコラムに譲りますが、「円」に見られるこの現象は、世界貨幣史上におけるひとつの奇跡と称されても差し支えないでしょう。
約150年前に小栗上野介が日米間初の為替レート交渉に臨んで以降、「円」は絶えず「ドル」の存在を意識しながら、時にはアメリカの金融政策に翻弄されながら今日に至ります。
ひるがえってみれば、ドル・円の為替レートの土台を築いたのが、江戸時代の敏腕外交官・小栗であったことが明確に見えてきます。国際通貨ではなかった両の為替レート交渉に挑んだ小栗の評価は、日本ではそれほど大きくありませんが、日本が近代国家へ転換する礎を築いた人物として再評価されてもよいでしょう。足早に紹介してきた小栗上野介の足跡は、日本が国際社会にデビューするきっかけを見いだした歴史ともいえるでしょう。
次週からは「小栗上野介が駆け抜けた時代」の各論、上野介が実施した政策に着目してみます。
By Master K/益田 慶
ロスチャイルド家の初代マイヤーは、ヨーロッパ最大の財産家に取り入れられるよう奔走します。今回はマイヤーが自ら構築した金融のメカニズムを紹介しましょう。
まず、大金持ちの領主の古銭収集に協力して大量のコインや紙幣を買い取ったり、預かったりします。「古銭を預かる」とは、現在の質屋と同じシステムのことです。顧客は金貨や銀貨をロスチャイルド商会に預け、「預かり証」を受け取ります。預かり証は貨幣と等価で支払いの用を果たしていました。預かり証のシステムは、金本位制の紙幣の原型と見ることもできます。
両替商は立派な金庫を持っていなければビジネスができません。預かったコインや紙幣は安全な金庫に保管されました。そこでマイヤーは預かった貨幣のほぼ3分の1の量が、受け取りに来ないまま金庫に眠っていることに気づいたのです。
たとえば3000マルク分の金貨を預かれば、2000マルクに対して書いた預かり証を発行し、2000マルクが世の中に流通することになりますが、1000マルクの金貨はいつも倉庫に眠っていることになります。
そこでマイヤーは、残りの1000マルクの金貨についても無断で預かり証を発行すれば、それを自らの資金として運用でき、他人の金貨を手元に利子をとることができると考えたのです。1000マルクが利子によって大金を生み出す可能性がある、つまりレバレッジ(テコの原理)です。金融派生商品(デリバティブ)と原理は同じです。ロスチャイルド商会は、このノウハウを自らのものにし、預かり証によって貸付け金利を手にしていきます。
やがてマイヤーは古銭を通じて知り合った財務担当者から、イギリス振出しの為替手形を割引く仕事をもらうようになります。この業務については後述しますが、マイヤーは宮廷御用達となったことで経済のしくみを学び、財力を貯えていきます。そして大きな転機が訪れます。
ロスチャイルド家が出入りするフランクフルト地方の領主ヴィルヘルム公の父、フリードリッヒ大王が他界し、ヴィルヘルム公はヨーロッパ最大の資産を相続してヴムィルヘルム9世となったのです。古銭の取引や手形の割引によって王家の信頼を得ていたロスチャイルド家は、「王家の宮廷銀行家」の地位に昇格し、国家財政の金融業務に携わるようになります。国王が領土を統治していた時代、王家の金融業務を担当することは、そのまま国家財政の金融業務に携わることを意味しています。
ロスチャイルド商会を運営するマイヤーには、5人の息子たちがいました。彼は息子たちに仕事を教えながら業務を拡大していきます。
マイヤーは、ヨーロッパ最大の財力を持つヴムィルヘルム9世の金庫管理業務に食い込みました。
ヴムィルヘルム9世は、国王になる前から、領内の若者を集め、兵隊にする訓練をほどこし、イギリスのように植民地戦争に明け暮れる国に傭兵として貸していました。多くの国が領土を奪い合うヨーロッパでは、「傭兵派遣」は珍しいことではありませんでした。兵隊不足のイギリスは植民地確保のためにドイツ人傭兵を雇い入れ、ヴムィルヘルム公は多額の金を儲けていたのです。イギリスは傭兵代金を小切手でヴムィルヘルム公に支払っていました。マイヤーが宮廷の金融業務を担うきっかけとなった手形の割引は、このイギリス振出しのものだったのです。
マイヤーは5人の息子の中から、長男のアムシェルと次男のサロモンをヴムィルヘルム9世の宮殿に専属金融担当者として差し向けます。そしてこれまで以上の多額の小切手の割引業務を請け負います。フランス革命の年、1789年からロスチャイルド商会は宮廷の正式な金融機関に加えられ、大銀行と肩を並べるようになります。
二十歳まで銀行に奉公していたマイヤーにとって銀行業務は得意な仕事でした。しかし、ロスチャイルド商会の狙いは、銀行業務だけではありませんでした。マイヤーは、イギリスが振り出した小切手をイギリスで購入する綿製品の支払いに利用すれば、手形の割引よりも2倍、3倍の利益を生み、手形割引の手数料も安くすることができる、と考えたのです。
By Master K/益田 慶
ロスチャイルド家の初代マイヤーは、本能的に「リスクヘッジ」を体得していた人物でした。当時は「リスクヘッジ」という概念もなければ、まだ近代経済学が確立されていない時代です。投資の損得を見極める彼の嗅覚は、学問によって得たものでなく、生きていくうえで身につけたセンスでしょう。
ロスチャイルド商会が金融業によって蓄えた多額の自己資金は、戦乱のヨーロッパ各国の軍資金として運用されていきます。注目すべき点は、この軍資金が敵国や味方の国という区別によって提供されなかったことです。わかりやすくいえば、儲かるところに投資されたのです。「利益を得ることができるなら、どの国が勝ってもよい」という考え方は、ヨーロッパ各国に散らばっていく5人の息子たちにも受け継がれていきます。いや、そもそも欧州に解き放たれた「5本の矢」自体が、ロスチャイルド家の「リスクヘッジ」を実践していたのです。
長男アムシェルは、父親が立ち上げたドイツ本店を継ぎました。1804年、三男ネイサンが27歳にしてイギリス・ロスチャイルド商会を創設。続いて1817年、 五男ジェームズがフランス・ロスチャイルド商会設立。1820年、次男サロモンがオーストリア・ ロスチャイルド商会設立。1821年、四男カールがイタリア・ロスチャイルド商会設立。それぞれが独立した会社としてスタートしました。
現在なら「支店の創業」ということになりますが、1800年代にすでに各国に支店を開き、金融ネットワークを築こうとした先見性は驚くべきことです。
当時のイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアなど列強諸国は緊張した関係が続いていました。当時はナポレオン・ボナパルトの全盛期です。ロンドンにロスチャイルド商会が誕生した1804年は、ナポレオンが皇帝となった年です。2年後には、ドイツ・ベルリンがナポレオンに征服されました。各国のロスチャイルド商会は独立しているので、投資先は異なっていても不自然ではありません。会社を構える国も経営者も異なるのだから、ナポレオン派と反ナポレオン派の双方に投資していても世間から見れば矛盾はありません。
ロスチャイルド家からすれば、どの国の君主がヨーロッパを支配するか、あるいは没落するか、いくつかの可能性を含んだ下克上の時代なのだから投資リスクは大きいはず。だからこそ独立した5人兄弟のネットワークは保険制度のようなものだったのでしょう。敵味方の両国に投資しておけば、必ずどちらかが勝者となり、戦後の権益が得られるのです。勝つか負けるか、50%の確率。ひとつに集中して賭けると、ゼロになるどころかマイナスになる可能性があるのであれば、両方に賭けてリスクを分散させる。これは昨今注目を浴びている学問「ゲーム理論」を実践しているかのようなやり方です。
さて、フランスの実権を握った風雲児ナポレオンは、ドイツに攻め込んできます。初代マイヤーの金融パートナーで、ロスチャイルド家が飛躍するきっかけとなった領主ヴィルヘルム9世は、王妃の実家であるデンマークに逃げ出しました。その財産を安全に貯蓄しておく任務を受けたのがマイヤーでした。マイヤーが信用できるパートナーであったことはもちろんのこと、戦乱にあっては大手銀行に財産を管理させるのはかえって危険だ、とヴィルヘルム9世は考えたのでしょう。
マイヤーは、ロンドンのネイサンに資産管理を託します。ナポレオンはヴィルヘルム9世のすべての資産を没収すべく、フランクフルトのロスチャイルド商会を捜索しましたが、帳簿を見てもヴィルヘルム9世との取引は記されていませんでした。マイヤーは二重帳簿をつけていたとされています。
ロスチャイルド商会が隠すように頼まれた現金60万ポンドは、ワイン樽に入れて秘密の場所に保管されていたという逸話が残っています。また、ヴィルヘルム9世が行っていた欧州の貴族への貸付金の回収もロスチャイルド商会が担い、各国にいる息子たちが回収し、ナポレオンの目を盗んでヴィルヘルム9世に届けられました。
By Master K/益田 慶
ロスチャイルド家の三男で、イギリスに渡ったネイサン・ロスチャイルドは、のちに「金融王ネイサン」と呼ばれます。彼は天才的な投機能力を持っていました。
ロンドンの金融街シティに登場する前のネイサンは、フランス革命の影響で流通が混乱し、綿製品が高騰していたことに目をつけ、イギリス・マンチェスターで綿製品を大量に安く買いつけてドイツに直送し、莫大な利益をあげていました。ネイサンは中間マージンを徹底的にはぶくために、買い付けだけでなく、綿糸から染色のための藍の売買まで手がけて総合的な綿製品業者として成功していました。
また、ネイサンは、ナポレオンに追われたヴィルヘルム9世の財産管理を委託された父親のマイヤーから「フランス軍の目から隠せ」と預かった、その財産を使って貴金属に投資し、これまだ莫大な資産を生み出したとされています。
1807年、ヴィルヘルム9世の60万ポンドの資金を年利3%の公債で運用しながら、そこで得た金を元手にして貴金属投機で利益率20%という利益を上げたとされています。また、イギリスがヨーロッパ同盟諸国(オランダ、プロイセンなど)に提供した4200万ポンドの資金の半分を彼が調達するほど強大な財力と権力を持つようになっていました。
さて、フランスを征服したナポレオンは1806年、敵対するイギリスに経済的な打撃を加えるために「大陸封鎖令」を発令します。これは、産業革命が勃興しつつあったイギリスとヨーロッパ大陸諸国との貿易を禁止して、 イギリスを経済的孤立に追い込むことが狙いでした。しかし、大陸諸国は豊かな経済力を持つイギリスと貿易ができなくなることに不安を覚えました。
ロスチャイルド商会は、この大陸封鎖令をも利用していきます。イギリスとその植民地から届いていた商品、コーヒーや砂糖、綿製品などが封鎖令によって輸入できなくなり、底をついて暴落したのを見たマイヤーと息子たちは、独自のルートを使って大々的に大陸にそれらの商品を運び入れ、売りさばいたのです。
ロスチャイルド家の人々は、金融だけに敏感なのでなく、需要と供給のバランス、ひいては人間の欲望や心の弱さにも敏感だったといえます。それは広義の“商才”と呼べるでしょう。大陸に物資を運ぶことは、フランスからすれば密輸ですが、商品の販路を失って経済的に混乱していたイギリスの経済界からすれば、安くしても売りさばきたいと願っていたはず。ロンドンのネイサンが安く買い叩き、兄弟が海岸で物資を受け取り、欧州各国に運び、高値で売ることによってファミリーはさらに巨大な利益を手中に収めたのです。皮肉なことにナポレオンは、ロスチャイルド家のビジネスを後押ししたことになります。
ナポレオンの戦いを描いた史記にロスチャイルド家の名前が登場することはありませんが、じつは当時ロスチャイルド家は陰で政治・経済に深くかかわる情報を操っていたという大胆な見方もできます。ロスチャイルド家の資産がナポレオン討伐に運用されたのです。
蒸気機関車が登場する前の交通手段は、駅馬車でした。郵便もこれを使っていました。日本ならさしずめ「飛脚」といった位置づけでしょうか。パリとロンドンの間にはドーバー海峡があるので、パリ-ロンドン間の郵便は片道4、5日かかったとされています。そんな状況の中、ロスチャイルド商会は、複数の専用馬車を欧州に走らせていました。荷物は手形や手紙、現金や密輸品です。しかも専用場所の荷台は二重底になっていました。さらに各国の兄弟に届けられる手紙は、北部ヨーロッパのユダヤ人が用いるイディッシ語に暗号めいた約束事を組み合わせたもので、知識のない者には解読不能でした。ファミリーだけが知りうる秘密を保持するための方策だったようです。
こういったファミリーの手練手管には、単に金儲けのうまさ、ずる賢さだけでなく、高度な「知性」をも感じます。そしてファミリーは戦争をも投機の材料として扱っていくのです。
By Master K/益田 慶
ロスチャイルド家が、政治・経済をも動かす欧州一の金融財閥に成り上がるきっかけとなった大賭博を紹介しましょう。ナポレオンがロシア征服をたくらみ、冬将軍と戦っている頃、ロスチャイルド家の専用馬車はナポレオンへの反撃の準備を記した密書を携えて各国を駆け巡っていました。ロスチャイルド家のネットワークが反ナポレオン戦線の通信網になっていたのです。
ナポレオン討伐を狙うイギリスのウェリントン将軍は、ナポレオンと戦う同盟国に1500ポンドの軍資金を用立てたとされています。この資金を調達したのがロスチャイルド家でした。彼らは親子・兄弟の連携プレーによって、ドーバー海峡を越えて金貨や手形を密かに輸送したのです。しかし、これは慈善事業ではありません。ロスチャイルド家は、「儲かるところに投資する」一族です。彼らの大きな賭けが始まっていたのです。ポルトガルでナポレオンへの反撃の機会をうかがうものの、軍資金に困窮するイギリスのウェリントン将軍に金貨を送り届けたロスチャイルド家は、この時、一族をあげた大きな勝負の時を迎えていました。
ナポレオン・ボナパルトの最後の戦いとなった1815年の「ワーテルローの戦い」。ヨーロッパを支配しようと侵略戦争を続けた皇帝ナポレオン率いるフランス軍と、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍(ホーエンツォレルン家が支配する王国の軍隊)が対峙した天下分け目のこの戦争の戦況を入手しながら、ロンドン・ロスチャイルド商会のネイサンは「その時期」を狙っていました。
ワーテルローでナポレオンが勝てば、イギリスの国債は暴落して紙くずとなります。反対にウェリントン将軍が勝てばイギリス国債は暴騰します。つまり「どちらが勝ったか」という情報をいち早く入手できる者が有利なのです。
ロスチャイルド家は「ワーテルローの戦い」の勝敗を見届ける者を手配していたので、イギリス軍の使者よりも早くイギリスのネイサンのもとに「イギリス軍勝利」の連絡が届きました。伝書鳩を使ったのか、伝達用の馬と船を配置しておいたからできたのか不明ですが、当時のロスチャイルド家はドーバー海峡に自家用の快速船を何隻も運航させていたという記録が残っています。また、ドーバーとロンドンの間にロスチャイルド家専用の早馬を常備していたともいわれています。そんな情報網によってネイサンはイギリスでただ一人、「イギリス軍勝利」の事実を知っていました。
ネイサンは、ただちにロンドン金融街シティの証券取引所に向かい、イギリス国債を売って出ました。ネイサンが売りに出たのを見て、「イギリス軍敗北」という情報が流れ、相場は大暴落しました。「大英帝国破滅の日が近い」と周囲はパニックに陥ったようです。そんな混乱の最中、紙くず同然となった国債をひそかに買い集めているグループがいました。ネイサンの使用人です。そして「その時期」を見計らってネイサンも国債の買いに転じました。
翌日、ウェリントン将軍の使いが「イギリス軍勝利」のニュースをイギリスに届けた時に、イギリス国債が破格の値上がりを示したことは言うまでもないでしょう。底値で買い、高値で売ったことで、当時の金で「100万ポンドの利益」を上げたという伝説が残っています。市場の小さな時代のことですから、この利益はまさに天文学的数字といえるでしょう。こうして金融王ロスチャイルド財閥が誕生し、このファミリーがヨーロッパ全土を支配するようになっていくのです。
この大きな賭けの結果を見ることなく、初代ロスチャイルドである父マイヤーは68歳で他界します。遺訓は「わが家の資産は一切公表しないこと。兄弟が仲良く手を取り合って事業を展開すること。ロスチャイルド家の事業の跡取りには男子しかなれないこと」などであったとされています。ファミリーの資産が公開されないことで、ロスチャイルド財閥は世界でもっともミステリアスな存在になっていくのです。
By Master K/益田 慶
1815年当時、「イギリス軍が敗北し、再びナポレオンが進軍してくる」と、偽りの情報を英国の大衆に吹聴し、英国ポンドを二束三文の価値しか持たなくしたロスチャイルド家。一方で国債をはじめ、株券、証券、不動産を手当たり次第に買いまくり、やがてイギリス軍が勝利したことが英国じゅうに伝わり、ポンドの価値が平常に戻った時点で天文学的数字の財産を築きあげたネイサン・ロスチャイルド。彼がロンドンで設立した投資銀行が「N・M・ロスチャイルド&サンズ」です。日本語でいえば「ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドとその息子たち」という社名です。
その後、ロスチャイルド家は、自らの富の中から「戦争復興のために」と称して1818年、プロシアに500万ポンドを融資し、債権を発行させます。また英国に対しても1800万ポンドを融資し、1825~1826年にかけて英国銀行へ十分な貨幣を供給しました。ロンドン証券取引所を事実上支配したネイサン・ロスチャイルドが、英国銀行の支配権を獲得したことは言うまでもありません。蛇足ですが、現在の「イングランド銀行」の理事にレオポルド・ロスチャイルド(N・M・ロスチャイルド&サンズ)、の名前が載っています。もちろんネイサンの子孫です。
のちにロスチャイルド家は、金(ゴールド)を紙幣発行の唯一の基盤とする「金本位制」を主張します。これは別の章で詳しく記しますが、「金本位制」は、ロスチャイルド家がファミリーの利益を拡大する目的とともにアメリカ合衆国にも大きな影響を及ぼす方策でした。それ以前にもロスチャイルド家がアメリカ独立戦争に深くかかわっていたことも、いずれの章かで説明します。さらにさらに、並行して連載中の「小栗上野介が駆け抜けた時代」(毎週木曜配信)にのちほど登場する、長崎グラバー邸の持ち主グラバーの背後に、ロスチャイルド家がついていたことも紹介していきます。
その前に他の兄弟の活躍にもふれましょう。1812年にパリに定住した末弟のジェームズ・ロスチャイルドもまたネイサン同様、金融ビジネスの才覚を発揮していきます。敗戦国フランスがイギリスに支払う賠償金の総額は7億フランでした。1817~1818年、この支払いを公債として引き受けたジェームズは、売却して得た金を投資家の貸し付けに流用しながら、年間50%の利息を稼いだといわれています。構造は現在の「ヘッジファンド」と同じです。
フランクフルトの本店を守る長男アムシェル、オーストリア・ウィーンに本拠地を置く二男のソロモン、ロンドンで大銀行家になった三男ネイサン、ナポリに移り住んだ四男カール、パリのジェームズ。19世紀前半に、この五極体制を構築したことは革命的でした。たとえばナポリのカールは、ナポリ国王の公債を発行するにあたり、ヨーロッパのどの主要国の通貨にでも換金できるようにしました。これはヨーロッパ全土に支店があったからこそ可能であった、金融経済史上初めての試みでした。
ロスチャイルド家が国際金融グループとして君臨していくこの時代は、産業革命がフランス、ドイツにも及んだ時代です。ロスチャイルド兄弟は、新しい産業にもどんどん投資していきます。
1814年にイギリスのスティーヴンソンによって発明された蒸気機関車が、1830年にマンチェスター-リヴァプール間を走りました。鉄道のスタートです。ロスチャイルド兄弟は、ヨーロッパの新たな機関産業である鉄道事業に融資します。
イギリスで鉄道事業がスタートすると、ネイサンは他の兄弟にそれぞれの国で鉄道建設の利権を確保して融資をするよう促します。いち早く実行したのは、オーストリアのサロモンでした。1835年、政府から鉄道事業免許を取り付け、ウィーン-ボヘミアン間に鉄道が開通しました。これがヨーロッパ大陸初の鉄道となったのです。一方、パリのジェームズは、パリ―サンジェルマン間、パリ―ヴェルサイユ間の鉄道を完成させ、フランスでは“鉄道王”と呼ばれるようになります。
By Master K/益田 慶
ロスチャイルド一族の金融ビジネスにおける先見性は、19世紀初頭に「ヘッジファンド」を実践していたことです。欧州を制覇しようとしたナポレオンがイギリス軍に大敗した際に、敗戦国フランスがイギリスとその同盟国に支払う賠償金の総額は7億フランでした。この支払いを公債として引き受けたのが、フランス・ロスチャイルド商会代表、ロスチャイルド兄弟の末弟のジェームズ・ロスチャイルドです。 前回紹介したように、ジェームズは、この公債を売却して得た金を投資家の貸し付けに流用しながら、年間50%の利息を稼いだといわれています。
1820年代に入ると、ほとんどの大国の大蔵大臣がロスチャイルド5兄弟に買収され、公債を発行して国の借金をつくり、その2倍近い金額をロスチャイルド商会に支払うという取引が行なわれたと言われています。ヨーロッパの主導権を握ろうとして激しくしのぎを削るイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの5カ国の対立構造を上手に利用し、プラスとマイナスの両者に投資し、結果としてトータルでプラスを生み出す「ヘッジファンド」の手法は、ロスチャイルド一族が編み出したと言っても過言ではないでしょう。
余談ですが、ヘッジファンドの大物、ジョージ・ソロスの能力を見抜いて、「ロンドン・スクール・オブ・エコノミック」に送り、経済の基本を教え、卒業するとロンドンの銀行で実務を教え込んだのが、ロスチャイルド・ファミリーであったことは有名な逸話です。ソロスは英国王室と親しく、エリザベス女王の資産運用を手伝ってきましたが、これはロスチャイルド家の紹介がなければ不可能でしょう。
さて、時計を19世紀に戻しましょう。金融ビジネスで才能を発揮したパリのジェームズは、一方で“鉄道王”と呼ばれました。フランスの8大鉄道で12の重役のポストを占め、のちにパリ分家の資産になります。
ロスチャイルド一族の資本が巨大化したのは、この時代です。1815年当時、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアのロスチャイルド商会の総資産は333万フランでした。3年後には4200万フランとなり、10年後には1億1840万フランまでふくれあがったと言われています。当時、パリのラフィット銀行の総資産が700万フラン、ナポレオンが設立した発券銀行であるフランス銀行の総資産が6000万フランとされた時代ですから、ロスチャイルド一族の資産がいかに大きかったかがおわかりいただけるかと思います。
しかし、この5兄弟が競うように活躍した時代も終焉を迎えます。1836年、天文学的な財を築いたロンドンのネイサンが58歳で他界します。翌年、ロスチャイルド一族はアメリカの代表者としてオーガスト・ベルモントを派遣します。
ロスチャイルド商会の米国における初期の3つの代理会社は、J・P・モルガン商会、クーン・ローブ商会、そしてオーガスト・ベルモントでした。オーガストは黒船で浦和に来航したペリー提督の娘と結婚。その後、アメリカ社会に入り込み、広大な利権を広げ、オーガスト・ベルモントはアメリカで大富豪になります。
やがてロスチャイルド5兄弟は、3代目に代替わりします。本家であるフランクフルトの長男アムシェル、ウィーン分家の二男サロモン、ナポリ分家の四男カールが1855年に相次いで亡くなります。そしてパリの五男“鉄道王”ジェームズが1868年に他界し、ヨーロッパに放たれた「5本の矢」は次代へと受け継がれていきます。息子に恵まれなかったフランクフルトの本家は、ナポリのカールの長男が経営を引き継ぎました。
3代目の時代、再びヨーロッパ史に残るエピソードが誕生します。ロンドン分家ネイサンの息子ライオネルが、イギリスの国運のかかった重要な局面に登場します。それが「スエズ運河株買収」です。イギリス政府が担保となってスエズ運河の最大の株主になるまでの逸話は次号で詳しく紹介します。
By Master K/益田 慶
金融王ネイサン・ロスチャイルドが1836年に他界した際の遺産は、6億フラン以上であったといわれています。この数字は、フランス国内の他のすべての金融業者の資産総額より1億5千フランも多いと推測されます。
ネイサンの息子ライオネルの時代にロンドン・ロスチャイルド商会は、18ヶ国の債権16億ポンドを取り扱いました。これは1900年のアメリカの金本位制の純金換算で78億ドル(現在の時価でほぼ10兆円)。
20世紀末のアメリカ中央銀行の保有額をはるかに超える財産を個人が所有していたことは、奇蹟のような事実です。ロスチャイルド家は、ロシアに君臨した女帝エカテリーナ2世の後継者である皇帝アレクサンドと皇帝ニコライの財産も支配しました。また、1814年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止されると、ロスチャイルド家がその利権を支配するようになります。インドには先進国のヨーロッパ諸国が求めた嗜好品、つまり紅茶、コーヒー、香料、煙草、アヘンが豊富にありました。1805年からインド独立の1947年まで、ロスチャイルド家に関連する人物がインド総監に任命され、貿易の利益は英国ロスチャイルド商会に吸い上げられたようです。
ロスチャイルド家は、アメリカにおける代理人オーガスト・ベルモンドの活躍でアメリカにも広大な利権を広げ、国際的な事業や戦争にも深くかかわるようになります。こうして今日でいうところの「多国籍企業」が誕生していくわけです。ファミリーにまつわるエピソードは数え切れませんが、「スエズ運河株買収劇」はロスチャイルド家のスケールの大きさを世界に見せつけた一例でしょう。
地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、ヨーロッパにとってアジアへの最短距離を可能にするものであり、中東諸国にとっては利権争いの源になりかねないものでした。スエズ運河の建設は当時の大国の協力が必要と見なされ、イギリス、ドイツ、アメリカなどに声がかけられたが、最終的にはフランスとエジプトが中心となり進められました。イギリスはスエズ運河建設計画に無関心でした。
1859年の着工から10年の歳月をかけてスエズ運河が1869年に開通すると、世界の海運地図ががらりと変わりました。喜望峰まわりの半分の距離でインドに達することがわかると、インド貿易を支配していたイギリスはスエズ運河を利用しないわけにはいきませんでした。フランスやドイツとヨーロッパの覇権争いを繰り広げてきたイギリスにとって、スエズ運河会社の株式は、とても魅力的なものに見えました。イギリス国内でも「スエズ運河建設に出資しなかったことは大いなる失策」と非難されました。
1875年に事態は急変。運河建設に多大な出資をしたエジプトのイスマイル・パンシャが財政に破綻をきたしたのです。同社は保有するスエズ運河株を売却する方策をさぐりました。放出する株は、時価ににして400万ポンドでした。
当時のイギリス首相は、ロンドンのロスチャイルド家と親密な関係にあったディズレリーです。当時のロンドンの金融界のボスは、ネイサンの長男ライオネル・ロスチャイルドです。ディズレリーはライバルのフランス政府に株の買収を知られないように動きました。
イングランド銀行から公金を引き出すには、国会の承認が必要でした。これには時間を要すると考え、ディズレリーはライオネル・ロスチャイルドに400万ポンドを貸してくれるよう依頼します。その際にライオネルが「何を担保とするのか?」と聞いたところ、首相の使いは「イギリス政府です」と答えたといいます。
ライオネルはロスチャイルド銀行からポンと400万ポンドを提供。こうしてイギリスがスエズ運河の最大の株主となったのです。
大英帝国の歴史上、最大の富豪は、当時のヴィクトリア女王であったとされていますが、女王の全資産は500万ポンドでした。ロンドンのロスチャイルド家はそれ以上に資産を持っていたことになります。ライオネルはこの融資で再び大もうけしたといわれています。
By Master K/益田 慶
ロスチャイルド家は、政略結婚によってヨーロッパ最高貴族の仲間入りも果たします。また政界にも深く入り込んでいきます。金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫娘ハンナ・ロスチャイルドの夫ローズベリー伯爵は、イギリス首相として政界に君臨しました。やがてロスチャイルド家がイングランド銀行理事に任命され、サッチャー首相、メージャー首相の政策をも動かすことになるのです。
金、ダイヤ、ウランの産出国、南アフリカを長年支配したのもイギリスでした。ロスチャイルド家は、植民地獲得の費用をひねり出すために国債発行に協力し、時には事業に投資する形で獲得した植民地に乗り出していきます。前号で少しふれたインド貿易がその一例ですが、今回はロスチャイルド家が世界のダイヤモンドと金の相場を動かすまでに至る布石を紹介しましょう。
その舞台は南アフリカです。1866年、南アフリカで一農夫が“光る石”を発見します。のちにこれは「アフリカの星」と呼ばれるダイヤにカットされます。相次いで金鉱も発見されると、南アフリカはゴールドラッシュに沸きました。
前号でスエズ運河株の買収を手がけた、ディズレリー英国首相、その後継者であるグラッドストーン首相はイングランド銀行と組んで南アフリカの植民地政策を進めます。ロンドン・ロスチャイルド家は、ゴールドラッシュの当初、代理業者「アングロ・アフリカン・ダイヤモンド鉱山会社」に投資していました。ダイヤモンドの良質な原石を産出するキンバリー鉱山一帯で大きな影響力を持っていたのは、セシル・ローズが経営する「デ・ビアス」です。日本でも著名なこの企業が、のちに世界のダイヤモンド供給の80%を支配することになります。
セシル・ローズはロンドンのロスチャイルド銀行を訪れ、融資を依頼します。ロンドン・ロスチャイルド家のナサニエル(金融王ネイサンの三男)は100万ポンドの融資を約束し、セシル・ローズはアングロ・アフリカン・ダイヤモンド鉱山会社を吸収し、品質、量とも世界最大の南アフリカのダイヤモンド鉱山は、デ・ビアスという一社に独占されることになります。もちろん、ロスチャイルド家は「金も出すが、口も出す」ファミリー。もともとダイヤの加工に関しては、ユダヤ人が得意とする仕事です。ロスチャイルド家は、デ・ビアス社のダイヤモンドを売るヨーロッパの販売網を整備し、やがて世界のダイヤモンド・シンジケートを築いていきます。
1889年、セシル・ローズは英本国政府の特許を得て、採掘のための会社「英国南アフリカ会社」を設立します。1890年には、ケープ植民地の首相に就任。さらに英国本国政府の監督下という条件で軍隊も持つようになります。イギリス・ヴィクトリア女王と首相ディズレリの大英帝国領土拡大政策をロスチャイルド家が支援し、セシル・ローズという怪物を誕生させたということでしょうか。
そしてもうひとつロスチャイルド家が世界の「金(ゴールド)」をコントロールするに至る経緯も南アフリカにありました。セシル・ローズが他界した年に、アーネスト・オッペンハイマーなる人物が登場し、これまたロスチャイルド家の支援を受け、南アフリカに金、ダイヤモンド、クロムなどの採掘・生産を行う「アングロ・アメリカン」を設立します。南アフリカは、世界の金の産出国でもあったのです。オッペンハイマー財閥はここからスタートしました。
オッペンハイマーはやがてデ・ビアス社の社長に就任し、金と銀の取扱い高世界1位、クロムの取扱い高世界2位、さらに世界のダイヤモンド市場をコントロールする大富豪になります。
そしてロスチャイルド家は、世界の金相場を操る権力を得ました。金(ゴールド)の価格は1日2回、ロンドンにある「N.M.ロスチャイルド&サンズ社」の通称「黄金の間」で行われる現物取引の価格が世界的指標となっていったのです。先ごろ、「ロスチャイルド家が金相場から撤退した」というニュースが流れましたが、真相は定かではありません。
By Master K/益田 慶
世界の金融を支配し、ダイヤモンドや金(ゴールド)の市場をコントロールするまでに至ったロスチャイルド家は、同時に石油や原子力、化学、兵器の分野にも進出しました。
前号で南アフリカの天然資源を発掘、生産する企業にロスチャイルド財閥が融資を行い、世界的な独占企業に成長させた経緯を紹介しましたが、南アフリカの大地にはウランも眠っていました。
イギリスに本社を構える、ウランの採掘、開発を担う最大手「リオ・ティント・リンク」は、もともとイギリス・ロスチャイルド家が経営する鉱山全般を扱う「リオ・チント社」がスペインの「コンソリデーテッド・ジンク社」を吸収して誕生したものです。地面に穴を掘る作業は、ロスチャイルド家が融資した、ダイヤモンドの「デ・ビアス社」、金の「アングロ・アメリカン社」とも同じです。どれが豊富に発見されるかは時の運で、掘り出した鉱石を3社が交換しあう関係を築いておけば、効率よく進むはずです。
余談ですが、アフリカの黒人を鉱山で強制的に働かせ、人種差別を推し進めた「アパルトヘイト政策」を背後で操っていたのは、南アフリカに進出した前出した巨大企業とイギリス政府ですが、彼らに資金を提供したのが、これまた世界各国で弾圧をされてきたユダヤ人、その最も成功した一族であるロスチャイルド家であったことは皮肉といえるかもしれません。
話をウランに戻しましょう。ヨーロッパの原子力産業に欠かせないのが、ロスチャイルドグループの「リオ・ティント・リンク」です。1903年にラジウムの発見、放射能の研究によってノーベル賞を受けたキューリー夫人の研究のスポンサーとなったのが、ロスチャイルド財閥であったことは有名です。ロスチャイルド家は、「金になりそうな研究・開発」に融資し、やがて投資に見合う利益を回収する一族です。
フランスは総発電量の約80%を原子力に依存し、同時にヨーロッパ中に電気を供給している原子力大国です。これはパリのロスチャイルド家が資金面で支援したからこそ可能になったことです。もちろん、莫大な利益を回収できたことでしょう。
さて、続いて石油にも目を向けてみましょう。ドイツのダイムラーがガソリンで動く内燃機関を発明した1883年以降、爆発的な石油ブームが起こりました。同じ頃、アメリカでは1870年、ロックフェラー兄弟が「スタンダード石油」を設立し、その10年後にはアメリカの大富豪の一人に数えられるまでになっていました。
当時、中東の油田はまだ発見されておらず、ヨーロッパではカスピ海のバクー周辺の油田が最大のものでした。ロスチャイルド・パリ家のアルフォンス・ロスチャイルドは1883年に、ロシア政府の財政難を助けるために公債を引き受けました。その見返りに、バクーで最大級のバニト油田を入手しました。
イギリスの「シェル」とオランダの「ロイヤル・ダッチ」は、当時アメリカで支配権を確立したロックフェラーの「スタンダード石油」に対抗するために、歴史的な合併をし、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が1907年に誕生します。この合併を推進したのが、ロスチャイルド家と深い結びつきのあるユダヤ人、ロバート・コーエンでした。ロックフェラー財閥をライバル視していたのは、ヨーロッパの石油会社だけでなく、すでにアメリカにも進出している、ユダヤ人を中心とした多国籍業のロスチャイルド財閥だったともいえるでしょう。
ロイヤル・ダッチ・シェルは、販売する石油を確保するために、1914年にロスチャイルド所有の油田を買い取ります。ロスチャイルド家は売却代金として、400万グルデン相当の「ロイヤル・ダッチ」の株(全株式の10%)と、24万ポンド相当の「シェル」の株を手にし、「ロイヤル・ダッチ・シェル」の大株主となります。
以後、ロスチャイルド一族は中東の石油を発掘し、ヨーロッパ最大、世界第2位の石油会社に成長させ、「ロックフェラー」と対峙することになります。
By Master K/益田 慶
「ロイヤル・ダッチ・シェル」の大株主となったロスチャイルド財閥。以後、ロスチャイルド一族は中東の石油を発掘し、ヨーロッパ最大、世界第2位の石油会社に成長させます。最大のライバルは「エクソン・モービル」です。
ロックフェラー財閥グループの「エクソン・モービル」(日本ではエッソやモービル、ゼネラルなどのブランドとしておなじみ)対ロスチャイルド財閥の「ロイヤル・ダッチ・シェル」(こちらは“貝のマーク”でおなじみのシェル)という図式です。ここに三井商事、三菱商事、伊藤忠商事などの大手商事会社が加わり、石油業界の系図が見えてきます。
いや、それだけではありません。ロックフェラー財閥グループとロスチャイルド財閥グループは、その後さまざまな分野で対立構造を示していきます。これが20世紀に企業グループとして明確になっていくのです。
ボーイング対ロッキード、メリル・リンチやモルガン・スタンレー対ゴールドマン・サックス、ゼネラル・モータース対フォード、GE(ゼネラル・エレクトリック)対デュポン、AP通信対ロイター通信、ペプシコーラ対コカ・コーラなど、例を挙げればキリがありません。見方を変えれば、米保守系本流対ユダヤ系資本の対立です。これらはロックフェラー財閥グループとロスチャイルド財閥グループの代理戦争のような様相を呈して今日に至ります。これらはいずれこの連載の中で説明していきます。
さて、ロスチャイルド家がバクーの油田を売却して、わずか3年後にロシア革命によって、ロシアのロマノフ王朝が倒れ、外国資産はすべて国有財産として没収されました。ロスチャイルド家は天才的な見事な売り逃げでした。当時「ロスチャイルド家はロシア革命が起こることをすでに知っていたのではないか」という憶測が流れましたが、世界に情報ネットワークを張りめぐらせたロスチャイルド財閥なら、不可能ではなかったでしょう。
一方、合併によって「ロイヤル・ダッチ・シェル」を誕生させたロバート・コーエンは、オランダの食品大手「マーガリン・ユニ」と、イギリスの食品大手の「リーヴァー・ブラザーズ」も合併させます。ここにもロスチャイルド財閥の資本が流れ、欧州の企業グループのひとつが誕生するわけです。また、ロバート・コーエンの息子のバーナード・コーエンは、ロスチャイルド資本で起業した、ダイヤモンド会社「デ・ビアス」と取引するイスラエルの「ユニオン銀行」副会長となり、のちにロンドン市長に就任しました。
時代はロスチャイルド家がバグーでバニト油田を手に入れた1883年に戻ります。バグー油田に、アルフレッド・ノーベルというスウェーデン人化学者が油田開発に進出していました。ダイナマイトを発明し、のちに「ノーベル賞」の名前になる人物です。彼は当時の採掘技術や輸送技術では、採算をあわせるのは困難だと悟り、ロスチャイルド家の融資を仰ぎ、「ロスチャイルド・ノーベル企業連合」が誕生します。
ロスチャイルド財閥は、ノーベルやキューリー夫人など多くの科学者のスポンサーになり、科学の発展に寄与しましたが、一方で戦争に欠かせない武器の製造にも加担していきます。火薬製造に関して「デュポン」と秘密協定を結び、火薬市場を独占していったのです。デュポンは現在世界最大の化学会社で、アメリカ有数の財閥のひとつですが、創業のルーツはフランスにあります。フランス人の創業者がフランス革命を避けて渡米し、火薬工場を設立します。20世紀に入ると、第一次世界大戦、第二次世界大戦時に各国に火薬や爆弾を供給し、化学兵器や核兵器開発に深く関与していきます。ロスチャイルド家の背後には、戦争をビジネスとして捉え、財を築いていく「死の商人」の影が見え隠れします。
実はロスチャイルド家と日本政府とのかかわりは歴史に刻まれているのです。
By Master K/益田 慶
戦争といえば、日露戦争(1904~1905年)で日本政府に間接的に金融支援をしたのがロスチャイルド財閥であったことは有名な話です。近代化に出遅れた日本政府の心配は、性能に劣る武器と軍事費の不足でした。戦争を遂行するためには、1億5000万円の外貨支払いが必要とされるのに、国庫には5200万円しかなかったとされています。当時の「円」はまだ国際通貨として認められていなかったので、海外から武器を調達する際にも大きな支障をきたしていました。当時の日本政府が取った方法が、戦時公債を発行して、不足分の約1億円をまかなおうというものでした。
日露戦争における戦費をまかなうために発行された戦時公債。その公募のために英米に派遣されたのが、当時日銀副総裁でのちに内閣総理大臣となる高橋是清でした。彼は徳川慶喜が朝廷に政権を返上した「大政奉還」(1867年)の年に、勝海舟の息子と一緒にアメリカとイギリスへ留学しているので、英語は堪能でした。
最初に向かったニューヨークの金融業界は、日本の戦争公債にまったく無関心でした。ナポレオン皇帝率いるフランス軍を破ったロシアの軍事力は世界最強と見られていたことも大きく影響しているでしょう。「世界の強国ロシアに小さな島国が勝てるわけがない」というのが世界各国の一般的な認識だったのです。
高橋はすぐにイギリスへ渡り、シティの金融業者にあたり、500万ポンド(約5000万円)の調達にこぎつけた。イギリスの金融業界が日本政府を支援した背景には、イギリスの植民地政策が深くかかわっていました。ロシアの南下政策が南アジアに権益を持つ自国に被害を及ぼすと危機感を募らせていたイギリスが、同盟先として日本を選んだのです。
「日英同盟」は大いに機能し、当時世界最強と謳われた、かのバルチック艦隊のスエズ運河の通過をイギリス政府が拒否したことで、無敵艦隊はアフリカ最南端のケープタウンまで迂回する航路を取らざるを得なかったのです。
高橋は当然のことながら、シティ金融業界のボスであるロスチャイルド親子銀行へも出向きます。実はロンドン・ロスチャイルド家のチャールズ・ロスチャイルドは日露戦争の前年1903年に来日し、明治の日本経済の発展に興味を抱いて帰国したのでした。ロスチャイルド家は正面切って反ロシア的な態度を取ることはできないまでも、ロシアのユダヤ人弾圧には激しい怒りを抱いていました。そこで直接、日本の公債を引き受けるのでなく、代理人を立てたのです。
ロスチャイルド家の口利きで登場したのが、ニューヨークで「クーン・ケーブ商会」を経営するユダヤ人資本家ジェイコブ・シフでした。シフが残り500万ポンドを用立てることになったのです。シフはアメリカ・ユダヤ人協会会長職にある人物でした。「日本に勝ってほしい」というより「ユダヤ人を弾圧するロシアをこらしめてやりたい」という気持ちのほうが強かったのかもしれません。
こうして日本の公債1000万ポンドはイギリスとアメリカで発行されることになったのです。ロスチャイルド銀行は発行銀行にはならず、下請けに入って手数料を手に入れます。戦費の調達のメドがついた日本政府は、戦争の長期化を予想し、その後もポンド建ての外債を発行しました。第3回と第4回目の外債発行には、ロンドンとパリのロスチャイルド家が発行団に名を連ねました。調達総額は約8億2000万円。その資金で武器、弾薬、戦艦を購入し、ロシアとの戦いを勝ち抜いたのです。
こうして日本は朝鮮半島と満州(中国東北部)の権益を得ることになります。一方のロシアは敗北をきっかけに極東での南下政策を断念し、進出の矛先を再びバルカン半島に定めます。これがドイツやオーストリアとの対立を招き、イギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替えます。ドイツはそんなイギリスに敵対意識を抱き、世界情勢は「イギリス・フランス・ロシア」の三国協商と「ドイツ・オーストリア・イタリア」の三国同盟の対立へと向かうのです。
By Master K/益田 慶
今回はワインの話をしましょう。もちろん、ロスチャイルド家と深くかかわるワインにまつわるエピソードです。金融業を中心に幅広い事業を展開するロスチャイルド財閥の事業の中でひときわ異彩を放つのが、ワイン製造販売事業です。
ワインに詳しくない人でも、世界で最も有名なワインの産地「ボルドー」という名前を耳にしたことがあるでしょう。フランス南西部ボルドー地域で産出される赤ワインは、伝統と品質に裏づけされたワインとして世界中のファンに愛されています。では、その赤ワインの中でさらに美味とされる第一級(プルミエ・クリュ)の格付けはご存知でしょうか?
1855年に決定された4大ブランド(シャトー)が「シャトー・ラフィット・ロートシルト」「シャトー・マルゴー」「シャトー・ラトゥール」「シャトー・オー・ブリオン」です。最初に挙げた「ロートシルト」とは、ドイツ語で「ロスチャイルド」という意味です。
パリ・ロスチャイルド家がボルドー地方のメドックにある「ラフィット」のブドウ園を買ったのは1868年。フランスの鉄道事業に進出して成功し、“鉄道王”と呼ばれた2代目ジェームズが死去する直前のことです。売りに出されたブドウ園が高価であったために買い手がつかなかったものを、競売でパリ・ロスチャイルド家が購入したと伝えられています。金融業に長けたロスチャイルド家だけに採算の見込みは十分にあったのでしょう。
実はその15年前の1853年、隣接する「ムートン」のブドウ園を、ロンドン・ロスチャイルド家のドン、ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが購入していました。1855年の格付けでは、「ムートン」は二級という格付けでした。
パリ・ロスチャイルド家が「ラフィット」のオーナーになり、努力もせずに一級の格付けを獲得したことに、ロンドン・ロスチャイルド家は不快感を示します。欧州に放たれた五本の矢は、互いにライバル心を燃やしながら競い合っていたのです。そしてロンドン分家とパリ分家の「ワイン戦争」が始まります。
ロンドン・ロスチャイルド家は「ムートン」を第一級に格上げすべく、いろんな手を打ちます。土壌の改良や品質の向上に加え、ラベルを世界的な芸術家の絵に切り替えたのもそのひとつです。ピカソ、ダリ、ミロ、シャガール、ゴーギャンらの絵が毎年ラベルに登場し、ボトルを並べるだけで「名画コレクション」になったのです。ロンドン・ロスチャイルド家は古めかしい格付けを改定しようとフランス国内で呼びかけます。一方のフランス・ロスチャイルド家は「ムートン」を除いた4大ブランドと組んで、既得権の防衛に動きます。
そして1973年、ついに格付けの再検討が行われ、「ムートン」が第一級に格上げされたのです。他の多くのワインについても検討されたにもかかわらず、「シャトー・ムートン・ロートシルト」だけが昇格した背景には、ロンドン・ロスチャイルド家の政治力が使われたと見られています。
こうしてロスチャイルド家は、結果として「ラフィット」「ムートン」という二つの第一級ワインのオーナーとなったのです。これを好機と捉えた、パリ分家のエドモンはワインのカタログ販売で成功を収め、ロンドンのフィリップはムートンにワイン美術館を建設し、観光地として開発したほか、カリフォルニアにも進出し、現地に合弁事業を立ち上げ、カリフォルニアワイン「オーパス・ワン」に「ムートン」のノウハウを投入したのです。「オーパス・ワン」は現在“カリフォルニアワインの父”と呼ばれ、カリフォルニアが生んだスーパー・プレミアムワインとして日本では1本25,000円前後で販売されています。
一方「ラフィット」オーナーのパリ・ロスチャイルド家はポルトガル、チリでもワインビジネスに進出しました。ビジネスチャンスと見れば、どんどん先行投資をしていくのが、ロスチャイルド財閥の手法です。ロスチャイルド財閥には、「ワイン財閥」という横顔もあるのです。
By Master K/益田 慶
欧州財閥を代表する伝統的な財閥ロスチャイルドは、現代的なボーダレス財閥の先駆者です。ヨーロッパを中心に超国家的なビジネスを展開してきたそんなロスチャイルド財閥にとって、20世紀に勃発した二つの世界大戦は、大きなブレーキになりました。
ヨーロッパ列強と歩調を揃えて進出したロスチャイルドには「帝国主義者」という非難がつきまといました。ロスチャイルド家にはおそらく「国のため」という意識は希少で、むしろ反帝国主義と位置づけるべきなのでしょうが、南アフリカの植民地化を後押ししたロンドン・ロスチャイルド家は、結果としてイギリスの帝国主義的行動を支援したし、パリのロスチャイルド家も石油事業を中心に植民地で関連事業を展開して成長しました。
こうした「儲かることなら何でもする」という姿勢が、当時の帝国主義と結びついて映ったのでしょう。また、国家に匹敵する財産を築いたことに対する庶民の嫉妬もあったのでしょう。やがて帝国主義国家に資金を提供して背後で操り、世界征服を狙う「ユダヤ資本の陰謀説」が世界中を飛び交うことになります。ターゲットはもちろん、ユダヤ資本のドン、ロスチャイルド財閥でした。これが現代に至るまで、まことしやかに語り継がれる「ユダヤ陰謀説」のひとつです。
第一次世界大戦が終わったとき、ロスチャイルド財閥は大きな打撃を受けます。大戦中に税制度が変わり、遺産に莫大な相続税がかかるようになったのです。ロスチャイルド銀行は株式組織でなく、個人のパートナーが私有する形態であったために、ダイレクトに税金攻勢をかぶったのです。
これまでは資本家や国王たちが政治を支配していたために、相続税などの税金は悪しき政策として可決されてきました。しかし、ロシア革命で勢いを得た共産主義体制と、ドイツやオーストリアに顕著に表われたファシズム台頭の時代に突入し、政治の様子は一変しました。国内向けには恐怖政治が国家をコントロールしたり、民族主義や軍国主義が結束したファシズムが国を掌握したりする方向に傾きました。
当時のロスチャイルド家は、投資した事業を守ることで精一杯であったようです。1929年にアメリカで発生した株の暴落が大恐慌をもたらし、ロスチャイルド財閥も打撃を受けます。これに拍車をかけるように、1930年代からヒトラーの「ユダヤ人迫害」が始まります。反ユダヤ主義の高まりはドイツ、オーストリア、イタリアなどの国を中心に勢いを増していきます。
ナチズムの標的にされたのは、国際ユダヤ金融資本のトップに立つロスチャイルド財閥でした。先週紹介したロスチャイルド家が所有する、フランス・ボルドーの「ラフィット」と「ムートン」のブドウ園は、ドイツ、イタリアに休戦協定を申し入れたフランス・ヴィシー政権に差し押さえられたのです。ナチスのユダヤ政策に従ったものでした。「ムートン」オーナーのフィリップはモロッコでヴィシー政権の関係者に逮捕され、ブドウ園は一時的にドイツ軍の駐屯地として利用されました。ロスチャイルドファミリーの中には、ユダヤ人の強制収容所に連行された家族もいます。
ドイツ・フランクフルトのロスチャイルド本家は後継の息子がいなかったことから20世紀初めに消滅しています。ヒトラーの「ユダヤ人絶滅作戦」の犠牲になったのは、ウィーン分家の5代目当主、ルイ・ナサニエル・ロスチャイルドでした。ルイはナチスによって拘束され、ゲシュタポ(秘密警察)刑務所の独房にぶちこまれます。ゲシュタポはロンドンとパリのロスチャイルド一族に、オーストリア・ロスチャイルド家の土地や資産を譲渡するよう迫ります。幸い土地や炭鉱、工場などの所有権は保険会社のものに切り替えていたので、没収されることはありませんでした。1年後に保釈されたルイはアメリカに亡命し、家業を再開することはありませんでした。こうしてウィーンのロスチャイルド家は途絶えます。第二次世界大戦が終結した際、ロスチャイルド家はパリとロンドンだけになっていました。
By Master K/益田 慶
USドルの歴史を短くまとめておこう。世界各国で用いられている通貨の呼称「ドル(dollar)」の語源は、16世紀~18世紀に現在のドイツやオーストリアを中心に流通した上質の銀貨「ターレルThaler」とされている。この銀貨のことを単に「ターラー(当初はThaler、のちにTaler)」と呼んだ。このターラーがやがてダラー(Daler)と呼ばれるようになったという説が一般的だ。
たとえば18世紀、スペインはメキシコやペルーで優良な銀山を発見し、大量の銀貨を発行した。母国では「8レアル(Real)」銀貨と呼ばれるものを、諸外国は「スペイン・ドル(Spanish Daler)」や「メキシコ・ドル」と呼び、アジアではこのメキシコ・ドルが貿易通貨として広く利用されていた。では、イギリスとフランスの植民地であった頃のアメリカの通貨の単位は何だったのだろうか? ポンド(Pound)である。ポンドは重さの単位でもあるが、本来は1ポンドの重さの銀に相当する価値を表していたのである。
アメリカ合衆国の建国は1787年に建国だが、米国ドルが誕生したのは6年後の1793年である。その後、イギリス(1816年)、ドイツ(1871年)に続き、1873年に米国、1876年にフランスが、金銀複本位制や銀本位制などから金本位制へと移行した。この時点ではまだイギリスのポンドが基軸通貨であった。
第一次世界大戦で欧州各国の経済が弱体化したのに反して、アメリカは戦争特需で経済が急成長したため、基軸通貨が機能面で英ポンドから米ドルへ移った。第二次世界大戦後、新秩序の取り決めのひとつとして、国際通貨体制の枠組みを話し合う「ブレントンウッズ会議」が開催され、主要通貨の固定レートが定められた。アメリカがIMF体制の下で各国中央銀行に対して米ドルの金兌換を約束したことや、アメリカの経済力を背景に米ドルが名実ともに基軸通貨となった。ちなみに、固定レートにより、日本円は1949年4月から1ドル=360円に決められ、この時代は20年以上続くことになる。
ところで、世界各国で流通している「ドル」と呼ばれる通貨の中で、USドル以外に著名なものとして、オーストラリア・ドル(AUD)、ニュージーランド・ドル(NZD)、カナダ・ドル(CAD)、シンガポール・ドル(SGD)、香港ドル((HKD)などが挙げられる。今回はシンガポール・ドルに着目してみよう。
100年以上もの間イギリスの植民地であったシンガポールは、東南アジアにあって英語を公用語とする稀有な国である。また、中国系、マレー人、インド人などから成る複合民族国家でもある。東南アジアの国際都市と位置づけることができるだろう。
シンガポールには「中央銀行」と呼ばれる機関はなく、シンガポール通貨金融庁(MAS:Monetary Authority of Singapore)が広範囲な通貨・金融政策、造幣業務を行っている。
シンガポ-ルドルの最大の特徴は、「バスケット方式」による管理型変動相場制であることだ。通貨バスケット制度とは、主要な貿易相手国・地域の通貨を各国・地域との貿易量で加重平均する制度。シンガポールの場合は、USドル、ユーロ、円などの「複合通貨のペッグ制」である。
通貨バスケットの構成通貨および構成比率については、MAS(通貨金融庁)が適宜見直しているが、詳細については公表されていない。また、経済規模が小さいシンガポールでは、通貨投機などによる為替の乱高下を避け、シンガポール・ドルの安定を図るため、外国通貨取引と自国通貨取引を完全に切り離す政策(シンガポール・ドルの非国際化政策)を実施している。
具体的には、非居住者に対する一定額以上の貸し出し(500万Sドル以上)に対するMASの事前承認取得義務、銀行業免許の種類によるシンガポール・ドル取扱業務への参入制限、国内資本市場から調達したシンガポール・ドルの国外使用制限などがある。
By Master K/益田 慶
USドルの歴史はアメリカの歴史と重なる。1971年8月15日まで、ドルの価値は金によって保証されていた。1944年、アメリカのニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで国際通貨基金協定などが結ばれ、その中で、IMF(国際通貨基金)が発足した。金だけを国際通貨とする金本位制を採用せず、ドルを基軸通貨として、金と並ぶ国際通貨とする制度をつくったのである。しかし、1971年8月15日その日以降、世界の為替のしくみは一変した。
日本が高度経済成長を続けた1960年代後半、アメリカは国際収支の赤字で悩んでいた。その対応として1971年8月15日、当時のニクソン大統領が突如、ドルと金との交換停止を含む新経済対策を発表。これによって戦後長く続いたIMF体制は崩壊、ここにブレトン・ウッズ体制は終了した。この大統領声明は「ニクソン・ショック」と呼ばれ、世界に大きな影響を与えた。ドルは急激に下落し、その対応策として、主要国会議で全面的な為替レートの修正(スミソニアン体制)が行われ、日本では1ドル=360円時代が終了し、1ドル=308円となった。しかしドルの下落はおさまらず、まずイギリスが固定レートを放棄し、変動相場制へ移行。他国もこれにならい、日本も1973年2月に変動相場制へと移行した。
「ニクソン・ショック」の背後には、第二次世界大戦の敗戦国であった日本とドイツの経済成長の影響がある。アメリカの経済力は相対的に低下し、当時景気過熱で経常収支が悪化していたため、やがて固定レートを変更し、ドルを切り下げるであろうと予測された。このため経常黒字国であった日本の円やドイツのマルクに対して1969年頃から投機が殺到するようになる。固定相場制度においては中央銀行が無限の為替を保証するため、日本銀行やブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)はドルを買い支えることになった。つまり市中に円やマルクが放出されるということになる。マネーサプライが増えるため金利は抑制され、日本やドイツの経済も過熱気味になる。
ドイツは、戦前にハイパーインフレーションで経済を疲弊させた記憶があるため、ブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)はインフレーションを未然に防ごうとしたのである。また、日本も高度経済成長末期において巨大プロジェクトが目白押しであったため、アメリカの過剰輸入・資本輸出によるインフレーションは厄介であった。このため、元凶であるアメリカの過剰財政支出への非難が強まったのである。ニクソンは、そういった経済成長国の流れを鑑みて、ドルと金との交換停止を含む新経済対策を決断したのである。
さて、ドルと名のつく通貨の中で、なじみの深いものにオーストラリア・ドル(AUD)がある。日本では、豪ドル、オージードルなどと呼ばれている。発行はオーストラリアの中央銀行であるオーストラリア準備銀行(RBA)。同行が為替管理を放棄し、変動相場制に移行したのは、80年代である。
オーストラリアの最大の輸出国は、1位:日本(19.8%)、2位:中国(12.5%)、3位:韓国(7.5%)という順位になっている。つまり、貿易は主にアジアの主要国と行っているのである。それだけに2000年までの豪ドルは、輸出、観光で関係の深いアジア諸国が金融危機に陥った際にアジア通貨につられて急落。世界経済がITブームに沸く中で、豪ドルは「オールドエコノミー通貨」として敬遠された。
しかし2001年に入り所得税減税、住宅取得者への補助金支給やRBAによる金融緩和が住宅投資と個人消費を促進。成長路線に回帰し、公定歩合が高さ、経済成長・金利差に着目した米系ヘッジファンドなどが、円やドルで資金調達し、豪ドル買いをするキャリートレードが進行。アジア、中東などの投資家も資金の一部を振り向けるなど、徐々に豪ドル投資の裾野が拡大してきたのである。
By Master K/益田 慶
第二次世界大戦後のUSドルの歴史は、変動相場制の歴史でもある。1971年に決定したスミソニアン体制下において、ドルの切り下げと為替変動額の拡大(上下各1%から上下各2.25%)が行われたが、米国の国際収支の悪化は続き、1972年6月に英国がこの体制を放棄し、変動相場制に移行すると、1973年3月までには主要国はすべて変動相場制に移行した。
1976年1月、ジャマイカのキングストンでIMFの暫定委員会が開かれ、変動相場制の正式承認を含む、IMFの第2次協定改正が決定。ここで金の廃貨が決まった。この制度は1978年4月1日に発効となり、決定された決め事は「キングストン合意」と呼ばれている。ここに現在まで続く国際通貨体制が確立されたのである。
1977年にはIMF理事会で、中央銀行の為替政策のガイドラインが決定。「加盟国は不公正な競争上の優位を守るために為替相場を操作しないこと」「輸出を伸ばすために意図的に為替相場を操作(為替介入)してはいけないこと」「介入は短期的に乱高下し秩序が保てないときのみ認められること」といった約束事が示された。
1978年当時のアメリカは貿易収支の大幅な赤字によって経常収支が赤字に転落し、インフレが加速していた。このアメリカのファンダメンタルの悪化を背景に、米ドルは主要通貨に対して急落した。半年で55円のドル安円高である。
そこで、当時のカーター米大統領は、日本、当時の西ドイツ、スイスの中央銀行とのスワップ枠拡大等による「為替市場への協調介入の強化」、「300億ドルの介入資金調達」、「公定歩合の引上げ(8.5%→9.5%)」、「預金準備率の引き上げ」などからなるドル防衛総合対策を発表した。
次の大きな節目は、1985年の「プラザ合意」によるドル高是正である。レーガン大統領の時代のアメリカは、財政赤字と貿易赤字(双子の赤字)が構造的に定着し、第一次世界大戦後初めて純債務国へと転落した。そこでドル安によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らすことを主目的として、1985年9月、過度なドル高の対策を課題に掲げ、アメリカの呼びかけでニューヨークのプラザホテルに先進国5カ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(米国は財務長官)と中央銀行総裁が集まり、会議が開催された。この会議で決められたのは以下の内容である。
●為替レートの調整によって対外不均衡の是正が可能であり、また有効である。
●為替レートは各国のファンダメンタルを反映すべきである。
●為替レートの調整は主要通貨の対ドルレートの上昇によって行なわれ、各国が直ちに介入によってこれを実現する。
さて、ドルと呼ばれる通貨の中で、紙幣に多くの外国人が印刷されているのが、カナダ・ドル(CAD)だ。5カナダドル札の肖像画ウィルフレッド・ローリエはフランス系カナダ人。10カナダドルに印刷されている肖像画ジョン・A・マクドナルドは、スコットランド生まれで、カナダに移住後に首相を務めた人物。20カナダ・ドルの肖像画は、英国エリザベス2世女王だ。これらの紙幣は、カナダの歴史を物語っている。
かつてフランス領であったカナダは、1759年に結ばれたパリ条約によって、全植民地が100年以上に渡って英国の支配下に置かれた。1867年、4州の統合でカナダ自治領が成立し、時を経て1982年カナダ自主憲法が成立。イギリスへの法的従属性を解消。カナダの女王でもあるエリザベス女王は「君臨すれども統治せず」の姿勢で、その権限をカナダ総督に委任している。カナダはG7(先進7ヵ国蔵相会議)の一員で、カナダ・ドルはG7通貨のひとつ。
カナダ・ドルは長期下落傾向にあったが(70年代:1 CAD=1米ドル、2002年:1 CAD=0.6368米ドル)、2003年に入ってから対米ドル高傾向(2004年同0.7683米ドル、2005年同0.8253米ドル、2006年同0.8818米ドル)にある。2007年5月平均の為替レートは1 CAD=0.9133米ドルであり、対米ドル高傾向は続いている。
By Master K/益田 慶
第二次世界大戦後のUSドルの歴史は、世界的にドルの保有高が増大した歴史でもある。金本位制だった1949年から1969年までの20年間には約1.5倍にしかならなかったが、金本位制からドルを自由に刷れる「ドル本位制」に以降した1971年から現在までの36年あまりの間に20倍になったとされている。そして今日に至るドルの歴史は「マネー経済」の歴史とも重なる。1980年代ぐらいまでは、お金のやりとりのほとんどは実物経済だった。それがマネー経済に転じたのが、1980年代なのである。
1985年の「プラザ合意」後、為替は外債投資規制の緩和などによって、いったんドル高・円安傾向になった。日銀はプラザ合意の要請に従ってドル安になるよう協調介入を行い、外国為替相場をコントロールした。1887年2月には「プラザ合意」以降のドル安進行を止めるために通貨安定に向け協調介入を行うことを決定(ルーブル合意)。しかしその後もドル安は止まらなかった。
同年10月にはニューヨーク株式市場で史上最大の暴落が起きた。世に言う「ブラック・マンデー」である。原因はアメリカの貿易赤字と財政赤字の拡大やドル安に伴うインフレ懸念だと言われている。投資家たちが日本やドイツが公定歩合を引き上げることを予想し、アメリカ市場から資金を流出させたことによって記録的な株価暴落を招いたという分析だが、一方ではコンピュータによる「プログラム売買」の損切りの連鎖反応が下落を加速させたという見方もある。
大口投資家は投資している株式の銘柄をコンピュータで管理しているが、万一どれかの銘柄が一定の幅を超えて価格が下落した場合、損失を最小限に抑える(損切りする)ため、その銘柄を売りに出すというシステムを組んでいる。ところが、みんながそういうシステムを使っていると、いったん株価が下がり出すと、全員が一斉に自動的にすべての株を売り始めることになり、売りが殺到して株価の下げが加速し、一気に大暴落を起こしてしまうという構造だ。さらに株価が下がり出した場合、投機筋がまだ株価が高いうちに空売りをして、下がり切ったところで買い戻して利益を得ようとするので、暴落に拍車を掛けてしまう。まさに「マネー経済」の幕開けを象徴する事件であった。
さて、USドル以外の「世界のドル」の中には、USドルと等価のものがある。北大西洋のバミューダ諸島で使われるバミューダ・ドルである。両者間の為替レートは、1バミューダ・ドル=1 USドルで固定されている。島内ではUSドル紙幣で買い物をすることも可能だ。国としてのバミューダは、イギリスの海外領土に属し、イギリス女王を国家元首とする独立国である。
この島を有名にした制度が「タックス・ヘイブン」だ。小さな島国など、産業の発達しない国が国際物流の拠点となることを促進するために作った制度で、税金が免除されたり、低い税率が適応されたりする。貿易の拠点となれば定期的に寄港する船乗りなどが外貨を消費するため、海洋国家にとっては有利な方法だと考えられてきた。イギリスとアメリカ両国の領であるヴァージン諸島、ケイマン諸島、マン島も「タックス・ヘイブン」の島である。
しかし、「タックス・ヘイブン」だからと言って物価が安いとは限らない。バミューダを訪れた者は総じて「物価がとても高い」と語る。安普請のホテルでも東京都心の超高級ホテル並みの宿泊料。レストランで食事をすれば100ドルを超えると聞く。バミューダでは、企業の利益や個人の所得、財産・資産、相続、配当などなどに税金が一切かからないから、会社を設立したり、不動産を購入したりした者は恩恵をこうむる。また、金融機関口座は個人資産家からは「オフショア金融センター」として人気が高いが、観光客は本国イギリス並みの物価に戸惑うことになりそうだ。
By Master K/益田 慶
1981から1989年まで2期8年、大統領を務めたロナルド・レーガンは、軍事支出の増加と並行して減税を行った。在任中にイラン-イラク戦争、アフガン戦争に莫大な軍事費を投じ、その結果、巨額の財政赤字と累積債務の劇的な増加に結びついた。その負債はレーガンの就任時と、彼の後継者ジョージ・H・W・ブッシュ(パパ・ブッシュ)の就任時を比べると、およそ200%増加している。貿易赤字と財政赤字が並存することを「双子の赤字」と呼ぶが、レーガン政権下がまさにこの状態であった。
米国の貿易収支は、かつて外為市場で最も影響力の大きい経済統計だった。しかしそれは1980年代後半までのことだ。当時の為替相場は、1985年の「プラザ合意」を受けてドル急落の大相場が展開していた。ドルの大幅切り下げ策の背景となったのが、巨額にふくれあがった米国の貿易赤字であり、それを要因とした国際的な貿易不均衡の拡大だった。外国為替市場の参加者は、毎月発表される貿易収支、特に米国の貿易収支の結果が市場の予想に比べて「多いか・少ないか」の観点から、「ドル売り」「ドル買い」を決定したのである。
しかし、「米国の貿易赤字がドル安につながる」という考え方は、果たして正しいかったのだろうか? 一方では、「ドル安が進むと貿易赤字は縮小し、ドル高が進むと貿易赤字が拡大する」という理論がある。1999年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者ロバート・A・マンデルは、変動相場制のもとでは「金融緩和は国内金利を引き下げ、所得を増大させて自国通貨安となり、財政支出拡大は金利を引き上げ、自国通貨高をもたらす」「外国での金利の上昇は自国通貨安になる」「輸出入の促進策が経営収支に与える影響は、為替レートの変化により相殺される」といった説を展開した。これによると、為替が貿易収支に対して先行するという解釈になる。
1990年代に入ると、ドル安の大相場は終わる。連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長の助言もあり、クリントン政権下で均衡財政が進められ、巨額の財政赤字は解消。2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。クリントン大統領は後期に「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。
さて、南西太平洋に浮かぶ島国に「ドル」と呼ばれる通貨を使っている国がある。ニュージーランドだ。通貨はニュージーランド・ドル(NZD)で、NZドルとも呼ばれる。「キウイ」や「キウイ・ダラー」という愛称もある。フルーツのキウイは中国生まれだが、1904年にニュージーランドに持ち込まれ、国鳥「キウイバード」に似ていることから「キウイ・フルーツ」と名づけられた。現在ではニュージーランドを代表する果物として世界に輸出され、「キウイ」は「ニュージーランド」の代名詞として使われているのだ。
輸出国・輸入国とも、1位:オーストラリア、2位:アメリカ、3位:日本の順番。地理的条件からオーストラリアへの依存度が高いことはわかるが、輸出・輸入国の両方にアメリカがランクされていることに注目して欲しい。オーストラリアの貿易は、輸出国が日本、中国、韓国の順、輸入国がアメリカ、中国、日本の順であることを比較すると、ニュージーランドは貿易面でアメリカの影響を受けていることが見えてくる。
ニュージーランドの主な産業は畜産物の加工だ。世界第3位の羊皮生産(10万トン、世界シェア約6%)、第4位のバター(47万トン、5.7%)、第5位の羊肉(51万トン、4.1%)、第6位の毛糸(2.2万トン、2.1%)などが有名だ。ほかにチーズ、牛肉、製材も大きな産業になっている。これらの産業は安定し、日本はニュージーランドの「お得意さん」でもあるのだ。
NZドルの円相場は「豪ドル円相場」と似たような値動きをするので、為替の動向はオーストラリアとセットで考えると、わかりやすい。オーストラリア同様、ニュージーランドの政策金利は高水準となっており、NZドル建て債券や外貨預金も近年注目を集めている。GDPは世界43位と決して高くはないが、NZドルは無視できない存在である。
By Master K/益田 慶
駆け足でドルの歴史を見てきたが、ようやく現代にたどりついた。近年のドルの歴史を語るうえで忘れてはいけないのが1989年の「ベルリンの壁」の崩壊である。冷戦の終結は1991年のソビエト連邦の解体へとつながり、翌年、欧州連合の統一通過「ユーロ」の導入が定められる。当時のアメリカはIT産業の急成長などによって「双子の赤字」を解消。世界が米ソの二極状態から、米国を中心とした一極世界へ向かうものと想像された。
そして2001年。9.11の同時多発テロ事件が発生。2003年、米国がイラク攻撃を開始。以降、投資家の間では「地政学的リスク」という言葉がクローズアップされるようになる。これは当時の連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長が使ったことで世界的に有名になったものだ。同時多発テロ事件以降、中東情勢に緊張が走る度に米ドルは売られた。そこで「地政学的リスク」が「ドル安」につながるという理論が注目されたのである。それは米国のイラク攻撃によって、世界経済がスローダウンする、そのリスクとして「ドル安」が進行するという考え方だ。つまり、イラク攻撃→中東産の原油価格の上昇→インフレに対する懸念→金利の上昇→世界的な景気の後退、という流れを想像したのである。
当時の多くの評論家、経済学者が「地政学的リスクによって日本も大きな影響を受ける」と指摘したのは、次のような文脈からだった。
「原油価格の高騰は、エネルギー価格や原材料価格の上昇をもたらす。これが日本企業の設備投資意欲をさらに抑制する。原材料価格が上昇すれば、紙・パルプ製品、繊維、化学製品、プラスチック製品など、多くの商品の卸売価格の上昇をもたらし、結果的には私たちの生活に直接影響を与える消費者物価にも反映されていく」
「また、イラク情勢の不透明感から株価はバブル後の最安値を更新。株安は日本経済の最大の懸案である不良債権処理をさらに遅らせる。加えてイラク情勢の緊迫度が増す中、米国経済への悪影響懸念からドル安が進む。結果としての円高が長期化すれば、比較的好調な日本の輸出は失速する。こうして『地政学的リスク』はドル安、原油高、株安、円高という厳しい状況を日本にもたらす」
こういった予測が主流を占めた。では、米軍のイラク攻撃によって日本及び世界経済の景気は後退しただろうか? 原油価格の急激な変動はしばらく続いたが、世界経済に及ぼすマイナスの影響はそれほど大きくなかった。ドル安の進行は続いたが、世界的な「ドル暴落」は起こらなかった。
当時アメリカ経済に対する先行き不安から、行き場を失った投機資金が一気に石油市場に流れ込んだ。ひとつの市場に急激に莫大な資金が流入すれば、価格は簡単に急騰する。だが、こうした急騰はまたあっさり下落もする。高値が高値を呼んで利潤率が低下すれば、大量の投機資金はより有利な利率を求めて移転するからである。こうして現代へとつながっていく。
さて、西インド諸島で唯一、豊かな石油と天然ガスが産出する島国がある。トリニダード・トバゴだ。輸出・輸入ともアメリカがトップというこの国の通貨はトリニダード・トバゴ・ドル(TTD)。人種はアフリカ系とインド系だが、公用語は英語である。日本には馴染みが薄い国だが、日本は同国の主な援助国である。
イギリスから独立した1962年以降、石油、石油化学部門が輸出収入、政府歳入の大半を占めている。しかし1980年代半ばには、石油価格の急落という外的要因によって深刻な経済危機に見舞われ、1980年代後半、輸出振興、規制緩和、民営化推進等経済の構造調整を余儀なくされた。1993年以降、エネルギー部門の拡大とともに、構造調整政策の効果が現れはじめ、成長はプラスに転じ、現在は比較的安定している。2005年以降もエネルギー産業の拡大、建設業の好調、製造業及び農業の好転が予想され、政府は2006年~2008年の実質GDP成長率7%を見込んでいる。カリブ海の国の中で最も豊かで生活水準の高い国であることからトリニダード・トバゴ・ドルに注目する投資家は少なくない。
By Master K/益田 慶
先週のコラムで、米国のイラク攻撃による「ドル暴落」も「原油高騰を引き金とする景気の後退」も起きなかったことを伝えたが、書店に行けば「ドルが暴落して世界経済が混乱する」と説く書物がいっぱい並んでいる。ある本によれば、ドル暴落の最大の要因は、経済的な要因というよりは世界各地で日々生起するであろう政治的・社会的諸事件であり、それが呼び起こす人々の不安な心理であると綴られている。
しかし、どの説を拾ってみても、基軸通貨のドルに対しての論議ばかりで、超大国アメリカに匹敵する欧州連合が扱う「ユーロ」との関係から論を進めるものは少ない。現在のヨーロッパ連合(EU)の経済規模は日本の倍以上で、アメリカとほぼ肩を並べる巨大市場となっている。エネルギー政策で勢いを取り戻したロシアが原油取引と外貨準備の両方でユーロを中心に据えていることを鑑みると、 いよいよ「二つの基軸通貨」の時代が到来したといえよう。
統一通貨「ユーロ」の歴史は、第二次世界大戦後の欧州再編の歴史、つまり東西の冷戦から自由化への変遷の歴史と重なる。第二次次世界大戦の損害は、ヨーロッパにきわめて大きな爪痕を残した。反対に戦場にならなかったアメリカは超大国への道を歩みはじめ、世界の基軸通貨が「ドル」になる。
第二次世界停戦後、大英帝国の凋落を予見していたであろうイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルは1946年、欧州の平和と発展を促す「United States of Europe」(ヨーロッパ合衆国、ヨーロッパ連邦)を提唱した。これはアメリカ合衆国をイメージしたものであった。やがて1949年にヨーロッパ諸国で構成される国際機関「欧州評議会」が創設。直後の1950年、フランス外相ロベール・シューマンがヨーロッパの石炭・鉄鋼産業の統合を図る共同体を提唱。これを受けて、フランス、イタリア、ベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)、そして西ドイツがパリ条約に調印し、1952年、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設置を決定した。これにより第一次的機関である「最高機関」(現在の欧州委員会)と「共同総会」(現在の欧州議会)が誕生した。
やがて6か国の首脳は経済分野での統合に焦点をあてることにし、1957年に欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体の設置を定めたローマ条約に調印した。新たに設置された二つの共同体(欧州経済共同体、欧州原子力共同体)は欧州石炭鉄鋼共同体とは分離されていた。欧州原子力共同体は、原子力エネルギー分野での統合を進める一方で、欧州経済共同体は加盟国間での関税同盟として発展していった。
1960年代、フランスでは共同体の超国家的権限に対して制限を設けるべきとの機運が高まり、またイギリスの加盟を拒む態度が見受けられた。しかし、1965年には3共同体をひとつの機関の下で統合することで合意に至り、ブリュッセル条約が調印される。こうして1967年7月、欧州共同体(EC)が発足した。イギリスは参加しなかったが、こうしてEUの基盤が固まっていったのである。統一通貨「ユーロ」が登場するのはまだ先のことである。
さて、中央ヨーロッパにあってユーロ以外の通貨を使っている国がいくつかある。ドイツとソ連の影響を受け、翻弄されてきたポーランドは2004年にEUに加盟したが、通貨は「ズウォティ」を使っている。日本では「ズオチ」「ズロチ」とも呼ばれている。近年は外国資本の流入、好調な輸出や個人消費などを背景に安定した成長を続けている。2006年の経済成長率は5.2%と決して悪くないが、失業率は20%に近い。同国への直接投資は、アメリカ、ドイツ、日本の順。なおポーランドへの直接投資の窓口は、このポーランド情報外国投資庁に一本化されている。
By Master K/益田 慶
1967年に発足したヨーロッパ共同体(EC)が機能するためには、加盟国の増加が必要であった。そして加盟国内での資本移動の自由化が行わなければ通貨の導入は実現できなかった。
1973年、デンマーク、アイルランド、イギリスがECに加盟。この新規加盟は、のちのEUの重要な政策分野となる、統合拡大の第1歩となった。拡大は進み、1981年には6年間加盟を望んで協議してきたギリシャが加わった。1985年には住民投票の結果グリーンランドがデンマークから自治権を獲得し、ECから離脱するものの、第3次拡大として1977年から加盟を希望していたスペインとポルトガルが1986年1月に加わった。
1986年には欧州旗の使用が採択。1986年2月、加盟国首脳は単一欧州議定書に調印。1987年、トルコは正式にEU加盟の希望を表明し、現在も続けられる加盟交渉が着手された。
そして1989年。東欧での激変に続き、「ベルリンの壁」が鉄のカーテンとともに崩れ去ってドイツは再統一を果たし、旧東ドイツ地域へのEC拡大への門扉が開かれた。こうして1989年4月、「経済通貨統合」(EMU)への道筋を示した「ドロール報告」(通貨同盟に関する報告)が発表され、3段階を経て通貨・金融面でプロセスが決定した。新たな拡大の波が広がる中で、1992年、欧州連合(EU)の創設を求める「マーストリヒト条約」が調印され、翌年に発効、遂に欧州連合(EU)が誕生することになる。
「ユーロ」導入までの3段階とは以下のプロセスである。
1.EU圏内市場統合の促進
・人、物、サービスの移動。中央銀行総裁会議の機能強化
2.マクロ経済政策の協調強化
・欧州通貨機構(EMC)の創設
3.経済通貨統合の促進
・単一通貨「ユーロ」の導入
・欧州中央銀行(ECB)による金融政策の実施
1993年11月、「マーストリヒト条約」が発効され、ECの枠組みに外交と内務に関する分野の枠組みを加えた3つの柱構造を持つEUが発足。マーストリヒト条約では地域委員会が創設され、欧州投資銀行(EIB)の傘下に欧州投資基金(EIF)が設立される。さらに1994年、欧州経済領域(EEA)協定が発効し、欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国でEU非加盟国のノルウェーとアイスランドは、財政支出と関連EU法の支配を受けることを条件に、前年に創設された欧州単一市場に加わった。残りのEFTA加盟国のうち、スイスは参加を拒否、リヒテンシュタインは加盟した。1995年、欧州司法裁判所(ECJ)は「ボルデサ判決」を下し、その中で市民は域内において事前の許可がなくとも紙幣を国外に持ち出すことができるとした。これが資本の移動の自由化である。
さて、EU加盟国でありながら「ユーロ」を使っていない国がいくつかある。そのひとつが、福祉国家として名高いスウェーデンである。通貨単位はスウェーデン中央銀行が発行する「スウェーデン・クローナ(SEK)」だ。
2000年に与党・社会党が党大会でユーロ参加の方針を決定したが、国民にはユーロ参加による福祉レベルの低下を懸念する声もあり、2001年の世論調査では、参加不支持が支持を上回った。2003年9月にユーロ参加の是非について国民投票が行われたが否決。これは主に北部などユーロへの参加に保守的な立場の人々の票が影響したと分析されている。
スウェーデンの2006年度のGDPは4.2%。経営収支、貿易収支、輸出額とも増大している。ジェトロは2007年以降のスウェーデンの経済見通しについて、「輸出の伸びが鈍化することから経済は緩やかに減速しながらも拡大基調で推移する」との見解を示している。スウェーデン財務省は、実質GDP成長率は07年3.3%、08年3.1%と予測している。こういった背景からスウェーデン・クローナは手堅い通貨といえよう。
By Master K/益田 慶
06:45 (NZ) 9月貿易収支
08:50 (日) 9月大型小売店販売額・速報
08:50 (日) 9月小売業販売額・速報
17:30 (英) 9月マネーサプライM4・確報
18:30 (英) 9月消費者信用残高
未 定 (独) 10月消費者物価指数・速報
06:45 (NZ) 9月住宅建設許可
08:30 (日) 9月失業率
08:30 (日) 9月有効求人倍率
08:30 (日) 9月全世帯家計調査-消費支出
16:45 (仏) 9月住宅着工許可
17:55 (独) 10月失業者数
17:55 (独) 10月失業率
21:30 (加) 9月鉱工業製品価格
23:00 (米) 10月消費者信頼感指数
日本には創業から百年以上続いている企業が約15,000社ある。150万社の1パーセントだ。これを「百年企業」と呼ぶことにする。明治維新という空前絶後の構造改革、世界的な不況、帝国主義によるアジア侵略、敗戦、財閥解体、焼け跡からの再スタート、高度経済成長、オイルショック、貿易摩擦、円高、バブル崩壊、銀行再編、外資系の進出、不良債権の解消などをくぐりぬけ、現在もなお健全な経営を続ける企業は、いかにして生き残ったのか。なぜ生き残れたのか。
百年以上の歴史を刻んできた背景にはそれなりの理由、経営の秘訣、競合他社に勝つだけの商品の差別化やサービスに魅力があったからだろう。時代の変化に敏感に対応できる、革新を拒まない体質もあったと想像できる。あるいは代々の経営者が受け継いできたしっかりとした経営哲学もあるに違いない。
「百年企業」は合理的・近代的な経営手法を取り入れてきた企業でもある。お菓子製造や伝統工芸品のメーカーなど、世に言う「老舗」のように、昔からずっと同じ商品だけを販売してきた企業もあるだろう。しかし、どの時代にあっても社会に歓迎される要素を宿してきたということは、やはり何かしら独自性があったからといえよう。単独で、あるいは自力だけでは百年もの間、経営を続けることができなかった企業もあるだろう。それらの企業は、財閥や企業グループに属すことで潤沢な運転資金を得たり、原材料の仕入れや販売ルートを確保したりしてきたのかもしれない。それも百年もの長きにわたり継続してこられた理由のひとつである。
今週からスタートするこのコラムは、百年企業が百年もの間、生き抜いてきた理由を探るものである。その歴史は各社で異なるものの、カメラを引いて見れば日本における資本主義経済の発展の歴史でもあり、経済大国への発展に寄与した歴史、さらに日本における近代経営の発展の歴史でもある。つまり、「百年企業」の特徴を研究すれば、日本経済や近代経営の発展の軌跡が見えてくるのである。
経営面では、年功序列や終身雇用など雇用制度、メインバンク制や企業グループによる長期安定的な取引関係、業界団体内調整による規制の強い市場など「日本的経営」と呼ばれる経営慣行の是非にも及ぶ。近年、能力主義・成功報酬制度、契約社員や派遣社員などを導入する企業が増えた一方で「日本的経営」を見直す経営者も少なくない。
巨大企業にとっては、貿易摩擦や不良債権、バブルの崩壊、外資系グループの進出、合併・買収が大きな分岐点になったであろう。百年企業はそれらの分岐点、ひいては危機をいかにして乗り越えてきたのか。その秘策にも迫ってみたい。そして商品開発の特徴にもふれてみたい。
また「百年企業」は、日本の企業グループや企業系列を理解するうえでの参考になり、業界地図を俯瞰して眺められる機会にもなることだろう。
皆さんがご存知のように旧財閥系企業グループには、三菱グループ、三井グループ、住友グループ、芙蓉グループ、みずほグループ、UFJグループなどがあるが、銀行再編によって東京三菱UFJ銀行、三井住友銀行が誕生したことで旧財閥系企業グループにも大きな変化が生まれている。三越や高島屋、伊勢丹など百貨店業界の老舗の再編も著しい。
さらに、「百年企業」は業界によって生存率が異なることも興味深い。これには業界の歴史や市場規模、独占企業の有無、新規参入を拒むような法律的な規制などが大きな鍵になっているようだ。また政治とのつながりの深い業界もあるので、研究の対象は幅広い。
このように「百年企業」は、いろんな角度から分析することができる対象である。百年企業の成り立ちや発展、経営方針、業界地図などを知ることが、FXライフを豊かに彩ってくれることを期待する。
By Master K/益田 慶
香港休場(中秋節翌日)
日銀金融政策決定会合
09:30 (豪) 9月住宅建設許可件数
15:00 (独) 9月小売売上高
16:45 (仏) 10月消費者信頼感指数
16:50 (仏) 9月生産者物価指数
17:00 (香港) 9月月次政府財政収支
18:00 (ユーロ圏) 10月消費者信頼感
19:00 (ユーロ圏) 10月消費者物価指数・速報
19:00 (ユーロ圏) 9月失業率
19:00 (日) 外国為替平衡操作の実施状況(9月27日~)
19:30 (英) 10月GFK消費者信頼感調査
19:30 (スイス) 10月KOF先行指数
21:15 (米) 10月ADP全国雇用者数
21:30 (加) 8月GDP
21:30 (米) 第3四半期GDP
21:30 (米) 第3四半期個人消費
22:00 (南ア) 9月貿易収支
22:45 (米) 10月シカゴ購買部協会景気指数
23:00 (米) 9月建設支出
27:15 (米) FOMC政策金利発表
合議体制の成立や中央銀行の設立、機械化・工業化の推進など、一般的に日本の近代化が始まったのは明治維新以降、つまり明治時代とされている。確かに明治維新は欧米列強に抑圧されてきたアジア諸国にとって近代革命の模範となった。また、その後、第二次世界大戦で敗戦国となった日本が高度経済成長を成し遂げ、世界の列強の仲間入りしたことは「アジアの奇跡」とも呼ばれてきた。その起点は明治維新にあるという文脈である。
しかし、明治維新成功の背景に、その前段階である江戸時代に目を向けてみれば、労働生産性や教育水準の高さがあり、市場原理主義の浸透があり、マニファクチャーやギルド(組合)の成立があり、官(幕府)民(商人や職人)の仕事を明確に分けた公共事業の推進と民営化があるなど、すでに近代の合理的な考え方を受け入れる素地が備わっていたことは見逃せない。つまり、「近代化への助走」は、すでに江戸時代に始まっていたのである。
今週からスタートするこのコラムでは、江戸時代に生まれた近代化の萌芽を政治・経済の両面から具体的に紹介していくものである。着目点は、近代的な発想、科学的・合理的な思考の基盤を江戸時代から拾い上げることにある。
18世紀初頭、すでに人口が約100万人であったとされる江戸は当時世界最大規模の都市だった。ロンドンやパリが50万人前後であったことを見ると、必然的に政策面でも産業面でも都市生活の基盤が築かれていたと想像できる。おそらく都市生活を送るための最低限のインフラ整備はできていたであろうし、しっかりとした税制が敷かれていたであろうし、公共事業や民間事業も進められていたと思われる。また、各種の制度が敷かれ、それを推進したり、実施したりする担当者もいたであろう。もちろん、それらの決定機関、組織があったはずである。
また、商人や職人が安全な都市生活を送ることができる警察機関は不可欠であるし、安全な生活を脅かす者や不正な行いをした者に対して刑罰を下す機関も不可欠である。
たとえば都市生活のインフラ整備の一例として、水道整備がある。神田上水、玉川上水、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水の6上水による「江戸水道」は規模だけにスポットを当てれば、世界一であったと想像できる。江戸時代に誕生した神田上水と玉川上水は、17世紀中頃には地下式上水道としては、延長150キロという世界最大の上水道にまで発展した。これは誰かが都市生活者に役立つために行った事業、すなわち公共事業である。それほどの公共事業を推進するには、幕府の政策として事業を決定する機関が動いたであろうし、莫大な資金と組織的な労働力が必要であったことは容易に想像できる。
また、徳川家康が日本の銀需要を支える石見銀山を幕府直轄領としたことも興味深い。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村に直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置されたのである。幕府は銀山のマネジメントを担う銀山奉行を派遣。その銀山奉行は山師(鉱山経営者)らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め、朱印船貿易の元手にもなった。石見銀山の開発は幕府の資金源の確保だけでなく、民間労働者の雇用促進の面からも近代的で合理的な政策であり、重要な事業だったのである。
このように江戸時代にはすでに近代的合理主義が生まれ、マネジメントのしくみが機能し、幕府がつくった制度が稼動してことがわかる。多方面から江戸時代には学ぶべきことがある。それらは決して役に立たない雑学ではなく、経済や政治が向かう普遍的な側面を教えてくれるであろう。温故知新は、意外なことに新しい発想やブレイクスルーにもつながることがある。このコラムがそういった発想の突破口になれば幸いである。
By Master K/益田 慶