100年企業 40 産業別100年企業 電機メーカー・家電メーカー
総合電機メーカーの売上高トップ3は、日立製作所、東芝、三菱電機だ。それぞれ家電から人工衛星、原発プラントまで幅広く手がけている。このうち厳密に「100年企業」と呼べるのは、東芝だけだ。
東芝は1875年、初代田中久重が東京・新橋に電信機工場を創設したのが起源。1904年、息子で2代目田中久重が工場を芝浦に移転し、「芝浦製作所」と改称。のちに東京電気と合併して「東京芝浦電気」となった。
同社は創業を1875年、設立を1904年としている。子会社・関連会社は、国内外に巨大な東芝グループを設立している。旧財閥系のグループ分けでいえば、三井グループに入る。ちなみに三菱電機は、1921年に三菱造船の電機製作所が母体となって誕生した。
総合家電メーカーの売上高トップ3は、松下電器産業、三洋電機、シャープだ。家電の歴史自体が、100年経っていないこともあってか、このうち「100年企業」は1社もない。
情報通信機器をメインに扱う総合エレクトロニクスメーカーでは、日本電気(NEC)が「100年企業」該当する。1899年、岩垂邦彦らによって、米国ウェスタン・エレクトリック社(現ルーセント・テクノロジーズ社)と合弁会社として設立。日本初の外国資本との合弁である。戦前に住友財閥に吸収され、現在では住友電気工業、住友商事とともに"住友新御三家"の一角を占めている。
音響・映像系メーカーでは、ヤマハが「100年企業」にあたる。楽器、AV機器、スポーツ用品、半導体、リゾート開発、システムキッチンなど住宅機器販売など幅広い事業を展開しており、ジャンル分けが難しい企業ともいえる。起源は、1888年に山葉寅楠が浜松で日本最初の本格的オルガン製造に成功したことに始まる。同社では、「日本楽器製造」に改組した1897年を会社設立年としている。
電子部品メーカーでは、沖電気工業が「100年企業」だ。1881年、沖牙太郎が「明工舎」を設立したのがルーツだ。半導体事業で知られる同社だが、半導体部門はロームへ譲渡する予定。近年は、金融機関のATMや消費者金融の自動契約機、ソフトウエアの機能をインターネット経由でサービスとして提供するASP(アプリケーション・ サービス・プロバイダ)事業など、情報と通信が融合した分野への進出が目立つ。電力機器メーカーでは、住友グループの明電舎が100年の歴史をもつ企業だ。1897年創業。住友電工、NECと親密な関係にある。だだし、変電、配電分野において日立製作所、富士電機と提携している。
最後に、電機メーカー・家電メーカーのジャンルとしては多少違和感があるが、家庭用ゲーム機メーカーとしては世界最大の任天堂は、1889年創業の「100年企業」だ。山内一族が京都市で花札の製造を始め、日本で初めてトランプの製造を手がけた。アーケードゲームでゲーム機業界に参入し、ファミリーコンピュータの大ヒットで一躍世界的なメーカーとなった。
ゲーム機の製造工場は持たず、現在は中国の生産協力工場で製造している。売上高は単体で1兆4000億円を超える程度だが、日本では時価総額10兆円を超える稀有な企業。創業者一族で3代目社長を務めた現相談役の山内博氏が現在、主要株主として10%を保有している。経営危機に陥ったシアトル・マリナーズをポケットマネーで購入した人物として知られるほか、百人一首のテーマパーク建設に21億円、京都大学医学部に70億円を個人で寄付している。時価総額10兆円企業の10%の株を個人で所有している人物でなければ、マネはできない豪快さだ。
By Master K/益田 慶
100年企業 39 産業別100年企業 非鉄金属業界
鉄以外の金属、金、銀、銅、アルミニウムなどの精錬や製品化を営むのが非鉄金属業界だ。銅線を中心とした電線ケーブル、光ケーブルのファイバー樹脂などもこの業界の範疇に入る。大きく分けると、総合非鉄、電力用電線、アルミなどに分類できる。ともに住友、三井、三菱、古河などグループ系列企業がリーディングカンパニーとなっている。
業界で最も歴史があるのが住友系だ。住友金属鉱山は1590年、住友電気工業は1897年の創業である。資源の保有量では日本企業トップの「住友金属鉱山」は、戦国時代に京都で生まれた銅製錬・銅細工の「泉屋」をルーツとする。つまり、住友グループの源流だ。別子銅山の採掘権を獲得した住友合資会社から別子鉱業所が分離して生まれた。中国に生産拠点を構える鉱山開発、製練のほか電子・機能性材料などの生産を行なう総合非鉄金属メーカーである。
電線の国内シェア首位の「住友電気工業」は、住友本店が開設した「住友伸銅場」の電線製造部門が独立して誕生した。自動車部品、電子部品、光ファイバーなどの製造で大きなシェアを占めている。同じ住友伸銅場をルーツとする鉄鋼メーカー「住友金属工業」が三井住友銀行、住友化学とともに"住友御三家" と称されるのに対し、こちらは、日本電気(NEC)、住友商事とともに"住友新御三家"の一角を占めている。
その住友金属工業とシリコンウエハー事業(ICチップの製造に使われる半導体でできた薄い基板の製造)で統合した「三菱マテリアル」は、総合非鉄のトップ企業。1871年、三菱商会前身の九十九商会が紀州新宮藩の炭鉱を租借し、鉱業部門に進出したのが起源だ。のちに「三菱鉱業セメント」と「三菱金属」が合併して誕生したのが三菱マテリアルだ。子会社の「三菱電線工業」も100年企業。電線業界大手6社のうちの1社で、2005年に三井グループの「フジクラ」と合弁企業を設立した。三菱-三井-住友といったグループの壁は、ゆるやかになっているようだ。
三井グループには「三井金属鉱業」がある。1874年、三井組が神岡鉱山の経営権を取得して生まれた三井鉱山から分離したのが同社だ。金属製練、電子材料、自動車部品製造に強い。
三井系では、ほかに電線御三家(ほか住友電気工業、古河電気工業)の「フジクラ」がある。携帯電話やデジカメに欠かせないプリント基板は世界第2位、光ファイバー第3位の企業だ。タイに主要工場を置き、タイで一番多くの雇用をしている日本企業である。同社の歴史は、創業者である藤倉善八が1885年、神田淡路町で絹・綿巻線の製造に乗り出した時に始まる。1910年に「藤倉電線」を設立、1992年に現社名に改称した。また2005年に電力システム事業を「古河電気工業」と統合した。中国、ベトナム、インド、マレーシアなどアジア各国に事業所を構えている。
電線御三家を担う古河電気工業は1884年、古河鉱業の一部門として設立された本所溶銅所をルーツとする100年企業だ。1920年に現社名となり、古河鉱業から独立した。主要取引先にJRやNTTがあり、30社ほどのグループ企業がある。
By Master K/益田 慶
余談だが、銅地金などの価格は、ロンドン金属取引所の相場に連動して決まる。ドル建なので為替相場に大きく左右されるのは当然のことながら、近年の資源高の影響で生産原価が高騰し、収益を圧迫している。海外から安い資源を輸入し、工業製品の材料や素材に加工して提供する日本企業にとっては逆風となっている。
100年企業 38 産業別100年企業 鉄鋼業界・セメント業界
基礎原料を仕入れて加工して製品をつくる「素材型産業」を代表するのが鉄鋼業界だ。鉄をつくるには高炉が必要なので「装置産業」とも表現できる。また製品の価格はよりグローバル化し、原料の調達から製品の輸出まで、為替相場の影響をモロに受ける業界でもある。
鉄鋼業界は、かつて5強と呼ばれたが、現在は「新日本製鐵」と「JFEスチール」の2強。2006年に世界最大の鉄鋼メーカー「アルセロール・ミッタル」が誕生し、日本の鉄鋼メーカーの買収を目論んでいるようなので、2強は財務強化を図り、グループ化を進めている。
新日本製鐵の創業は幕末。1857年、釜石で日本初の洋式溶鉱炉の出銑に成功。1880年に釜石製鐵所が営業を開始した。これを母体として5社が合併して誕生したのが新日本製鐵だ。2002年にNKKと川崎製鉄が合併して誕生したJFEスチールと対抗するために、業界第3位の神戸製鋼所と提携する一方で、業界4位の住友金属工業の大株主となって、ゆるやかなグループを形成している。
1905年、鈴木商店が小林鉄鋼所を買収して誕生したのが「神戸製鋼所」。1911年には鈴木商店から独立。兵庫県を基盤に成長し、鉄鋼部門、溶接部門、銅・アルミ部門で約50もの関連会社があり、神戸製鋼グループを築いている。2001年に新日本製鐵と鉄鋼事業で包括的提携を結び、新日本製鐵、神戸製鋼所、住友金属工業の3社による提携戦略を進めている。
1897年に創業した住友伸銅場を起源とする「住友金属工業」は、住友グループの中核企業。三井住友銀行、住友化学とともに住友御三家と称される。主要株主には、住友商事とともに新日本製鐵が名を連ねている。
石灰石や粘土を主原料とするのがセメント業界。かつては小野田セメント、日本セメント、三菱鉱業セメントなど5グループがしのぎを削ったが、現在は太平洋セメント、住友大阪セメント、三菱マテリアルの3グループに集約されている。最大手「太平洋セメント」のルーツは、1881年に山口県で創業した「セメント製造会社」。のちに「小野田セメント」「秩父小野田」を経て「日本セメント」と合併し、現在に至る。
業界第2位の「住友大阪セメント」は、住友グループ唯一のセメントメーカー。1907年創業の「磐城セメント」をルーツとし、1994年に「大阪セメント」と「住友セメント」が合併して誕生した。原料を自社で調達するため鉱山経営も続けている。
業界第3位の「三菱マテリアル」は、銅、鉛、アルミなど非鉄金属メーカーの最大手でもある。1871年、三菱商会前身の九十九商会が紀州新宮藩の炭鉱を租借し、鉱業部門に進出したのを起源としている。三菱はのちにセメント事業に進出し、「三菱鉱業セメント」と「三菱金属」が合併して誕生したのが三菱マテリアルだ。その三菱マテリアルと総合化学メーカーの「宇部興産」の共同販売会社が「宇部三菱セメント」だが、宇部興産はセメント業界でも第4位のシェアを占める大手。同社は1897年の匿名組合沖の山炭鉱組合設立を創業とする「100年企業」である。
また、三菱マテリアルは2004年、前出した神戸製鋼所と鋼管事業を統合することで合意。神戸製鋼が 55%、三菱マテリアルが45%を出資して設立した「コベルコ マテリアル銅管」は、銅精錬から加工、販売までを一貫して行う日本最大の企業となった。
1872年、麻生太吉が炭鉱を採掘したのをルーツとする「麻生ラファージュメント」は、旧麻生財閥の中核企業「麻生セメント」とフランスのセメント大手「ラファージュ」が合併した企業。世界最大手のラファージュ社のノウハウがどこに活かされるのかに注目。
By Master K/益田 慶
100年企業 37 産業別100年企業 化粧品・家庭用製品業界
化粧品や洗剤、シャンプーなどを製造する企業は、広くいえば化学メーカーだが、小売りの取扱アイテムから「化粧品・家庭用製品業界」というくくりで紹介する。一部医薬品の扱いもあるが、主力ではないので製薬メーカーとは区別する。
国内第1位の化粧品メーカー「資生堂」は、1872年に日本初の調剤薬局として銀座に誕生したのが起源だ。創業者の福原有信は、西洋薬学を学んだ後、海軍病院薬局長を経て23歳で開業。それまで日本になかった「医薬分業」という考え方をいち早く導入した。福原は1888年、設立発起人として「帝国生命保険」(現朝日生命)の設立に関与し、社長も務めた。同年、日本初の練り歯磨き、1897年に化粧水を発売。
医薬部門からのスタートであったが、1917年に化粧品部を独立させ、現在の基盤を築いた。のちに洗濯用洗剤事業、歯磨事業から撤退。医薬品製造でなく、競争の少ない化粧品部門を特化させたことと巧みな宣伝が成功をもたらした。現在は、中国を中心にアジアに進出し、高級ブランドとしてアジアの女性に人気を博している。
1887年創業の「花王」は、創業者の長瀬富郎が日本橋馬喰町に開業した「長瀬商店」がルーツ。1890年、国産ブランドで初めてとなる高品質な化粧石鹸を発売。「花王」は、洗剤・トイレタリー業界でトップシェアの化学メーカーだが、化粧品業界でも前出した資生堂に次ぐ第2位。
これは2006年に「カネボウ化粧品」を子会社化したことで化粧品分野のシェアが増えたからだ。ほかに生理用品、入浴剤、おむつなど、各アイテム別に有力商品を展開するマーケティング能力に長けている。連結決算で1兆2300億円の優良企業。近年では特定保健用食品の家庭用油「エコナ」、同じく特定保健用食品指定の飲料「ヘルシア」など健康食品事業が成功し、食品業界をして「その手があったか」と悔しがらせている。
その「花王」と洗剤・石鹸分野で競合するのが1891年創業の「ライオン」だ。初代小林富次郎が神田柳原河岸に石鹸とマッチの原料取次ぎの店を開いたのがルーツ。その後、1893年に化粧石鹸「高評石鹸」と洗濯用石鹸「軟石鹸」、「絹練石鹸」を発売、1896年に粉ハミガキ「獅子印ライオン歯磨」を発売し、石鹸と歯磨きの製造メーカーとなる。また頭痛薬「バファリン」の取り扱い、中外製薬から事業を譲り受けたドリンク剤「グロンサン」「新グロモント」「中外胃腸薬」などの販売など医薬品メーカーの側面も持っている。
最後に「資生堂」「花王」「ライオン」より歴史のある老舗2社を紹介しておこう。1615年、日本橋に創業した「柳屋本店」は化粧品業界の最古参。江戸時代は「紅や」の屋号で髪にぬる「柳清香油」を発売し、繁盛したという。名前が全国に知られるきっかけとなったのが、1920年に発売した「柳屋ポマード」だ。男性のリーゼントやオールバックスタイルに欠かせない整髪料となった。また、1953年発売の「柳屋ヘアトニック」は育毛ブームを先取りしたヒットアイテムとなった。それらはロングセラー商品として現在も販売されているほか、男女用ヘアケア、スキンケア製品も発売している。
女性用の「紅」を専門に扱い、200年近く経つのが「伊勢半」。1825年、江戸の小舟町に誕生した、江戸で最初の紅製造問屋「伊勢屋半右衛門」が起源だ。現在は伊勢半グループを形成し、メイク、ネイル、リップなど化粧品を幅広く扱っている。伝統的な紅は、「伊勢半本店」から「小町紅」のブランドで販売されている。
By Master K/益田 慶
100年企業 36 産業別100年企業 繊維業界
明治時代に入って逸早く工業化に進んだのが繊維業界だ。生糸の生産や織物の技術、生産者-工場-問屋-呉服店といった流通ルートも江戸時代にできていたことから、容易に工業化に移行できた。ひとくちに繊維産業といっても、現在では合成樹脂や化成品も生産しており、化学業界、バイオ業界との垣根は曖昧になっている。
1882年創業の「東洋紡績」は、実業家・渋沢栄一の紡績事業計画による国策によって日本初の本格紡績工場として大阪に誕生した。当初は「大阪紡績」としてスタートしたが、1914年に「三重紡績」と合併し、東洋紡績となった。レーヨン、アクリル繊維、ポリウレタン繊維など、常に新たな事業に進出し、化成品、機能材、バイオ・メディカルへと事業領域を拡大した。2001年以降は、非繊維部門の売上高が50%を超えている。売上では後発の「テイジン」「東レ」に大きくリードされている紡績界の名門は、バイオ事業に活路を見いだしている。
1888年、岡山県倉敷市の資産家・大原家の出資を受けて誕生した倉敷紡績、通称「クラボウ」も大阪に本社を構える大手メーカー。繊維関連、化成品、環境制御製品に加え、不動産業やレジャー事業も手がけている。
1889年に「尼崎紡績」としてスタートし、いくつかの合併を経て誕生したのが「ユニチカ」だ。同社も繊維事業だけでなく、高分子事業、環境事業など異分野に進出している。ちなみに同社の子会社に年商34億円の「寺田紡績」(大阪)があるが、なんとユニチカの株式の76.1%を所有している。つまり実質的なオーナーだ。寺田紡績は、旧寺田財閥の寺田利吉が設立した企業。すでに紡績事業から撤退し、タオル及び関連商品の製造販売、合成樹脂製品・原料及び成形品の製造販売を営んでいる。株主配当額が気になるところだ。
1892年創業の「シキボウ」は、伝法紡績、福島紡績、敷島紡績と社名を変更し、現在に至る。同社も大阪のメーカー。産業用資材の製造・販売(製紙用ドライヤーカンバス、フィルタークロスなど)や先端複合材料の製造・販売、不動産業にも進出している。
1896年創業の「富士紡績」は、持株会社制に移行し、社名を「富士紡ホールディングス」に変更。原材料の製造から製品の販売、または商品開発部門までフジボウグループとしてシナジー効果を上げようとしている。国内外に生産工場を展開し、非繊維事業にも力を入れている。
1907年創業の「日清紡績」は根津財閥の資本を得て、のちに「電力王」と呼ばれた福沢桃介が設立した。現在、繊維部門からブレーキ製品、紙製品、バイオテクノロジー部門に軸足が移っている。同社には日本経済界の重鎮が多くかかわっている。創業者の福沢桃介は鉱山、発電、鉄道事業で財を築いた人物。特に関西電力と中部電力の前身となる「大同電力」を設立したことで知られている。
1919年に社長に就任した宮島清次郎は、東京紡績の専務であったが、尼崎紡績に吸収合併されると退社し、日清紡績の専務として迎えられた中興の祖。「日本製紙」の前身のひとつ「国策パルプ」の社長、日本工業倶楽部理事、根津育英会理事長などを務めた。宮島の後継者として社長に就任した桜田武は、日本経済団体連合会(日経連)会長も務めている。
どの「100年企業」も繊維メーカーから、繊維を核にした付加価値の高い化学メーカーへ脱皮しつつあることがわかる。多角化事業が高収益につながるか、それとも足を引っ張るのか。1887年創業の「カネボウ」が食品事業、化粧品事業を拡大した挙げ句、粉飾決算から解散に至った事件は、繊維業界の教訓になっていることだろう。
By Master K/益田 慶
100年企業 35 産業別100年企業 建設業界後編
準大手・中堅ゼネコンにも「100年企業」は多い。大阪に本社を構える「銭高組」は1705年、錢高林右衛門が棟梁として作業員を集め、本願寺尾崎別院の建立に携わった事業をもって創業としている。明治に入ると、大阪・東京を中心に紡績工場、鉱山施設、兵舎建築など数多く施工して業容を拡大。現在に至るまで創業の銭高家が社長を務める。主な施工実績は、東京大学本館、大阪合同庁舎、本州四国連絡高速道路瀬戸大橋、関西国際空港旅客ターミナルなど。
1871年、鴻池忠治郎が大阪で建設業と運輸業を個人創業したのをルーツとするのが「鴻池組」。同じ名前だが、鴻池財閥とは無関係だ。1898年に淀川改良工事を手がけ、名前をあげた。1945年、運輸部門を「鴻池運輸」の名で分社化。主な施工実績は、六甲山トンネル、東京国立博物館、名古屋市立美術館、損保ジャパン本社ビルなど。4代目社長で現会長の鴻池一季氏までは、創業家の鴻池家直系子孫が社長を続けてきた。
By Master K/益田 慶
学校・医療・福祉関連施設に強い「戸田建設」は1881年、大工の戸田利兵衛が東京・赤坂で「戸田方」の屋号で建設請負業を開始したのが始まり。早くから鉄骨や鉄筋コンクリート造りに取り組み、1910年にはロンドンで開かれた「日英博覧会」の工事を受注、1912年には英国風ゴシック様式を採用した慶応義塾大学記念図書館(三田)を手がけた。戸田建設は堅実経営で知られる。金融支援を受けたことのない無借金経営から、格付づけは「準大手A」。主な施工実績は、早稲田大学大隈講堂、日経新聞東京本社ビル、愛知県庁舎、北里研究所病院など。
戸田建設と業務提携を結んでいる「西松建設」も「準大手A」の格づけをもらっている。創業は1874年。西松桂輔が土木建築請負業を創業。トンネルの工法や地盤改良など土木技術に定評がある。上信越自動車道、関越自動車道、九州自動車道など道路やダムを数多く手がけている。
「ダムのハザマ」と呼ばれるほどダム建設に強い「ハザマ」は1889年、福岡県で間猛馬が開業した「間組」が起源。その後、東京に本社を移し、黒部ダムや御母衣ダムなどを手がける。超高層建築物件では、マレーシアのペトロナス・ツイン・タワーの建設で知られる。ピーク時には大手ゼネコンに迫る売上をあげていたが、バブル期の経営失敗により多額の債務を負い、経営再建中。
そのハザマが資本提携したのが、1873年創業の「安藤建設」。創業者の安藤庄太郎が、煉瓦建築は新時代の建築であると見通しを立て16歳で独立。東京に瓦建築業「安藤方」を創業したのが始まり。明治初期に鉄骨、鉄筋コンクリート造りを手がけ、全国業者に成長。業界に先駆けて大型コンクリート板によるプレハブ工法を開発した。中高層ビルに強い。
その安藤建築が業務提携している「東亜建設工業」は、浅野財閥総帥・浅野総一郎が1908年に鶴見・川崎地区の海面埋立てを目的に組織した「鶴見埋立組合」が実質的な創業。その後、事業を受け継ぐ「鶴見埋築会社」を経て現社名に変更。海洋土木に強く、レインボーブリッジは同社が出かけた。
大阪を地盤とする「淺沼組」は、1892年に淺沼幸吉が奈良県大和郡山市に「淺沼組」を創業したのが始まり。庁舎、商業施設、集合住宅、道路など幅広く手がけている。創業家の淺沼家から社長が登場している創業オーナー企業のひとつ。官公庁建設に実績があり、主な施工実績は、久留米市新庁舎、東京湾アクアライン、大阪市中央体育館、横浜ポートサイド地区再開発など。
1896年、広島県呉市で水野甚次郎が創業した「水野組」を前身とするのが、海外大型工事で有名な「五洋建設」だ。明治・大正時代に呉や佐世保など海軍の工事を受注して成長。1961年にはスエズ運河改修工事を受注。広島から東京に本社を移し、現社名に改称。カタール、イラン、シンガポール、マレーシアなど海外で海洋土木を手がけている。
100年企業 34 産業別100年企業 建設業界前編
元請負者として各種の土木・建築工事を一式で発注者から直接請負い、工事全体のとりまとめを行なうゼネコンから紹介しよう。受注高1兆円を超える大手5社(鹿島、清水、大成、大林、竹中)はすべて「100年企業」だ。
最も古い歴史をもつのが、1610年に初代・竹中藤兵衛正高が名古屋で創業したのを起源とする竹中工務店だ。大手5社のうち唯一の非上場企業。竹中藤兵衛正高は織田信長の元家臣で、神社仏閣の造営を得意とした。明治に入り、欧米の建築技術を導入。1899年、14代竹中藤右衛門が神戸に進出したことが、飛躍のきっかけとなった。
世界に開かれた神戸港を核に神戸の都市化が加速し、建築物の請負いが急増したのだ。会社組織にしたのも早く1909年。1923年には本社を大阪に移した。主な施工実績は、東京タワー、国立劇場、東京ドーム、新丸ビルなど。同社は自社が手がけた建築物を「作品」と呼び、作品至上主義を貫いている。社長は代々竹中家から出ている。大阪を基盤とすることから、関西経済界では旧三和銀行の色が強い。
清水建設は1804年、日光東照宮の修理に参加した大工の清水喜助が江戸・神田鍛冶町で創業したのが始まり。腕が見込まれて得意先が増え、「清水屋」の看板をあげて棟梁となる。江戸時代には、江戸城西の丸の再建工事や、井伊直弼から横浜の外国奉行所の建設を請負っている。これが「清水屋」が発展する契機となった。幕府御用達の工事が増えたのだ。明治に入ると、渋沢栄一の助言を受け、創業家は経営を離れ、会社として数多くの建造物を請負うようになり、建設業界のトップの地位を築く。主な施工実績は、大阪国際空港ターミナルビル、シャープ亀山工場、横浜スタジアム、ヒルトン東京ベイなど。
1840年創業の鹿島建設は、大工の鹿島岩吉が江戸で開業したのが始まり。明治に入って「鹿島組」と改称。鉄道建設、ダムや発電所の受注で規模を拡大した。完成まで17年の歳月を要した難工事「丹那トンネル」は有名。1990年に退任した8代目社長鹿島昭一までは、創業の鹿島家が歴代社長を輩出してきた。6代社長の渥美健夫と7代社長の石川六郎は、鹿島家の娘婿として鹿島に君臨した名物経営者であった。主な施工実績は、青函トンネル、西武ドーム、フジテレビ本社ビル、国立新美術館など。超高層ビル事業を得意とする。関連会社の数が多く、鹿島グループを築いている。
大成建設のルーツは、1873年に大倉喜八郎が設立した大倉組商会だ。したがって旧大倉財閥系列。大成建設に改称したのは1946年。超高層ビル、ダム、橋、トンネルなど大規模な建築土木工事を得意とする。近年では、アラブ首長国連邦のパーム島の海底トンネル工事、ボスポラス海峡横断鉄道トンネル工事の受注によって海外でも注目を集めた。
大林組は、1898年に大林芳五郎が大阪で創業した土木建築請負業「大林店」がルーツ。竹中工務店と同じ大阪を基盤とする企業だが、1970年に東京本社、大阪本店に改めた。建築新技術の開発に定評がある。主な施工実績は、大阪毎日新聞本社、甲子園球場、六本木ヒルズ森タワー、表参道ヒルズなど。歴代社長は3代まで創業家の大林家から誕生したが、以降は輩出していない。現会長大林剛郎氏は3代目社長・会長の次男。副社長、副会長を経て現職に至るが、社長は経験していない。大阪商工会議所副会頭、関西経済同友会常任幹事も務めている。
建設業界の市場規模は約60兆円。「100年企業」の大手5社は海外進出を図る一方で、準大手との業務提携や吸収など淘汰・再編が進むであろう。
By Master K/益田 慶
100年企業 33 産業別100年企業 百貨店編・後編
地方都市にも創業100年を越える老舗の百貨店がある。「松坂屋」や「大丸」のように中央に進出して全国区になった企業がある一方、あえて全国展開しなかったからこそ「100年企業」になりえた百貨店もあるだろう。
1615年に後藤家が名古屋で創業した「十一屋呉服店」をルーツとするのが、名古屋の老舗「丸栄」だ。戦中の企業整備令に基づく百貨店整理統合により、同じく名古屋に本店を構える「三星」と合併し、「丸栄」が誕生。「三星」のオーナーは京都で百貨店「丸物」を経営する中林仁一郎で、彼が「丸栄」の経営にも関与したが、経営不振から1995年に地元名古屋の企業グループ「興和」が経営再建に加わった。
「興和」は、医薬品、繊維、商社など幅広く手がける「100年企業」で、現在も筆頭株主だ。名古屋といえば「松坂屋」の本拠地で、百貨店の激戦区だが、「丸栄」はターゲットを10代後半から20代前半に絞り、松坂屋との差別化に成功している。
1749年創業の「矢尾百貨店」は、埼玉県秩父市唯一の百貨店。百貨店業界は呉服店を前身とする企業が多いが、「矢尾百貨店」のルーツは初代・矢尾吉兵衛が始めた酒造業だ。「秩父錦」ブランドで知られる酒蔵メーカー「矢尾本店」は250余年続く老舗として名高い。「矢尾百貨店グループ」には、ほかに家具店、メモリアルホールがある。こちらは地元密着のグループ企業として生き残る戦略をとっているようだ。
鹿児島、宮崎に店舗を構える百貨店「山形屋」は1751年創業。地元密着型百貨店として生き残り、店舗ごとに一企業として独立している。創業者は、山形県庄内地方の北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て鹿児島城下で最初の呉服店としてスタートしたのが起源。屋号は創業者の出身地だ。「山形屋」は神戸以西の地域では最古の百貨店で、「大丸」と肩を並べるほどの伝統がある。坪あたりの収益率は高く、事実上「ひとり勝ち」を続けてきた。また子会社の「山形屋ストア」がスーパーを展開している。
1806年、田中丸善吉が佐賀県牛津で創業した荒物商「田中丸商店」を起源とするのが、「佐賀玉屋」(佐賀市)と「佐世保玉屋」(長崎県佐世保市)だ。九州では鹿児島の「山形屋」に次ぐ歴史がある。両社とも創業家の子孫がオーナーを務めている。かつては福岡市や北九州市にも店舗を持っていた。「佐世保玉屋」は長崎に支店を持ち、子会社が伊万里で「伊万里玉屋」を開いている。
仙台にも老舗百貨店がある。1819年創業の「藤崎」だ。初代・藤崎三郎助が仙台で木綿商を始めたのがルーツ。江戸時代に仙台の富豪となり、明治に入り、「藤崎呉服店」を開業。現在、仙台を中心に東北地方でギフトショップやスーパーも展開している。現社長の藤崎三郎助氏は7代目にある。
中国・四国地方最大の百貨店グループである「天満屋」の創業は1829年。多くの女子マラソン選手を輩出している女子陸上部を抱えることでも有名だ。初代・伊原木茂兵衛が現在の岡山市で「天満屋小物店」を開いたのが始まり。直営店は岡山県、広島県にあり、グループ会社が米子市、高松市に「天満屋」ブランドの店舗を運営している。百貨店以外にスーパー、ホテル、人材派遣業などを傘下に収める企業グループを築いている。売上は連結で約1736億円あげているが非上場。創業者一族の伊原木家が同族経営を続けている。
山梨県甲府市の「岡島百貨店」は1843年創業。茶業と呉服業からスタートしている。2002年には「三越」と業務提携。ホームセンターの経営のほか「ケーズデンキ」とFC契約を結び、2店舗を運営している。
こうして地方の老舗百貨店を見てみると、地元密着度を増していることがわかる。大手の進出によって競争が激化しているので、大手と業務提携し、伝統ののれんだけは守って活路を見出すのもひとつの方策だろう。
By Master K/益田 慶
100年企業 32 産業別100年企業 百貨店編・前編
百貨店業界の「100年企業」として、すぐに思い浮かぶのが「松坂屋」と「三越」だ。松坂屋は織田信長の家臣であった伊藤蘭丸が1611年、名古屋に呉服小間物商「いとう呉服店」を開いたのが起源。本来の屋号は「いとう屋」だが、1767年に江戸・上野にあった呉服店「松坂屋」を買収した際、すでに知れ渡っている江戸の屋号をそのまま使用した。松坂屋は戦後の一時期、三越、髙島屋をしのぎ、単独で日本一の売上を誇った。
創業家の伊藤家は、名古屋で銀行やホテルを経営するなど伊藤財閥を築き、長い間、松坂屋の経営権を握っていたが、1985年、16代伊藤次郎左衛門会長の死去にともない、副社長から会長に就任したばかりの大番頭格の鈴木正雄が社長に就任。創業家の17代伊藤洋太郎社長が代表権のない会長に棚上げされ、「松坂屋クーデター」と称された。当時、伊藤社長は、鈴木正雄会長がリベート事件に関与していたとして取締役会を招集して糾弾するつもりだったが、逆に鈴木派に反撃されて社長解任決議案を出された。以降、伊藤家以外の社長が経営者を務めている。そして記憶に新しいのが2007年に起こった「大丸」との統合劇。統合後の売上高は、当時一番だった「髙島屋」のグループ連結売上1兆427億円を抜く約1兆1,600億円となり百貨店業界の首位に立った。
「大丸」も1717年創業の「100年企業」。知名度はさておいて、売上は「松坂屋」より多く、一時期は「三越」との合併が噂されていたが、地域競合が少ないことから老舗同士の大型統合が決まった。両社の持株会社である「J.フロントリテイリング」の代表には、大丸・奥田務氏がCEO、松坂屋・岡田邦彦氏が会長として名を連ねている。ともに百貨店業界のリーダーだ。
この統合は、同じく江戸時代生まれの老舗「三越」と明治生まれの老舗「伊勢丹」の経営統合に大きな影響を与えた。「三越」は1673年、三井高利が江戸本町に呉服店「越後屋」を開いたのが始まり。「伊勢丹」は1886年、初代・小菅丹治が神田に「伊勢屋丹治呉服店」を創業したのが起源。どちらも「100年企業」だ。両社を運営する持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」の設立は2008年4月なので、今期の決算報告はまだだが、統合前の「三越」の売上(連結)7739億円、「伊勢丹」の売上(連結)7647億円を足せば、「松坂屋・大丸」を抜き、2008年度からトップに立つことになる。このように老舗百貨店の業界再編は激しい。
2005年、「伊勢丹」の連結子会社となった福岡の「岩田屋」も1754年創業の老舗だ。全国区の知名度は低いが、九州出身者には有名。こちらもスタートは呉服店だ。会社再建中の2002年、創業一族である中牟田喜一郎会長と中牟田健一社長が退任。中牟田一族は経営から手を引き、3年間の再建計画が終了した時点で伊勢丹の連結子会社となった。現在は、三越伊勢丹ホールディングスの傘下だ。
1869年創業の「松屋」も「伊勢丹」と業務提携した百貨店である。初代・古屋徳兵衛が横浜・石川町に「鶴屋呉服店」を創業したのが始まり。1899年、東京・神田の「松屋呉服店」を買収し、のちに屋号を「松屋」に改める。1970年代のオイルショック以降、経営難に陥り、再建の過程で伊勢丹と東武百貨店が支援に入り、伊勢丹とは業務提携を開始。しかし、三越と伊勢丹の経営統合により、松屋と伊勢丹の蜜月もあやしくなっている。伊勢丹が統合する三越の銀座店は、松屋銀座店の隣。銀座エリアで互いに地域一番店を競う松屋からすれば、伊勢丹が突然ライバルと結婚したのも同然。今後の関係は微妙だ。
一方、「松坂屋・大丸」に売上ナンバーワンの地位を奪われた「髙島屋」だが、こちらも老舗の「100年企業」だ。1831年、飯田新七が京都・烏丸松原で古着・木綿商「髙島屋飯田呉服店」を開いたのが創業。1898年に心斎橋に進出し、本社を大阪に移す。老舗最大手の中では数少ない独立系百貨店。東京店、横浜店、大阪店、玉川髙島屋など大型店舗が多いのが特徴だ。
By Master K/益田 慶
100年企業 31 産業別100年企業 中小専門商社編・後編
中小の専門業者に「100年企業」は多い。市場が小さくても、その中である程度のシェアを確保することによって今日まで継続して来られたのだろう。
富山県高岡市の「塩崎商衡」は、1740年に大工道具、仏具、銅器、金物を扱う「指物屋道具屋利兵衛」として創業したのがルーツ。高岡は古くから銅器の産地であったことから、明治に入り、銅器の製造・販売に乗り出し、戦後はアルミ鋳物製・家庭用鍋・釜などの扱いも開始。現在は計量・計測機器の専門商社として知られている。現社長の塩崎利平氏は八代目にあたる。
1790年に初代小倉久兵衛が、江戸・京橋南伝馬町で油蝋商「和泉屋」を創業したことを起源とするのが、「小倉貿易」だ。明治初期に日本橋に進出して「小倉久兵衛商店」と改め、麻・漁網船具商を専業として発足。以後、明治末期にかけて業容を拡げ、マニラ麻、ラミー麻など広く海外より輸入販売。大正時代に現社名に改め、現在はパルプや機械部品、プラスチック製品、生活用品の商社として展開している。
1798年、初代小林吟右衛門が、近江国(現滋賀県)で創業したのが「チョーギン」だ。「丁子屋」の屋号を用いたことから、小林の名とあわせ、丁吟(ちょうぎん)と呼ばれた。のちに彦根藩御用達商人となる。近江商人の躍進は続き、1831年、二代目小林吟右衛門が日本橋に織物問屋を創業。京都、大阪にも支店を出し、両替商も営んだ。その後、織物販売部門を分離し、今日の衣料品の卸と小売が始まる。現在、百貨店に洋服を卸しているほか、京都店の跡地と東京の所有地に「ホテルギンモンド」を建設し、経営している。
「日本紙パルプ商事」は紙の専門商社。初代・紙屋弥兵衛が1845年に京都に和紙商「越三商店」を開いたのが起源で、明治に入って京都府御用達となり、王子製紙とも取引を開始。その後、本店を東京に移し、いくつかの紙商社を吸収して拡大。1970年代に東証、大証とも上場。国内外に卸と加工、物流の一大ネットワークを築いている。
1854年創業の「森友通商」は、初代森友徳兵衛が徳島県より上京して、現在同社が建つ日本橋の地に荒物雑貨問屋「阿波屋」を開業したのが始まりだ。現在は日用品雑貨、医療用具、乾物食品の卸を手がけている。「問屋無用論」が浸透している今日、同社は中小規模の日用品卸問屋を集めてオンラインショップを立ち上げ、問屋の可能性を模索している。
1852年創業の「田中産業」は、黒船来航の1年前に初代田中与助が日本橋箱崎町で創業した麻船具問屋「十一屋与助商店」をルーツとする船舶機械商社。築地にマリンショップを経営し、関連会社がマリーナの管理やボートのメンテナンスなど船舶関連の事業を展開している。
1861年、増田善兵衛が現在の埼玉県で行商の行き返りに商売をする「持下り商い」を開始したことをルーツとするのが「掘田丸正」。明治に入り、日本橋大伝馬町に呉服問屋を開業。「丸正」の名で衣料品の卸と直営を展開し、のちに和装品の卸・小売企業「ヤマノグループ」の一員となり、2007年に「堀田」と合併。現在、和装品、洋装品、寝装品、健康関連商材等と貴金属・宝石等の卸売販売、意匠撚糸の製造販売を手がけている。
1862年、初代外村市郎兵衛有常が金堂村(現滋賀県)で布類の卸売業を開業したことを始まるとするのが和装問屋の「外市」だ。外村市郎兵衛は近江麻布や関西木綿を江戸へ、関東の衣服を京・大阪へ送った近江商人。現在、本社は京都市にあり、和装と洋装のアクセサリーや貴金属の問屋を営んでいる。京都には老舗呉服商社が多く、1867年に塚本喜左衛門が烏丸に創業した「ツカキ」も近江商人が開いた店が始まりだ。現在、ツカキグループとして和装、貴金、ウェディングドレスを手がけているほか、京都市内の不動産管理も行なっている。
By Master K/益田 慶
100年企業 30 産業別100年企業 中小専門商社編・前編
三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅などは日本を代表する総合商社だが、じつはこれらより古い歴史を誇る専門商社は多い。老舗の専門商社に共通する特徴は、そのほとんどが特定のジャンルに特化していることと、取引先が安定していることだ。紙の専門商社が多いことから、保守的な業界であればあるほど老舗は生き残りやすいという見方もできそうだ。
織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取った1560年。同年に創業した日用品・住宅設備機器の専門商社が岐阜市にある。「サンアイ岡本」だ。448年も続く企業があるとは驚きである。現会長と社長は岡本姓なので、彼らが創業者の子孫だとすれば、約450年間、岡本家がのれんを守ってきたことになる。日本にこういう企業、一族が存在することは国の財産といってもよいだろう。
安土桃山時代の1585年、初代西川勘右衛門数吉が現在の滋賀県近江八幡市で蚊帳や畳表などの農産品を中心に販売を始めた商社がある。その後、販路を広げ、江戸日本橋、大阪、京都に出店を持つに至り、西川庄六商店、西川商店と改組し、現在の「メルクロス」となる。甘味料など食品素材、寝装品、繊維原材料、工芸品、インテリア、ファッション雑貨、不動産管理など幅広い事業を展開している。こちらは「423年企業」だ。
和紙から洋紙まで紙の専門商社「小津産業」は1653年の創業というから、「355年企業」だ。4代将軍・徳川家綱の時代、小津清左衛門長弘が江戸・大伝馬町に紙商を開いたのが起源だ。小津はもともと松阪商人で、旧小津清左衛門邸は現在、三重県松阪市に「松阪商人の館」の名で資料館として保存・公開されている。
江戸時代の紙屋の半数は、松阪商人であったとされている。江戸十組問屋仲間には47軒もの紙屋が名を連ねていたが、なかでも小津清左衛門は一番組の筆頭格であった。明治に入ると紡績工場を買収し、「小津銀行」を創業するなど多角化を進め、財閥化の方向にあったが、洋紙問屋が台頭したことで洋紙部門を拡充し、紙の専門商社として生き残る道を選んだ。現在、6社からなるグループを築いている。
徳島県に総本店を構える「三木産業」は、1674年創業の化学品の専門商社。阿波国中喜来浦村(現在の総本店所在地:徳島県板野郡松茂町)で、三木家遠祖が天然藍の取扱いを始めたのがルーツだ。その後、代々家業を継ぎ、播州姫路、淡路洲本に販路を開き、さらに1789年には江戸日本橋にも店舗を構えた。それが現在の東京本社の所在地である。世界各国にネットワークを築き、グループ企業もある。
福島県の紙の専門商社「富久」は1685年創業。王子製紙、日本製紙、北越製紙など国内大手製紙会社に納品していることから、堅実な経営をしているようだ。「新生紙パルプ商事」も紙の商社だ。1692年創業の洋紙商社「岡本」と1889年創業の洋紙商社「大倉三幸」が2005年に合併して誕生した。初代・紙屋彌兵衛は江戸両国に店舗を借りて紙商を興し、再生紙「浅草紙」の行商よりスタート。その後、幕府の指名問屋となり、岡本商店、岡本と改組して今日に至る。
1712年創業の「国分」は、四代目国分勘兵衛宗山が土浦に醤油醸造工場を設け、「大国屋」の屋号で開業、同時に日本橋に店舗を開いたのが起源だ。現在は酒類・食品の卸売業、貿易業、パン粉の製造業、貸室業などを営んでいる。ちなみに現代表取締役会長兼社長の国分勘兵衛氏は、十二代目にあたる。1717年、徳川吉宗が将軍の時代に初代中澤彦七が江戸に酒・醤油仲買商「塗屋彦七」を開いたことを起源とするのが「ぬ利彦」だ。現在は酒類・食品をはじめ、OA機器も扱っている。現社長は九代目中澤彦七氏。オンラインショップ九代蔵や直営ギャラリーも経営している。
このように、名前は一般的に知られてなくても、100年以上続く中小の専門商社は、ほかにも多く存在する。
By Master K/益田 慶
100年企業 29 産業別100年企業 総合商社・専門商社編
「ラーメンからミサイルまで」といわれるように、ありとあらゆる商品を扱う総合商社。上位5社は、三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅だ。名前だけ見るとすべてが「100年企業」に思えるが、実はそうでもない。三菱商事は、三菱合資会社4代目社長・岩崎小弥太が1916年に事業部を分割して以降に誕生した。三井物産は、1876年に旧三井物産として設立したが、戦後の財閥解体で一時解体し、現在の三井物産は1947年の創業を謳っている。「伊藤忠商事」と「丸紅」は1858年、伊藤忠兵衛が行商を開始したことをもって創業としているので「100年企業」だ。住友商事は戦後の創業である。
準大手の「日双」は2003年、ともに100年の歴史を誇る「ニチメン」と「日商岩井」が合併して誕生。ニチメンが存続会社となっているので、ニチメンの前身である日本綿花の創業年1892年をもってしても「100年企業」である。日本綿花より3年前の1889年に兼松房治が神戸市で羊毛の輸入を始めたことをルーツとする「兼松」は現在、エネルギー、医薬品、食料、鉄鋼など幅広く扱う準大手の総合商社となっている。こちらも「100年企業」だ。創業者の兼松房治は、三井銀行大阪支店、堂島米紹介所を経て、1882年に住友財閥の大阪商船の設立に参加し、取締役となるが、1886年に辞任。翌年、「大阪日報」を買収し、「大阪毎日新聞」と改称し、今日の「毎日新聞」の基本をつくった人物としても知られている。
中堅・専門商社としては、森村商事、岡谷鋼機、長瀬産業、ユアサ商事、蝶理などが「100年企業」だ。「ノリタケ」や「日本碍子」「日本特殊陶業」などから成る世界最大のセラミックグループ「森村グループ」の中核企業である「森村商事」は1876年創業。旧森村財閥を牽引した商社で、商社では珍しく創業の森村家が代々社長を務めている。鉄鋼・機械の専門商社「岡谷鋼機」の起源は、江戸時代までさかのぼる。1669年に初代岡谷總助宗治が名古屋の、現在同社の本社所在地となっている場所で金物商「笹屋」を創業。1888年にはすでに輸入鉄の販売を開始していたというから、まさに鉄鋼の老舗である。現社長の岡谷篤一氏は創業者の子孫にあたる。
大阪に本社を置き、医薬品や写真材料を専門に扱う「長瀬産業」のルーツは、1832年に長瀬徳太郎が京都西陣で染料、澱粉、ふのりなどの販売を始めた「鱗形屋」だ。その後、大阪に本店を移転。かつては米国コダック社の日本総代理店を務め、日本コダックをグループ会社としていた。現在20数社から成る「長瀬グループ」を構成し、「長瀬薬品」や「イマジカ」を傘下に持っている。同社もまた創業の長瀬家が代々社長を務めている。
切削機械や制御機械の扱いで知られる「ユアサ商事」は、1666年に初代湯浅庄九郎が京都で創業し、1674年に江戸に出店している。現在はプラント事業、建設・土木など幅広く資材の調達を行い、「ユアサグループ」を結成している。繊維と化学品の専門商社「蝶理」も大阪に本社を置く老舗だ。1861年、京都西陣で生糸問屋として創業。人絹糸生産量の30%を取扱い、人絹糸業界最大の糸商となる。その後、本社を大阪に移した。バブル期の過剰な事業投資が裏目に出て慢性的な赤字経営が続き、当時の大口取引先である旭化成と東レの支援を受け、現在は東レが50.1%の株を有しており、東レの子会社化している。
同じく京都西陣で1890年に合成染料の輸入販売や、国産染料の開発を始めたのが「稲畑染料店」だ。創業者の稲畑勝太郎は、15歳でフランス留学し、帰国後、京都染工講習所の所長を務めた秀才。1895年には東京支店を開業し、その後、本社を大阪に移転。この稲畑染料店が「稲畑産業」に改称し、戦前に日本染料と住友化学工業と合併し、今日に至る。主要株主は住友化学だが、「住友」の名前を冠せず、創業稲畑家の子孫が現会長、社長を務めている。ちなみに1984年に医薬事業部を分離し、住友化学とともに設立したのが「住友製薬」である。
By Master K/益田 慶
100年企業 28 産業別100年企業 損害保険会社編
木造住宅が多いことから火災、そして地震が大きなリスク要因となる日本。もともと海運業の発展とともに明治時代に興ったのが日本の損害保険会社だ。「○○海上」と名のつく損保は、海上保険をメインにしていた名残である。日本の損保会社は、生保の関連会社や子会社として設立されることが多い。銀行、生保業界同様、合併を繰り返して今日に至る。また、財閥系を起源とする企業が多いことも共通点だ。
日本最初の損保会社は1879年に誕生した三菱系の「東京海上保険」だ。三菱グループの源流となる「日本郵船」創業の4年後だ。同社が東京海上火災保険となり、旧安田財閥系の「日動火災海上保険」と合併して2004年に「東京海上日動火災保険」が誕生した。現在、同社が収入保険料業界第1位である。東京海上火災が存続会社となって合併したので、1879年創業の「100年企業」になる。現在の親会社である持株会社の「ミレアホールディングス」も三菱グループ。ホールディングス社長の隅修三氏は、東京海上日動火災の社長を兼務している。
1887年に創業した「東京火災保険」が数度の合併を重ねて誕生した「安田火災海上」と日産グループの「日産火災海上」が2002年に合併して誕生したのが「損保ジャパン」だ。これに破綻した「大成火災海上」が吸収され、また「第一生命」の損保会社「第一ライフ損保」が加わり、同社は一気に業界第2位に浮上した。といっても、もともと旧安田火災は業界第2位をキープしていたので順当なところだが、現在「三井住友海上」が業界第2位につけている。損保ジャパンは1888年を創業年としているが、これは、安田火災海上の前身である東京火災保険の創業の翌年にあたる。1888年に正式に会社としてスタートしたということだろうか。どちらにしても東京海上火災と肩を並べる「100年企業」だ。
「日本興亜損保」の歴史も古い。1892年、大阪に「日本火災保険」が誕生。1896年、東京川崎財閥系の「日本海上保険」が誕生。よく似た名前で紛らわしいが、この二社が合併して「日本火災海上」が設立。2002年に「興和損保」と合併して誕生したのが「日本興和損保」だ。同社は日本火災保険の設立をもって創業としているので1892年創業の「100年企業」となる。
日本生命グループ「ニッセイ同和損保」は1897年の創業。ただし、当時は日生グループではなかった。のちに関西の岡崎財閥が設立した「神戸海上運送火災」に吸収され、さらに同社を含む4社が合併し、「同和火災海上」が誕生。同社の筆頭株主が日生だった。そして損保業界に進出した日生のグループ会社「ニッセイ損保」と合併して、2001年ニッセイ同和損保が誕生した。
東京海上火災と同じ持株会社の傘下にあるのが「日新火災海上」だ。起源は1908年創業の「帝国帆船海上」。1943年に現社名に改称。2006年、ミレアホールディングスの子会社となったことで、東京海上日動火災と同じグループとなった。
損保ジャパンと熾烈な2位争いを続けている業界最大手の「三井住友海上」は意外に歴史が浅く、存続会社である「三井海上」の前身にあたる「大正海上」が設立したのは1918年。一方、「住友海上」の起源は1893年創業の「大阪保険」。住友海上が存続会社になっていれば、問題なく「100年企業」だった。
ほかに大きな合併を挙げれば、「大東京火災」と「千代田火災」が合併し、トヨタ自動社が34%出資して2001年に生まれた「あいおい損保」がある。前者は野村証券が大株主となってスタートした損保。後者のルーツは「千代田生命」だが、2000年に破綻し、米国大手金融グループAIGに買収され、生保部門は「AIGスター生命」として営業している。
By Master K/益田 慶
100年企業 27 産業別100年企業 生命保険会社編
日本では、銀行の誕生とほぼ同じ頃に誕生した生命保険会社。老舗の生保は、国策として明治政府の意向を受けて誕生したものと財閥系に大別できる。そして銀行業界同様、吸収・合併・統合を繰り返して今日に至っている。
生保として最も古い組織は1880年、安田財閥総帥・安田善次郎が「安田生命」の前身である「共済五百名社」を設立したことに始まる。翌年、福沢諭吉門下の阿部泰蔵と三菱の正田平五郎が「明治生命」を設立した。阿部は慶応義塾大学塾頭から文部省に入省した官僚だった。正田も福沢に認められ、教師になったのち、三菱に入社して初期三菱の経営戦略を担ったエリートだ。
このように「安田生命」と「明治生命」が日本最古の生保だが、ご存じのように2004年、存続会社を明治生命とした「明治安田生命」が誕生。同社は明治生命の創業年1881年を採用しているので「100年企業」ということになる。明治生命は三菱グループ、安田生命は芙蓉グループ。旧財閥・企業グループの枠を超えた大型合併だった。
社名を変更せずに現在に至る生保の最古参が、1888年設立の「朝日生命」だ。旧古河財閥に属し、現在も日本通運や古河機械金属(旧古河鉱業)の大株主である。業界地図からすれば、古河銀行→第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行という流れがあることから「みずほフィナンシャルグループ」に近いものの、近年では「三菱グループ」と見なされることも多い。ちなみに朝日生命の前身である「帝国生命」の設立発起人は、「資生堂」創業者の福原有信で、設立5年後には帝国生命の社長に就任した。なお、老舗生保ではあるが、損保子会社を持っていない。
1889年に設立された「日本生命」は現在、生保業界第一の保険料収入を誇るビッグカンパニーだ。その子会社、関連会社、主要株主となっている企業は数えきれない。その起源は、多くの銀行設立に関与した弘世財閥・弘世助三郎が関西最初の生保として立ち上げたものだ。初代社長こそ関西経済界の重鎮、鴻池善右衛門に担ってもらったが、実質的には副社長の片岡直温(のちに若槻内閣で大蔵大臣に就任)と弘世助三郎ラインでスタートしている。
意外に古いのが1893年創業の「太陽生命」だ。もともと「名古屋生命」として創業されたもので、1908年に改称。1999年には「大同生命」と業務提携。一時は経営統合して「大同太陽生命」が誕生するのではないかと思われたが、両社の統括会社「T&D保険ホールディングス」が持株会社となり、大同と太陽はともにホールディングスの子会社となった。
その「大同生命」も歴史は古く、1902年の創業だ。朝日生命(現存する朝日生命ではない)と護国生命、北海生命の3社が合併して誕生。太陽生命同様、旧三和銀行系列。つまり関西に軸足を置くUFJグループだったわけだが、三菱グループとの合併により、結果として三菱グループに飲み込まれた。
1902年創業の「第一生命」は、当時としては珍しく非財閥系だ。創業者の矢野恒太は、日本生命、安田生命の前身である「共済生命」の設立に関与したのち、当時の農商務省保険課長を務めた人物。日本で初めて相互会社形式での保険会社を構想。こうして第一生命が誕生した。なお、「安田生命」の実際の設立は1894年。「共済五百名社」の運営に行き詰った安田善次郎が矢野を抜擢し、矢野と安田を中心に「共済生命」を興したが、矢野が経営陣と対立して退社している。
業界第3位の「住友生命」は、1907年の創業。名前からわかるように旧住友財閥が出資して誕生した会社だ。銀行、損保、資産運用分野とも「三井」と合併して「三井住友銀行」「三井住友海上」「三井住友アセットマネジメント」が誕生しているが、生保に関しては合併の見込みはないようだ。
By Master K/益田 慶
100年企業 26 産業別100年企業 都市銀行編
銀行の「100年企業」を調べていくと、江戸から明治にかけて潤沢な財力を得意分野に集中、あるいはリスクを分散させながら、財閥へと成長した現在の企業グループのおいたちが見えてくる。
金融機関には「金融機関コード」と呼ばれる、独自に割り当てられた4桁の番号がある。0001~0017は都市銀行、0116~0190は地方銀行、1001~1996は信用金庫といった具合にグループ化したうえで振り分けられている。では、0000は欠番なのかといえば、そうではない。1882年に設立された「日本銀行」に0000がつけられている。銀行の「100年企業」といえば、まず日本銀行の名をあげなければいけないだろう。
ここで「日銀は企業ではないじゃないか」と思われる人がいるかもしれないが、日本唯一の中央銀行である日本銀行は政府から独立した法人で、日本銀行法により資本金は1億円と定められている。そのうち政府が55%を出資し、残りは民間等の出資となっている。つまり、半官半民の企業なのである。日銀はジャスダックに上場しており、出資者には出資口数を証明する出資証券が発行されている。なぜジャスダックなのかといえば、東証では上場基準に満たないからだ。
金融コード0001を引き継ぐ存続会社が「みずほ銀行」だ。起源は三井組と小野組が設立した「三井小野組銀行」をベースにしてつくられた「第一国立銀行」。渋沢栄一が音頭を取って1873年に創業し、初代頭取も務めている。「国立」とついているが、財閥系企業による民間経営で、法律上では日本初の株式会社である。その後、何度も行名を変え、一度は三井銀行と合併したが、のちに分離。その後、存続会社の第一勧業銀行が富士銀行、日本興業銀行と統合し、現在のメガバンク誕生となった。第一国立銀行を創業とするなら、みずほ銀行は「100年企業」ということになる。
金融コード0009をもらっている「三井住友銀行」は、前出した「第一国立銀行」の創業の際に主導権を手放した三井が1874年に創業した私立「三井銀行」と、江戸時代に別子銅山の経営で財を成した住友家の個人経営による「住友銀行」(1895年創業)がルーツだ。もともとは三井銀行に金融コード0002が与えられていたが、0009の住友銀行が存続会社となったため、0002は消えてしまったことになる。どちらの創業を採用しても三井住友銀行は「100年企業」である。それにしても日本を代表する財閥系の三井と住友が、銀行分野だけとはいえ合併して「三井住友」と名前を連ねることを100年前に誰が想像しただろうか。
ちなみに、かつて0003をもっていたのは富士銀行だが、その前身は安田財閥の安田銀行であった。銀行設立は財閥でなければ実現できなかったのであろう。その富士銀行は3行の合併により前出した「みずほ銀行」となったので、0003もまた消えてしまった番号のひとつである。
意外に歴史が浅いのが三菱系。「三菱銀行」が設立されたのは1919年。その後、「東京三菱」を経て「三菱東京UFJ」となったのは周知のごとくだ。仮に「三井住友銀行」とUFJグループが手を組んでいたなら銀行再編はまた様子が異なっていただろう。「りそな銀行」のツールも歴史が浅く、野村財閥が「大阪野村銀行」を設立したのは1918年。のちに大和銀行を経てあさひ銀行を吸収し、りそな銀行が誕生。りそなの金融コード0010は、大和銀行の存続コードである。
こうして見ていくと、都市銀行の「100年企業」はあまり多くないことがわかる。銀行法の改定や相次ぐ吸収合併による業界再編が顕著にあらわれているのが銀行業界といえるだろう。
By Master K/益田 慶
100年企業 25 産業別100年企業 製薬会社編 後編
老舗の製薬会社には創業家が代々社長を引き継いでいく世襲制が多く見られる。鎮痛消痛炎薬「アンメルツ」やトイレ用芳香消臭剤「サワデー」でお馴染みの「小林製薬」は、創業者の小林忠兵衛が1886年に名古屋で創業した卸問屋「小林盛大堂」がルーツ。のちに日本の医薬品卸業界の中心地である大阪・道修町に進出、店名を「小林大薬房」と変え、大阪に本社を設置し、今日の「小林製薬」へと発展した。現会長の小林一雅氏と社長の小林豊氏は兄弟で、創業家の子孫。また、使い捨てカイロで知られる「桐灰化学」は子会社である。
ビタミン剤「ポポンS」や頭痛薬「セデス」で知られる「塩野義製薬」は、1878年創業。初代塩野義三郎が大阪・道修町に薬種問屋「塩野義三郎商店」を創業し、和漢薬を販売したのが起源。社名は名字の「塩野」に「義三郎」の「義」をつけたもの。塩野義三郎商店は1897年に欧米の商社と直接取引を開始するなど輸入洋薬の市場も開拓し、在阪メーカーの武田薬品、田辺製薬とともに相場を支配した。現会長の塩野元三氏は創業家の子孫。
1879年創業の「太田胃散」は、初代太田信義が日本橋で「雪湖堂」を創業し、胃腸薬「太田胃散」を発売したのが始まり。現在では韓国、台湾、シンガポールなどアジアでも販売している。創業の太田家が代々社長に就任し、現在の太田美明氏は創業者から5代目にあたる。
1887年創業の「浅田飴」は、堀内伊三郎が当時の東京市神田区富山町で、宮中侍医浅田宗伯処方の「御薬さらし水飴」を創製発売したのがルーツ。伊三郎から商売を引き継いで創業者となった堀内伊太郎が商品名を「浅田飴」と改称。「良薬にして口に甘し」のキャッチフレーズで広告を展開し、全国に浸透した。社名は長い間、「堀内伊太郎商店」を使い、「浅田飴」に変更したのは1994年。現在も創業オーナーの堀内家の子孫が社長を務めている。
1888年創業の丸石製薬は、医療用消毒薬、吸入麻酔剤・鎮静剤などの医薬品を専門とする在阪メーカー製薬会社。初代社長の井上治兵衛以降、井上家が社長を務めている。医療用目薬で国内シェア1位、一般用目薬で第2位のシェアを持つ「参天製薬」は1890年、創業者の田口謙吉が大阪北浜に「田口参天堂」を開業したのが始まり。創業から9年後、初期の成長を支えたヒット商品「大学目薬」を発売。初代製品の発売から100年以上が経過した現在でも、日本のロングセラー目薬としてそのブランドが引き継がれている。
1894年創業の興和は、「キャベジン」で知られる医薬品のみならず産業用素材や繊維事業、光学製品まで幅広く展開する企業グループ。名古屋に本社を構え、近年では名古屋観光ホテルの経営も担っている。「大日本住友製薬」の前身は、1897年に大阪で創業した大阪製薬。大日本製薬に改称し、その後、住友化学工業株式会社(現 住友化学株式会社)の医薬事業の研究、開発、製造部門と、住友化学の医薬品の販売総代理店であった稲畑産業株式会社の医薬販売部門を継承して、1984年に住友製薬となり、2005年に現社名となった。現在も本社は大阪にある。
胃腸薬「パンシロン」でも知られ、一般用目薬の国内シェア1位を誇る「ロート製薬」は、創業者の山田安民が1899年、大阪に「信天堂山田安民薬房」を開業したのが起源。胃腸薬「胃活」を販売し、大ヒットしたことで飛躍した。事業を引き継いだ長男の輝郎が「ロート製薬」を設立。現社長の山田邦雄氏は安民の曾孫にあたる。このロート製薬が筆頭株主となっているのが、1893年創業の「森下仁丹」だ。
創業者の森下博が大阪で薬種商「森下南陽堂」を開店。広告を重視した販売戦略を得意とし、1905年に発売した「仁丹」は広告の巧みさもあり、大きな利益を上げた。その後、「仁丹」は記録的なロングセラーブランドとなり、社名も「森下仁丹」に改称。この他にも製薬100年企業は多く、「トクホン」(1901年創業)、「内外製薬」(1902年創業)、「笹岡製薬」(1903年創業)などがある。
By Master K/益田 慶
100年企業 24 産業別100年企業 製薬会社編 中編
江戸時代から明治中期までに創業した「製薬100年企業」は必ずロングセラー商品を生み出している。また、一般用商品ではネーミングや広告戦略の巧みさも見逃せない。
1690年、大坂の高津で代々和漢屋を営んでいた伊藤長兵衛が漢方医から製法を習い、創薬したのが「七ふく製薬」の始まりだ。創業当初から便秘薬を専業とする老舗。同社の本社は創業と同じ場所に位置する。1717年創業の「小野薬品工業」も在阪製薬メーカーだ。徳川吉宗が将軍の時代、初代小野市兵衛が「伏見屋市兵衛」の屋号で薬種商を開いたのが起源。医療用専門の医薬品メーカーなので一般には馴染みが薄いが、東証・大証に上場している大手である。
「エスタックイブ」や「ハイチオールC」など市販向け医薬品で知られる「エスエス製薬」は、大正製薬、武田薬品に次ぐ業界第3位。1765年、漢薬本舗として東京・八重洲で創業したのが起源。かつては泰道グループが経営していたが、現在はドイツの製薬大手ベーリンガーインゲルハイムの日本法人が筆頭株主となっている。
医療用事業は2005年、後述する「100年企業」の久光製薬に譲渡された。同じ頃、創業したのが「天藤(あまとう)製薬」だ。江戸中期に天津屋藤助が丹波福知山城下で雑貨商兼薬種商を営んだことに始まる。社名には馴染みがなくても、痔疾患用薬のナンバーワン「ボラギノール」の製造会社といえばわかるだろう。「ボラギノール」は日本のロングセラー薬品のひとつである。
江戸時代の創業で忘れてならないのが業界最大手の「武田薬品工業」。1781年、初代近江屋長兵衞が、日本の薬種取引の中心地であった大坂・道修町で和漢薬の商売を始めた。薬を問屋から買いつけ、小分けして地方の薬商や医師に販売する小さな薬種仲買商店であったが、これがのちに武田薬品を中心とする企業グループに成長したのである。
幕末にさしかかる1847年、現在の佐賀県鳥栖市で久光仁平が「小松屋」という屋号を掲げ、漢方薬の製法を生かして製薬・売薬の第一歩を踏み出した。自ら調合した薬を馬の背に積み、徒歩で各地の村々へ売り歩いたという。これが「サロンパス」で名高い「久光製薬」のスタートである。朝鮮半島の薬の情報、技術が対馬本藩を経由してこの地域へ伝わったのだろう。
宿場である田代宿(現鳥栖市)では藩の積極的な奨励で「田代売薬」と呼ばれるほどに成長し、長崎街道を経て西日本各地に広まった。やがて「サロンパス」というロングセラー商品をもって同社は一気に躍進した。
1848年創業の「帝國製薬」(香川県)は一般に馴染みが薄いが、パップ剤の生産量世界一の会社だ。五代目当主・赤澤庄蔵が薬売買株を譲り受けて開業したのが始まりだ。同社の貼付剤は現在世界40カ国以上で販売されている。現在の社主・赤澤庄三氏は創業者の子孫である。
明治に入ると、龍角散(1871年)、広貫堂(1876年)、塩野義製薬(1878年)、太田胃酸(1879年)、小林製薬(1886年)、浅田飴(1887年)、丸石製薬(1888年)、参天製薬(1890年)、森下仁丹(1893年)、興和(1894年)、大日本住友製薬(1897年)、奥田製薬(1897年)、ロート製薬(1899年)、トクホン(1901年)、内外製薬(1902年)、笹岡製薬(1903年)などが相次いで誕生した。
「龍角散」(東京)の創業は1871年だが、同社の「日本ののどを守って200年」という企業コピーが示すように江戸時代中期より秋田・佐竹藩の家伝薬として伝えられてきた。江戸末期には、当主藤井正亭治が改良を加え、藩薬として処方・創製し、「龍角散」の名がつけられた。
家庭用配置薬のパイオニアといえば富山県。旧富山藩での配置家庭薬の製造と販売業者を指導管理した役所の廃止後、これを引き継いで1876年に誕生したのが広貫堂(富山県)である。配置販売は現在も主要な販路となっている。
By Master K/益田 慶
100年企業 23 産業別100年企業 製薬会社編 前編
本稿から「産業別100年企業」に入る。トップバッターは、江戸時代からすでに「薬種商」と呼ばれ、一般用医薬品の専業販売業者として、大きな産業となっていた製薬業界だ。製薬メーカーを核にして、逸早く製造工場、問屋、商社、運送、販売店舗など系列化が進んだ業界でもある。製薬会社には老舗企業が多いので、前・中・後編に分け、時系列に沿って紹介する。
現存する製薬会社で最も歴史のある企業といえば、鎌倉時代末に創業したとされる「三光丸本店」(奈良県)だ。1319年にはすでに現在「三光丸」と呼ばれている胃腸薬が創薬されていたようだ。創業から計算すれば「600年企業」である。当主の米田家は農業のかたわら「三光丸」の製造を副業とし、のちに織田信長の嫡男・信忠がこれを飲み、「妙薬」と称賛したと伝えられている。江戸時代に入ると配置売薬が始まり、奈良「大和売薬」は越中「富山売薬」に次ぐ勢力を広げた。明治時代に当時の米田家当主が、現在も機能している配置業者からなる販売組織を結成し、流通と販売を担っている。
社名にもなっている子供用生薬で名高い「宇津救命丸」は、豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が行われた1597年の創業。こちらは「400年企業」だ。宇津家の初代宇津権右衛門は、500年以上続いた下野の国(現在の栃木県)の国主、宇都宮家の御殿医として仕えていた。
しかし22代の国綱が秀吉の逆鱗にふれて国を追われたことで、権右衛門は1597年、下野国高根沢西根郷で帰農した。この地が同社の現在の工場所在地(栃木県塩谷郡高根沢町上高根沢)である。権右衛門は半農半医の家業を続け、村人の健康のために「金匱救命丸」を創製。この薬は近郷近在の人々に分け与えられ、その優れた効能が「宇津家の秘薬」と次第に評判となり、関東一円から 全国に広まっていった。
普及に一役買ったのが、江戸をはじめ各所の旅籠や造り酒屋などに置かれるようになったこと。つまり置薬として重宝されたのである。ちなみに現社長の宇津善博氏は、宇津家18代当主。宇津家は徳川家より歴史の長い名門家といえよう。
「宇津救命丸」が関東で抜群の知名度を持つ乳児薬であるのに対し、関西で知れ渡った乳児薬といえば「樋屋(ひや)奇応丸」の名が挙がる。製造会社は1622年創業の「樋屋製薬」。こちらは「300年企業」だ。
創業家である坂上家の初代忠兵衛が摂津国山本村より天満(現大阪市北区天満で、同社の本社所在地)に移居し、奇応丸を創製。屋号で社名にもなった「樋屋」の由来は、坂上中兵衛の家に近隣の家にはない「樋(とい)」があったからだとされている。現社長の坂上晴一氏は14代目。1781年創業の100年企業「武田薬品」に勤めたのち、樋屋製薬に入社し、老舗の社長となった。老舗が多い在阪製薬メーカーの中でも屈指の歴史を背負っている。
古くは「大阪の薬業御三家」(武田、塩野義、田辺)といわれた「田辺製薬」は、1678年に初代田辺屋五兵衛が大坂土佐堀で「田辺屋振出薬」を開いたことに始まる。その祖・田辺屋又左衛門は御朱印船を繰り出し、ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)に渡って交易し、様々な輸入薬種を持ち帰っている。その孫が「田辺製薬」の創業者五兵衛だ。田辺製薬は2001年、業界最大手の大正製薬との経営統合を発表したが、その3ヶ月後に白紙撤回した。2007年10月、三菱ウェルファーマを吸収し、「田辺三菱製薬」に改称した。グループ会社として、田辺製薬販売ほか国内外に30以上の系列会社がある。
田辺製薬が三菱グループとの統合に至る過程に着目してみると、もうひとつの「田辺製薬」の歴史が浮き彫りになってくる。十二代田辺五兵衛の次男で二代目・田辺元三郎は1901年、東京日本橋本町に薬種問屋「田辺元三郎商店」を創業。大阪本家とはまったくの別会社として発展し、1943年には「東京田辺製薬」に改称。1999年に三菱化学と合併し、医療事業を分社化して「三菱東京製薬」が誕生。2001年にはウェルファイド(吉富製薬+ミドリ十字が1998年合併)と合併し、「三菱ウェルファーマ」が誕生。これを吸収した田辺製薬は、100年前に分裂した「東京田辺」をも取り込んだということになる。
By Master K/益田 慶
100年企業 22 旧財閥系の100年企業 地方財閥 旧麻生財閥
九州の炭鉱王であった麻生一族は、現在もなお福岡県を中心に多岐にわたる事業を展開している。元外務大臣麻生太郎氏が「麻生セメント」の社長を務めた麻生財閥の御曹司であること、また母方の祖父が吉田茂であることはあまりにも有名だ。
麻生財閥は、幕末に現福岡県飯塚市に誕生した麻生太吉を起源とする地方財閥。明治に入ると、九州・筑豊地方の炭鉱開発に三井、三菱、住友など中央財閥の資本が押し寄せただ、地元には「筑豊御三家」と呼ばれる資本家がおり、いくつかの炭鉱を経営していた。その一人が麻生太吉だ。太吉は炭鉱業者として福岡で多くの採炭に携わり、炭鉱会社を設立。
開坑した炭坑を三菱や住友に譲渡しつつ資本を増やし、九州鉄道や九州コークス、九州電力の取締役や社長を務め、銀行も設立した。また政治家としても活躍した。太吉が炭鉱採掘事事業のために設けた個人事業「麻生商店」が誕生したのは1887年頃とされているが、同グループでは1872年を創業年としている。現在の「麻生グループ」の中核企業「麻生」は創業136年の「100年企業」となる。
麻生一族は炭鉱がいずれ廃れることを予見していたのだろう。太平洋戦争後、メイン事業を炭鉱からセメントへと切り替えることに成功したことが、今日の繁栄につながっている。炭鉱王・太吉が広げた炭鉱事業、電力事業、銀行事業、病院経営を受け継いだのが、太吉の孫にあたる麻生太賀吉である。祖父の経営する麻生商店に入社してすぐに社長となり、麻生鉱業と麻生セメントの社長を務め、のちに九州電力の会長も務め、九州財界の重鎮となる。この麻生太賀吉が吉田茂の娘と結婚し、首相となった義父を補佐するために福岡県から立候補し、政界にも進出。吉田茂の側近として政治資金を捻出したことはよく知られている。
さて、麻生グループの中核事業はセメント事業だが、「麻生セメント」は2001年に世界のセメント業界第一のラファージュ(仏)と合弁し、「麻生ラファージュセメント」に改称。現社長の麻生泰氏は麻生太郎氏の実弟。病院経営、環境事業、不動産業を営む「麻生」の代表も務めている。グループはほかに商社、教育事業会社など約40社を傘下におさめている。
筑豊の炭鉱で財を成した「筑豊御三家」のうち、麻生以外の二家にもふれておこう。安川家と貝島家だ。石炭販売からスタートし、実業家として名を馳せた安川敬一郎は北九州門司に拠点を設け、二男の松本健次郎とともに「安川松本商店」を開き、鉄道建設(筑豊線・伊田線等)、炭鉱経営、紡績業、製鉄業、学校経営にも参画した。安川が1907年、鉱山技術者の養成目的で設立した私立明治専門学校はのちに国に寄付され、現在の九州工業大学へと発展する。
また、経営していた炭鉱「明治鉱業」の電気用品の開発・製造を担うために1915年、北九州市に「安川電機」を創業。同社はまだ「100年企業」には満たないが、今日では産業用ロボットの製造で世界的に知られる企業で、同社は電機機械を核にした企業群から成る安川グループを国内外に築いている。
1918年には、「黒崎窯業」(現黒崎播磨)を創業。黒崎播磨は主力の耐火物事業では国内最大手の企業だ。安川一族は人材が豊富で、敬一郎の弟や息子たちも実業家として手腕を発揮した。中でも五男・第五郎は日本原子力研究所初代理事、日本原子力発電初代社長を務め、原子力業界に大きな影響力を発揮。また、九州電力会長、東京オリンピック組織委員会会長も務めている。炭鉱経営を振り出しに製造業に移り、財を築いた安川家も地方財閥のひとつといえよう。
炭鉱夫から炭鉱経営者に成り上がった貝島太助も「筑豊御三家」の一人である。小学校設立以外は、炭鉱業に専念したために炭鉱が廃れるとともに没落していった。「筑豊御三家」と呼ばれた地方財閥のうち、麻生グループと安川グループは石炭かに石油というエネルギーの転換期に炭鉱以外の産業に移行したことで今日も繁栄を続けているということだ。
By Master K/益田 慶
# 麻生太郎氏の母方の祖父が吉田茂であることは前述したが、吉田茂夫人(雪子)は西園寺内閣、山本権兵衛内閣の外務大臣、第一次大戦のパリ講和条約における全権大使・牧野伸顕の長女である。そして牧野伸顕は大久保利通の実子(三男)である。吉田茂自身の実父竹内綱は、元土佐藩士で後藤象二郎と並ぶ大物政治家・実業家である。自由党創立メンバーであり自由民権運動の旗手でもあった。さらに吉田茂の長兄・竹内明太郎もまた衆議院議員であり、小松製作所の創業者である。
100年企業 21 旧財閥系の100年企業 地方財閥 岡山・大原財閥、静岡・旧鈴与財閥
岡山県倉敷市で「倉敷紡績」(クラボウ)を経営する大地主の大原家に生まれた大原孫三郎は2代目社長として家業を発展させ、多くの関連企業を築いた。大原家は500ヘクタール(東京ドーム約107個分)の田畑を持ち、2500人もの小作人が働いていたというから、規格外の大地主であったようだ。
クラボウの創業は1888年。倉敷に住む三人の青年が紡績所の設立を企画し、地元の大地主大原家に支援を請い、孫三郎の父・大原孝四郎が社長となって一工場からスタートした「100年企業」である。現在は大阪市に本社を構え、繊維だけでなく、化成品、不動産、バイオ関連製品の製造まで手がける企業に発展しているが、そのスタートは倉敷市だ。倉敷紡績創業工場は現在、クラボウが経営するホテルを中心にした複合観光施設「倉敷アイビースクエア」となり、経済産業省の近代化産業遺産にも認定されている。
大原孫三郎は繊維事業以外にもいろんな事業に挑んだ。倉敷紡績創業メンバーの一人である小松原慶太郎が設立した倉敷銀行を改称して誕生した合同銀行(のちの中国銀行)頭取や中国水力電気会社(のちの中国電力)の社長も務めている。名高いのはレーヨンの国産化を目的に1926年に倉敷で創業された「倉敷絹織」。これが現在の化学メーカー「クラレ」である。
本社は東京と大阪に分かれてあるものの、登記上の本社は現在も同社の発祥の地である倉敷市に所在する。大原孫三郎は他に病院や研究所、学校を設立。また西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本で最初に誕生した「大原美術館」は孫三郎が資金を提供し、自らのコレクションを集めた美術館である。孫三郎のコレクションには目を見張るものがあり、モネ「睡蓮」、エル・グレコ「受胎告知」、ゴーギャン「かぐわしき大地」などの世界的絵画が倉敷にあること自体が奇跡だといわれている。
一方、静岡県清水市で多くの関連企業を展開する「鈴与」は、物流・運輸・倉庫業を営む企業だ。同社を核とする物流事業の関連会社、「鈴与商事」に代表される商品流通関連会社、「鈴与建設」がリードする建設・ビルメンテナンス関連会社、「清水食品」ほかの食品事業に加え、不動産事業、人材派遣業、保険業、スポーツ事業、ケーブルテレビ運営など多岐にわたる巨大ネットワークを築いている。「100年企業」鈴与の創業は1801年。初代鈴木与平が現在の清水港で船舶を使った物流業を始めたのが、国内外に広がる鈴与グループ130余社の関連会社のすべての起源である。鈴与は鈴木与平の名前を略した社名なのだ。
幕末には製茶を横浜に送る流通を引き受け、明治初期には郵便汽船三菱社(日本郵船の前身)の積荷取扱店となる。明治半ばには清水港開港場を仕切り、日本船舶や東京海上保険の代理店となって業務を拡大。6代目・鈴木与平は1929年に缶詰メーカー「清水食品」を創業、1933年にはガソリンスタンドを開店。1936年に鈴与商店(現鈴与)を設立し、「清水製薬」や「鈴与建設」など次々と設立し、静岡県を代表する総合複合企業へと発展していく。
近年では、Jリーグ「清水エスパルス」の運営会社エスパルスのオーナーとしても知られ、1998年に日本で初めてセルフ式ガソリンスタンドを開店させたパイオニアとしても名をあげた。また、2007年には静岡空港を拠点とするエアライン事業への参入を発表。2009年7月の就航を予定している。
鈴与は今もなお創業オーナー鈴木与平の子孫が経営する稀有な企業で、現在の社長である8代目・鈴木与平氏は、鈴与商事や清水食品の会長も務め、多くのグループ企業の取締役でもある。また、多くの関連企業が清水市に本社を構えていることも同グループの特徴でもある。鈴与が清水にこだわるのは創業の地であるばかりでなく、清水港という港によって発展した物流グループが核になっているからである。
なお鈴与は社員1000余人を抱え、売上高913億円を達成しているが、上場しておらず、2004年に持株会社鈴与ホールディングスを設立し、すべての企業はその傘下となっている。
By Master K/益田 慶
100年企業 20 旧財閥系の100年企業 地方財閥 名古屋・旧伊藤財閥、長野・旧片倉財閥
織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道は1611年(慶長16年)、新しい城下町になりつつあった名古屋に移り、名を源左衛門と改め、呉服小間物商「伊藤屋」の看板を掲げて商売を始めた。これが100年企業「松坂屋」の起源である。伊藤屋はその後、1768年に江戸に進出し、上野の松坂屋を買収して「いとう松坂屋」と改める。同店は、尾張徳川家、加賀前田家の御用達として名高く、また東叡山諸寺の法衣を独占販売するなど世間の信望も厚く、江戸の名所として浮世絵にも描かれた。名古屋では、尾張藩の御用達として藩財政にかかわり、明治維新後には伊藤為替方として公金を取り扱った。
伊藤家は1875年、大阪の「ゑびす屋呉服店」を買収して、「ゑびす屋いとう呉服店」を開業。第14代伊藤次郎左衛門は1881年、名古屋初の私立銀行「伊藤銀行」を設立。1910年には、会社を立ち上げ、名古屋・栄町に中京地区最初の百貨店「いとう呉服店」を開業。そして1925年、店舗を「松坂屋」に統一。1934年、「名古屋観光ホテル」を創業。伊藤銀行はのちに名古屋銀行、愛知銀行と合併して東海銀行となった。伊藤家は、戦前には松坂屋と伊藤銀行を中核にした伊藤財閥を築いた。名古屋観光ホテルは現在、「コルゲンコーワ」で知られる医薬品会社の「興和」が経営している。14代、15代、16代伊藤次郎佐衛門は、それぞれ名古屋商工会議所会頭に就いた。ちなみに現在の名古屋商工会議所会頭は松坂屋会長の岡田邦彦氏である。
ご存じのように松坂屋は2007年3月、大阪を地盤とする「大丸」と経営統合した。大丸もまた1717年に京都市で誕生した呉服店を起源とする「100年企業」の名門百貨店で、1717年に京都市で誕生した呉服店を起源とする「100年企業」である。同社は創業家である京都の下村家の個人商店からスタートし、いち早く近代化に成功した百貨店のひとつ。松坂屋との経営統合では、持ち株会社の本社は松坂屋銀座店に置くものの、経営の主導権は大丸側が握ることになった。余談だが、大丸現社長の奥田務氏は、元トヨタ自動車会長・前経団連会長の奥田碩氏の実弟である。
一方、長野で誕生した片倉財閥は、1873年に片倉市助が製糸業を手がけ、初代片倉兼太郎が垣外製糸場を開設したことから始まる。明治期から大正期にかけて日本の主力輸出品であった絹糸。長野県で誕生した片倉財閥は、1873年に片倉市助が製糸業を手がけ、初代片倉兼太郎が垣外製糸場を開設したことから始まる。初代兼太郎は長野県に3工場を建設し、個人経営の製糸場としては日本一の規模になる。2代目片倉兼太郎は1895年、製品の出荷を担う片倉組を結成し、東京支店を設立し、中央に進出。日清戦争景気もあり、日本の生糸輸出量は世界2位となり、片倉組も成長。次々と製糸工場を買収し、朝鮮半島でも工場を開設した。
1920年に片倉組を片倉製糸紡績に改組し、1939年には長野県の富岡製糸場の経営を手がける。大正期には製糸工場の数は1府24県、58ヵ所となり、片倉財閥へと発展していく。この片倉製糸紡績が改組して生まれたのが、「片倉工業」だ。よって1873年を創業年とする片倉工業は「100年企業」である。
ところで、近代化産業遺産の富岡製糸場だが、もともとは1872年に日本初の器械製糸工場として操業を開始した官営工場であった。1893年に三井家に払い下げられたのち、横浜の実業家・原富太郎に渡ったが、片倉製糸紡績が富岡製糸場を受け継ぎ、1987年の操業停止後も18年間、保存を続けてきた。毎年の維持費は固定資産税を含め約1億円。富岡市に移管するまで、計18億円を無償で注ぎ込んだ計算になる。一企業が貴重な産業遺産を保存してきたひとつの例である。
By Master K/益田 慶
100年企業19 旧財閥系の100年企業 地方財閥(阪神財閥) 旧広岡財閥・伊藤財閥
江戸時代に三井家、鴻池家とともに繁栄した大阪の両替商「加島屋」。幕末の1849年~1902年(明治35年)に連続して長者番付にランクインした人物を挙げれば、1位:三井財閥・本家当主三井八郎右衛門(東京)、2位:鴻池財閥・鴻池善右衛門(大阪)、住友財閥・住友吉左衛門(大阪)、そして3位に「加島屋」当主・9代目広岡久右衛門の名が並ぶ。9代目こそが明治維新の混乱期を乗り越え、明治・大正時代に金融グループの広岡財閥を形成した人物だ。
9代目久右衛門こと広岡信五郎は1888年、両替商「加島屋」のノウハウをもとに「加島銀行」を設立し、初代頭取に就任。翌年、大阪の有力財界人が参加して尼崎市に設立された「尼崎紡績」の初代社長に就いた。尼崎紡績はのちに「大日本紡績」に改称し、「日本レイヨン」と合併し、今日の「ユニチカ」へとつながっている。繊維事業だけでなく高分子事業・生活食品分野・環境事業などにも進出する同社は、1889年創業の「100年企業」だ
明治に入り、時代の変化に追いつけずに没落しかけた広岡家を再興したのは、信五郎に嫁いだ浅子の手腕と三井家の援助があったからだ。浅子は、当時の三井室町家当主で三井銀行の社長を務めた三井高保の娘。信五郎に銀行業と紡績業に絞り込むよう助言したのは義父・三井高保で、「加島屋」の実質的な経営者は浅子であった。彼女は1901年開校の「日本女子大」の設立にも加わり、女性実業家として多額の資金を提供している。同大学は「100年企業」ならぬ「100年大学」だ。
ほかに信五郎は「朝日生命」(現存の朝日生命とは異なる)の経営に参画し、1903年に同社を含めた3社によって誕生した「大同生命」の初代社長にも就任している。大同生命もまた大阪に本社を置く「100年企業」である。一方の加島銀行は昭和恐慌の影響で1937年、業務を野村銀行と山口銀行に分割譲渡して廃業した。ちなみに10代目広岡久右衛門は日本ゴルフ協会の理事を務め、関西でゴルフ場の設計も手がけた。
三井、鴻池、住友、広岡などの財閥が江戸時代の両替商を起源とするなら、兵庫県の伊藤財閥は江戸時代の大地主から財閥にスライドした不動産長者であった。1911年の全国多額納税者名簿(長者番付)で全国一位を占めたのが、兵庫県の伊藤家である。伊藤長次郎一族は不動産資本をもとに阪神地区の多くの新規事業に投資し、複数の会社の株主となった。ちなみに同じ伊藤財閥の名で、名古屋で創業した「いとう呉服店」(のちの松坂屋)や伊藤銀行、名古屋観光ホテルなどを経営した伊藤財閥があるが、血縁関係はない。
四代伊藤長次郎は兵庫-神戸間の路線を走る山陽鉄道や姫路第三十八国立銀行などの設立発起人にもなり、姫路第三十八国立銀行設立後に頭取も務めた。山陽鉄道の発起人には藤田財閥・藤田伝三郎、辰馬財閥・辰馬吉左衛門、岡崎財閥創始者・岡崎真鶴など阪神財閥の面々が名を連ね、初代社長にはのちに三井銀行の理事となる中上川彦次郎が就いた。
この阪神の不動産王・四代伊藤長次郎が第三十八国立銀行のバックアップを受けて、1887年に神戸に設立した「100年企業」がシルクを輸出する商社「神栄」である。生糸の輸出からスタートした同社は現在、衣料、食品、住宅、情報など幅広い事業を展開する「神栄グループ」を築いている。
以下は余談。伊藤長次郎一族には劣るが、姫路には他に有名な大地主がいた。大阪・堂島で名を馳せた伝説の相場師・牛尾梅吉である。梅吉の息子・健治は姫路銀行頭取を務め、のちに神戸銀行に吸収合併した際には神戸銀行の初代副頭取を務めた。電力・伝記事業にも進出し、「中国合同電気」や「山陽配電」の経営も担い、牛尾財閥を築いた。その中国合同電気を買収した山陽中央水電の大株主が、前出した四代伊藤長次郎である。買収される側と買収する側が同じ姫路の大地主同士であったのは、何かの因果だろうか。ちなみに中国合同電気の電球製造部が独立して「姫路電球」が誕生するが、同社から産業用特殊光源の製造部門を受け継いで「ウシオ電機」を創業したのが、健治の息子、現同社会長の牛尾治郎氏である。
By Master K/益田 慶
100年企業18 旧財閥系の100企業 地方財閥(阪神財閥)-旧川西財閥、嘉納財閥
阪神地区では明治初期に多くの紡績・繊維事業が始まった。紡績事業が拡大した理由は、渋沢栄一が企画し、藤田財閥の藤田伝三郎が1882年、日本初の本格的な紡績会社である大阪紡績(現東洋紡績)を大阪に設立したことにある。これにより地場産業が刺激され、時流に乗ろうとする起業家が相次いで登場したのだ。
大阪生まれの川西清兵衛が中心となり、投資家・小曽根喜一郎ら神戸の実業家27人を発起人として1896年に設立したのが「日本毛織」、通称ニッケだ。同社は現在もウールのトップメーカーとして営業を続ける「100年企業」だ。繊維・非繊維事業に多くの関連会社を持ち、ニッケ企業グループを築いている。川西は戦争景気によって軍用毛布の売上で資産をつくり、1907年には鉄道事業に乗り出したのち、皮革事業、生糸事業など多数の関連事業を出かけ、川西財閥を形成した。清兵衛は戦前、日本羊毛工業会会長、神戸商工会議所会頭も務めた。
川西財閥は日本毛織を核とする繊維財閥だが、まったく畑違いの機械製造事業でも高い評価と実績を残している。ベンチャー精神にあふれる清兵衛は1918年、元海軍機関将校の中島知久平の飛行機事業に参画。1年後には中島と決別したが、1903年に神戸に創業した「川西倉庫」に「川西機械製造所」を設立。初代社長の川西龍三は清兵衛の次男だ。1928年には飛行機部門を分離独立して「川西航空機」を設立した。ここから紫電改や二式飛行艇が誕生したのである。戦闘機ファンにとっては「伝説の戦闘機メーカー」である。
川西機械製造所は、戦前に真空管やレントゲンなど精密機械を生産し、当時の最高水準のものと評価された。戦後、解体清算されて誕生した神戸工業が1968年に富士通と合併して生まれたのが「富士通テン」である。同社は現在も創業地の神戸に本社を置いている。一方、川西航空機を母体として創業したのが現在の「新明和興業(現新明和工業)」だ。同社の創業には川西龍三がかかわったが、日立製作所の傘下としての再スタートだった。川西機械製造所と川西航空機は現存していないが、「100年企業」川西倉庫は現在、倉庫業と物流業を展開している。
ところで、川西清兵衛と決別した中島知久平は「中島飛行機」を設立し、エンジンや機体の開発に高い技術を発揮。太平洋戦争終戦まで東洋最大の航空機メーカーとなる。こちらも戦闘機ファンには「伝説の戦闘機メーカー」である。中島飛行機の解体後、技術者の多くが自動車産業へ転身し、そのうちの一社が富士重工業(スバル)であることはよく知られている。
さて、阪神といえば甲陽学院中学・高校(白鹿グループ)のように、資産家が設立した私立校が多い地区でもある。進学校として名高い灘中・灘高は、銘酒「菊正宗」や「白鶴」で名高い嘉納家が設立した学校だ。学校法人灘育英会は現在、菊正宗酒造の11代当主で社長の嘉納毅人氏が理事長を務めている。嘉納本家(本嘉納)は1659年に酒造業に進出。適度に硬度があり、鉄分を含まない地下水によって、江戸時代に良質の酒を量産できるようになり、「灘」は良質の酒の代名詞となった。本嘉納が家業として営む菊正宗酒蔵は、300年以上の歴史を持つ「100年企業」だ。
その本嘉納八代目と分家(白嘉納)が設立したのが、旧制灘中学であった。八代目嘉納治郎衛門は土地や建物、株などの投資事業を行い、灘商業銀行(のちに岡崎銀行ほかと合併し神戸銀行に)を設立し、自身は頭取に就任。酒造業と投資事業を営む嘉納財閥として名を馳せた。ちなみに治郎衛門に酒造業対象の銀行設立を進めたのは、のちに第4代総理となる松方正義であった。
一方、分家の白嘉納家は「白鶴」ブランドの醸造で酒造業を営み、日本最大の酒造メーカーへと成長した。1897年設立の白鶴酒造はもちろん「100年企業」である。ほかに灘の酒造業で財力を蓄えたのに「櫻正宗」ブランドで知られる山邑(やまむら)家がある。こちらも1717年創業の老舗「100年企業」である。
By Master K/益田 慶
100年企業17 旧財閥系の100企業 地方財閥(阪神財閥)-旧八馬財閥・乾財閥・岡崎財閥
江戸時代から海外貿易で栄えた阪神地区には、海運業で財を成した、いくつかの中堅財閥が存在した。初代八馬兼介が米穀商を興したことから始まる八馬財閥もそのひとつ。初代は米穀商で蓄えた財をもとに海外船舶を購入。1878年に兵庫県西宮市に八馬商店船舶部を設立し、船主として海運業に進出した。のちに「八馬汽船」と改組し、同社は現在も神戸市に本社を構えている。八馬汽船は阪神の「100年企業」である。
その後、八馬家は銀行や電鉄会社の設立に出資し、大株主となる。初代は西宮銀行、武庫銀行の両頭取を務め、孫の三代目兼介が後を継いだ。1936年に兵庫県の7銀行が合併して誕生した「神戸銀行」では、当時の神戸岡崎銀行(岡崎財閥)岡崎忠雄が会長、三代目八馬兼介が頭取、姫路銀行(牛島財閥)牛島健治が副会頭に就任した。のちに太陽銀行と合併し、「太陽神戸銀行」となり、三井銀行と合併して「さくら銀行」となり、さらにさくら銀行と住友銀行が合併して、今日の「三井住友銀行」となる。
八馬家は、のちに老舗酒造メーカー「多聞酒造」を経営したが、2005年に経営難より会社更生法を適用。同じ西宮市の酒造メーカー「大関」が「多聞」の商標と製造販売を譲り受けた。ちなみに大関は創業1711年の「100年企業」である。また、船会社設立時に八馬汽船から船を借りて手数料をかせぎ、「船成金」と呼ばれるほど成功し、のちに吉田茂内閣で農林大臣を務めたのが内田信也である。
一方、醸造業から海運業に進出したのが、三代目乾(いぬい)新兵衛だ。三代目は中古船舶を購入し、1904年に社外船主として海運業へ転換。1908年に神戸に「乾合名会社」を設立。「乾汽船」は今日も乾家が代表を務める「100年企業」である。2001年に本社を東京に移した。ちなみに五代目新兵衛こと乾豊彦は日本ゴルフ協会名誉会長を務めたことでも知られている。
銘酒「白鹿」で名高い西宮の醸造元・辰馬家もまた海運業を営んでいた。1662年創業の酒造業の老舗は、酒を江戸に運ぶために海運業にも乗り出した。1909年に設立した「辰馬汽船」はのちに「新日本汽船」へ改組し、山下汽船と合併して新山下日本汽船となり、「商船三井」に吸収される。「辰馬本家酒造」は現在「白鹿グループ」を展開する「100年企業」だが、一時期は海運業と海上火災保険業も手がけ、阪神地区での辰馬財閥を形成した。その大番頭として新日本汽船の社長を務めた山県勝見は、辰馬海上火災保険がほか3社と合併して生まれた「興亜海上火災保険」の初代会長も務めた。同社はのちに「日本海上火災」と合併し、「日本興亜損保」となる。
一方、辰馬本家から分家して生まれた北辰馬家は1862年に西宮で創業。こちらの銘柄は「白鷹」で、社名も「白鷹」。本家とは一線を画しており、「白鹿グループ」には加盟していない。
海運業を基盤にして財閥にまでのしあがったのは、ほかにもある。岡崎財閥の始祖・岡崎藤吉は「岡崎汽船」で蓄えた財をもとに金融業へ転換していった。その岡崎が海運業を始めるために資金を借りたのが、前出した辰馬家当主・辰馬吉左衛門である。藤吉は1897年、神戸海上運送火災保険を創業。岡崎家は婿養子に迎えた岡崎忠雄の代に事業を広め、山崎豊子の小説『華麗なる一族』のモデルになったとされている。
阪神の岡崎財閥の当主として君臨し、神戸商工会議所会頭にも就任している。1944年、金融統制によって神戸海上運送火災保険が共同海上保険など3社と合併して誕生したのが「同和火災海上」だ。この時に社長に就任したのが、忠雄の長男・岡崎真一である。真一も神戸商工会議所会頭に就任し、日本商業会議所副会頭も務めた。同和火災海上は日本生命の子会社「ニッセイ損害保険」と合併し、「ニッセイ同和損害保険」となった。同社は岡崎藤吉が立ち上げた神戸海上運送火災保険をもって創業年としているので、「100年企業」といえる。
ちなみに岡崎真一の長男・岡崎真雄氏は、同和火災海上社長と会長を務めたのち、現在ニッセイ同和損害保険の名誉会長を務めている。次男・岡崎藤雄氏は、藤吉が創業した内外ゴム(営業本部:神戸)の現社長、三男・岡崎由雄氏は東京衡機製造所会長兼社長を退任し、取締役相談役に就いている。まさに「華麗なる兄弟」である。
By Master K/益田 慶
100年企業16 旧財閥系の100年企業 地方財閥(阪神財閥)-旧弘世財閥ほか
江戸時代から海外との貿易が盛んであった大阪・神戸周辺には中堅の財閥が集中したことから、それらは総称して「阪神財閥」と呼ばれた。15財閥と比べると知名度は落ちるが、阪神には日本有数の「100年企業」が集まっている。
旧弘世(ひろせ)財閥は、明治時代に金融業、保険業、鉄道事業で財を成した弘世助三郎を起源とする阪神財閥だ。総資産額国内第2位の日本有数の「100年企業」で、生命保険会社業界のトップである「日本生命」を関西経済人の助力を得て1889年に立ち上げたのが弘世助三郎である。日本生命は関西で最初に誕生した生保会社で、現在も本店は大阪市にある。同社は単なる生保会社ではなく、国内屈指の機関投資家で、数多くの企業の筆頭株主、主要株主となっている。
現在の滋賀県彦根市に生まれた助三郎は、幕末に彦根城下で商人として成功し、明治に入り、金融機関の走りである「融通会社」を設立。これは徳川時代に使われていた藩札を明治の太政官札に交換する会社だ。その後、助三郎は数多くの銀行設立に関与する。たとえば助三郎が取締役兼支配人となった第百三十三国立銀行はその後、改称合併を経て、現在の「滋賀銀行」に至る。大阪の繊維関係の有力商人を集め、「山林王」岡橋治助とともに設立した第三十四国立銀行はのちに鴻池銀行など大阪に本店を置く銀行と合併し、「三和銀行」へと発展した。
冒頭に述べた日本生命だが、助三郎は銀行業が忙しいこともあり、日本生命の初代社長には大阪財界の大御所・鴻池善右衛門を推挙した。「社長は鴻池財閥当主」という信用が大きく影響したのか、設立10年目には早くも日本一の契約高を誇る生保へと発展した。創業時に副社長に就任した片岡直温は助三郎が送り込んだ実務のまとめ役で、のちに17年間にわたり二代目社長を務め、その後、政界に進出し、大蔵大臣も務めた。
三代目社長を務めた「中興の祖」弘世助太郎は助三郎の長男。助三郎が婿養子に迎えたのが五代目社長の弘世現で、「日生劇場」の生みの親である。ちなみに四代目社長成瀬達は弘世現の実兄だ。このように五代目までは弘世家による日本生命の創業者支配が続いた。弘世現の長男源太郎は後継者として日生常務となるが、44歳の若さで病死した。
ちなみに日本生命が旧三和銀行の筆頭株主であったのは、同じ大阪の企業ということよりも日生創業者の助三郎が三和銀行創立時に取締役を務めていた関係からであるといわれている。そして現在の日生のメインバンクは三菱東京UFJ銀行である。
さて、日生が主要株主となっている大手企業のひとつに、連結決算で売上高1