FX検定公認テキスト「外国為替FX投資の黄金律」 → 詳しくはこちら
100年企業 57 産業別100年企業 印刷・インク業界 | 100年企業 56 産業別100年企業 物流会社編 | 100年企業 55 産業別100年企業 倉庫業編 | 100年企業 54 産業別100年企業 ホテル編 | 100年企業 53 産業別100年企業 広告代理店・出版社・書店編 | 100年企業 52 産業別100年企業 新聞社後編 | 100年企業 51 産業別100年企業 新聞社中編 | 100年企業 50 産業別100年企業 新聞社前編 | 100年企業 49 産業別100年企業 飲料メーカー後編 | 100年企業 48 産業別100年企業 飲料メーカー前編 | 100年企業 47 産業別100年企業 専門メーカー・小売店編・後編 | 100年企業 46 産業別100年企業 専門メーカー・小売店編 | 100年企業 45 産業別100年企業 食品業界 後編 | 100年企業 44 産業別100年企業 食品業界 中編 | 100年企業 43 産業別100年企業 食品業界 前編 | 100年企業 42 産業別100年企業 石油・鉱業業界 | 100年企業 41 産業別100年企業 精密機械・産業用電子機器メーカー | 100年企業 40 産業別100年企業 電機メーカー・家電メーカー | 100年企業 39 産業別100年企業 非鉄金属業界 | 100年企業 38 産業別100年企業 鉄鋼業界・セメント業界 | 100年企業 37 産業別100年企業 化粧品・家庭用製品業界 | 100年企業 36 産業別100年企業 繊維業界 | 100年企業 35 産業別100年企業 建設業界後編 | 100年企業 34 産業別100年企業 建設業界前編 | 100年企業 33 産業別100年企業  百貨店編・後編 | 100年企業 32 産業別100年企業  百貨店編・前編 | 100年企業 31 産業別100年企業  中小専門商社編・後編 | 100年企業 30 産業別100年企業  中小専門商社編・前編 | 100年企業 29 産業別100年企業  総合商社・専門商社編 | 100年企業 28 産業別100年企業  損害保険会社編 | 100年企業 27 産業別100年企業   生命保険会社編 | 100年企業 26 産業別100年企業 都市銀行編 | 100年企業 25 産業別100年企業 製薬会社編 後編 | 100年企業 24 産業別100年企業 製薬会社編 中編 | 100年企業 23 産業別100年企業 製薬会社編 前編 | 100年企業 22 旧財閥系の100年企業 地方財閥 旧麻生財閥 | 100年企業 21 旧財閥系の100年企業 地方財閥 岡山・大原財閥、静岡・旧鈴与財閥 | 100年企業 20 旧財閥系の100年企業 地方財閥 名古屋・旧伊藤財閥、長野・旧片倉財閥 | 100年企業19 旧財閥系の100年企業 地方財閥(阪神財閥)  旧広岡財閥・伊藤財閥 | 100年企業18 旧財閥系の100企業 地方財閥(阪神財閥)-旧川西財閥、嘉納財閥 | 100年企業17 旧財閥系の100企業 地方財閥(阪神財閥)-旧八馬財閥・乾財閥・岡崎財閥 | 100年企業16 旧財閥系の100年企業 地方財閥(阪神財閥)-旧弘世財閥ほか | 100年企業15 旧財閥系の100年企業 旧森村財閥・森村グループ | 100年企業14 旧財閥系の100年企業 日窒コンツェルンと藤山コンツェルン | 100年企業13 旧財閥系の100年企業 旧根津財閥と甲州実業家グループ | 100年企業 12 旧財閥系の100年企業 旧鈴木(鈴木商店)財閥・神戸川崎財閥 | 100年企業 11 旧財閥系の100年企業 渋沢栄一が設立に携わった企業 | 100年企業 10 旧財閥系の100年企業 旧藤田財閥 | 100年企業 9 100年企業 旧財閥系の100年企業 旧大倉財閥 | 100年企業 8 旧財閥系の100年企業 旧浅野財閥 | 100年企業 7 旧財閥系の100年企業 旧古河財閥 | 100年企業 6 旧財閥系の100年企業 旧鴻池財閥・旧東京川崎財閥 | 100年企業5 旧財閥系の100年企業 安田財閥 | 100年企業 4 旧財閥系の100年企業 住友グループ | 100年企業 3 旧財閥系の100年企業 三井グループ | 2 旧財閥系の百年企業 三菱財閥・日本郵船 | 100年企業 1 はじめに |

100年企業 57 産業別100年企業 印刷・インク業界

日本の印刷業界の2強、大日本印刷と凸版印刷はともに「100年企業」だ。単体で1兆円の年間売上を上げる大日本印刷の創業は、前身となる「秀英舎」が活版印刷を始めた1876年。それは数名の共同出資による印刷工場の設立であった。1935年に「日清印刷」と合併した際に「大日本印刷」に改称。


現在は印刷技術を中心に据え、情報産業やエレクトロニクス分野にも進出し、拠点もニューヨーク、ロンドン、上海、シドニーなど全世界に広がっている。2006年には、コニカミノルタが写真フィルム・印画紙事業から撤退したのに伴い、これらの事業を譲り受けた。グループ会社が多くあり、その業種業態は多岐にわたっている。意外な系列会社に北海道コカ・コーラボトリングがある。


単体売上9470億の凸版印刷の創業は1900年。社名は、当時の最先端印刷技術であるエルヘート凸版法に由来する。大蔵省印刷局出身の技術者を中心に設立された。現在、事業は印刷のみならずデジタル画像処理やエレクトロニクス製品にも力を注いでおり、液晶用カラーフィルタの生産高は世界首位。身近なものでは、通帳や宝くじICカードやクレジットカードも同社の製品である。後述するインクメーカー「東洋インク製造」の大株主でもある。


1897年の創業の「共同印刷」は、前身の「博文館印刷所」の誕生をもって創業としている。博文館主の大橋佐平が自社の書籍・雑誌を印刷するため、現在の東京銀座に工場を設立したのが始まりだ。印刷業界では大日本、凸版に続く第3位の売上。同社も印刷だけに留まらず、ICカードや建材も製造している。後述するインクメーカーの最大手「DIC」(ディーアイシー)が筆頭株主となっている。


印刷会社に欠かせないのがインクだ。インク会社は業態としては化学メーカーとなる。業界最古参は1896年創業の「東洋インキ製造」と「サカタインクス」だ。前者は創業者小林鎌太郎が現在の中央区日本橋に個人経営の「小林インキ店」を開業したのがルーツ。1926年には逸早く上海に出張所を出すなど海外進出も展開。印刷インクトップの売上高を誇る。


塗料・樹脂・粘接着剤・高機能性素材といった高分子事業と顔料・着色剤・電子メディア材料などの色材事業を基幹事業とし、画像処理システムも展開している。前出した凸版印刷が筆頭株主となっている。「サカタインクス」は、新聞インキの製造・販売を目的として大阪で創業した「阪田インキ製造所」がルーツ。東洋インキ、DICに続く業界第3位のメーカーだが、業界トップの東洋インキが筆頭株主となっている。


「DIC」(旧大日本インキ化学工業)は、1908年に創業した「川村インキ製造所」を起源としているので、2008年がちょうど創業100年にあたる。その節目の年を記念して社名を「大日本インキ化学工業」から「DIC」に改称。売上高は連結で1兆157億円を上げ、インクを主力商品とするメーカーとしては世界最大手。印刷インクのみならず、合成樹脂材、電子情報材料の製造も行なっている。海外進出にも精力的で世界60ヵ国に所在する関係会社は213社にのぼる。また、前出した共同印刷の筆頭株主でもある。


こうして二つの業界の「100年企業」を見てみると、三つの企業グループの存在が浮き彫りになる。すなわち、(1)大日本印刷グループ (2)凸版印刷-東洋インキ-サカタインクス (3)DIC-共同印刷。共通しているのは、どのグループも「脱印刷」の方向にあること。印刷会社は情報産業、エレクトロニクス分野へ、インク会社は合成樹脂や電子情報材のメーカーへと発展している。 (完)
By Master K/益田 慶


100年企業 56 産業別100年企業 物流会社編

物流業界は、空・海・陸というルートから航空貨物輸送、海運、陸運などに分類でき、業態で分けるなら運輸業、貨物取扱業、以前紹介した倉庫業などがある。物流は、移動手段で分類すると、航空、海運、陸運に大別できる。飛行機やトラック、貨物列車が普及する前に物流を牽引したのが海運業だ。


最も歴史があるのが、1801年創業の「鈴与」(静岡県)。物流・運輸業を核にする企業グループで、初代鈴木与平が現在の清水港で船舶を使った物流業を始めたのが起源だ。同社は1876年に郵便汽船三菱社(「日本郵船」の前身)の積荷扱店となったことで大きく飛躍した。近年、航空事業にも進出している。


鈴与の次に歴史のあるのは、倉庫業で紹介した、神戸港を本拠地に「上組(かみぐみ)」(創業1867年)だ。開港した神戸港に設けられた神戸運上所に出入りして貨物の運搬を行なう「神戸浜仲」としてスタートしたのがルーツ。1873年、「上組」に改称。現在は陸運、海運、航空サービスなど関連子会社を抱え、中国、台湾、シンガポール、タイ、ベトナム、マレーシアなどアジアに海外拠点を設けている。


1869年創業の「上野グループ」は、石油の運送を中心に展開する大手。上野金次郎が横浜で船荷取扱所兼旅人宿「丸井屋」を開いたのが源流。その後、帆船問屋を始め、今日の「昭和シェル石油」の前身であったサミエル商会によって興されたライジングサン社から石油輸送を依頼されたことが事業拡大の弾みとなった。現在、海運業・倉庫業の「上野トランステック」を中心に、グループ会社が石油製品の貯蔵・石油製品販売、タンクローリーによる石油製品や石油化学製品の輸送などを営んでいる。


神戸市の「八馬汽船」は、米穀商で財を成した初代八馬兼介が1878年に八馬商店船舶部を設立したのがルーツだ。ドイツ汽船ほか中古汽船を次々に購入し、中堅社外船主として成長。八馬家は戦前には、家業の海運業のほか、西宮銀行、武庫銀行の大株主として取締役を務めるなど銀行業にも進出し、八馬財閥を形成した。戦後、八馬家は「八馬汽船」と「多聞酒造」を2本柱に切り替えたが、後者は経営難で会社更生法の適用となり、「多聞」の商標及び製造・販売は「大関」に譲渡された。


1880年創業の「鴻池運輸」は、社名から鴻池財閥の関連企業かと連想しがちだが、資本関係はない。鴻池忠治朗が1871年に大阪に設立した建築会社「鴻池組」が母体。同社の運輸部門が分社化されて生まれた。海上運輸、港湾運輸、引越サービスのほか航空貨物運送にも進出している。横浜市の「宇徳」(1890年創業)は宇都宮徳蔵が横浜に「宇都宮徳蔵回漕店」を創業したのがルーツ。海運業、倉庫業を展開する総合物流企業である。


1893年に誕生した「日本郵船」は、三菱グループの中心をなす企業にして、世界第2位の海運会社。連結売上高は2兆5846億円。航空・海運・倉庫・不動産・観光など企業グループを築いている。そのライバル「商船三井」は、三井物産から分社化したのが1942年なので100年企業に満たない。


1899年創業の「飯野海運」は、飯野寅吉が京都府舞鶴市で石炭運送と港湾荷役業の「飯野商会」を立ち上げたのがルーツ。戦後に定期航路の運行を手がけ、その後、不動産業にも進出した。大手タンカーの船主であり、65社のグループ会社を抱える飯野グループを築いている。


商船三井が主要株主となっている「乾汽船」は1908年、三代目・乾新兵衛が神戸市に立ち上げた海運会社。北米、カナダ、オーストラリアからの穀物、北米やニュージーランドからの木材など海上輸送とグループ会社による船舶貸渡業を展開している。同社は神戸で興った企業だが、2001年に本社を東京に移転した。


物流大手の「100年企業」には、ほかに倉庫編で紹介した三菱倉庫、渋沢倉庫、住友倉庫、川西倉庫などの倉庫業をメインとする企業も該当する。ちなみに佐川急便、ヤマト運輸など小口荷物をメインに扱う大手陸運事業者は歴史が浅く、ともに戦後の創業である。


By Master K/益田 慶


100年企業 55 産業別100年企業 倉庫業編

倉庫業界のビッグ3は、旧財閥系の三菱倉庫、住友倉庫、三井倉庫だ。地味な業種ではあるが、事業内容は物流や不動産業と深くかかわり、各社が物流ネットワークグループを築いている。また、コンテナの運搬を行なうことから、江戸時代に全国に先駆けて港湾が開かれた神戸や横浜を拠点とする企業が多い。


神戸港を本拠地に倉庫業・運輸業を営む「上組(かみぐみ)」の創業は1867年というから江戸時代の最後の年である。開港した神戸港に設けられた神戸運上所に出入りして貨物の運搬を行なう「神戸浜仲」としてスタート。1873年に上組に改称。陸運、海運、航空サービスなど関連子会社を抱え、中国、台湾、シンガポール、タイ、ベトナム、マレーシアなどアジアに海外拠点を設けている。


最大手の「三菱倉庫」は1887年、有限責任東京倉庫として設立され、1918年に現社名に改名された。三菱グループの中では、日本郵船、三菱商事、三菱重工、三菱東京UFJ銀行に次ぐ歴史を有している。社名に「倉庫」がついているが、倉庫事業のみならず、港湾運送、国際運送、不動産事業を展開している。倉庫事業では神戸・六甲アイランドと東京・大井に巨大な冷蔵倉庫を所有しているほか、不動産事業では東京ダイヤビルディングに代表されるビル事業、神戸ハーバーランド内「Ha・Re」や「横浜ベイクォーター」といった複合商業施設の開発・運営、首都圏での分譲マンションの開発など幅広く展開している。


「住友倉庫」は1899年に住友本店倉庫部として大阪で創業した。同社も倉庫業のほか、港湾運送、国際運送など物流事業と所有地を活用した不動産賃貸事業を営んでいる。筆頭株主は住友不動産。関連会社に、倉庫、陸運、海運、不動産会社が連なり、ドイツ、アメリカ、香港に現地法人を設立している。近年は中国における国際物流に力を入れており、上海、北京、大連、青島、広州などに拠点を持っている。


「三井倉庫」は1909年の設立なので、2009年がちょうど創業100年となる。三井銀行倉庫部から「東神倉庫」の名前で独立し、1943年に現社名に改称。陸運業、海上コンテナの取り扱い、トランクルーム、引越し業務も展開している。同社もグループ企業を形成しており、連結対象子会社は国内外に53社ある。
横浜市の「宇徳」は1890年、宇都宮徳蔵が横浜に「宇都宮徳蔵回漕店」を創業したのがルーツだ。同社が京浜港における第一号店の登録免許取得企業である。宇徳運輸を経て2007年に現社名に改称。アメリカ、タイ、シンガポール、マレーシアに現地法人を有している。2006年に商船三井の連結子会社となり、主要株主には商船三井をはじめ、三井物産、中央三井信託銀行など三井グループが名を連ねているが、前述の三井倉庫との資本関係はない。


1897年、かの渋澤栄一を営業主として東京・深川に設立されたのが「渋澤倉庫」だ。倉庫業からスタートし、高度経済成長期に海運・陸運をあわせた総合物流体制を確立。その後、賃貸ビルの開発、大型商業施設の運営も手がけ、近年では情報システムの企画・開発など多角経営を展開している。なお、現在はみずほグループに属している。


1903年、川西財閥・川西清兵衛が神戸に設立したのが「川西倉庫」だ。川西商事を経て1922年に現社名に改称。清兵衛は日本毛織産業を中核企業とし、多くの繊維関連企業を経営していたことから、物流基地としての倉庫が必要であったことは容易に想像できる。紫電や紫電改など戦闘機を製造した川西航空機も同社の関連企業であった。

By Master K/益田 慶



100年企業 54 産業別100年企業 ホテル編

1900年までに誕生し、現在まで開業している老舗ホテルは、どれも名門ばかりだ。時代を経てオーナーは変わってきたものの、経営権を得た企業は伝統を受け継ぐ「100年企業」といえよう。


「日光金谷ホテル」(栃木県)は、1873年創業の日本最古のクラシックリゾートホテル。雅楽の笙演奏者であった金谷善一郎が自宅の一部を外国人向けの宿泊施設として「金谷カッテージ・イン」を開業。1893年に、日光山内をのぞむ現在地に2階建て洋室30室の「日光金谷ホテル」として営業を開始した。同ホテルを経営する金谷ホテルは、「中善寺金谷ホテル」も経営している。ただし今世紀に入って経営悪化が進み、2005年には投資銀行が金谷ホテルの約半分の株を取得。取引銀行である足利銀行や日本政策投資銀行などによる事業再生支援が続けられている。


1878年、創業者の山口仙之助が箱根に開業したのが「富士屋ホテル」だ。1891年には現在も利用されている本館が竣工。1917年にはゴルフ場の運営も始めた。以降、湯本富士屋ホテルや富士ビューホテルなどを開業し、富士屋ホテルチェーンを展開してきたが、現在は、タクシー、バス、自動車整備、不動産管理、ホテルチェーン、病院・介護などを手がける国際興業グループの傘下となっている。ちなみに1932年に来日したチャールズ・チャップリンや1937年に来日したヘレン・ケラーは同ホテルに宿泊した。


日本初の本格的な都市型ホテルとして「帝国ホテル」が開業したのは1890年。その3年前に、渋沢栄一と大倉財閥総帥・大倉喜八郎が設立した有限会社帝国ホテルが経営母体となった。同社は1887年を創立年としている。経営権は渋沢から大倉喜八郎、その息子の喜七郎へと渡り、大倉財閥解体後、塩と煙草で財を成した金井寛人へと渡って金井が会長となったが、その死後、国際興業の小佐野賢治に譲渡された。2007年には国際興業保有の帝国ホテル株式の大半が三井不動産に売却。現在の大株主は株式の33.2%を所有する三井不動産である。

帝国ホテルに次ぐ都市型老舗ホテルが、京都の「都ホテル」だ。京都の豪商・西村仁平衛が1890年、「吉水館」を開館。これが起源である。1900年「都ホテル」に改名。これを買収したのが近鉄グループだ。2002年「ウェステイン都ホテル京都」として、21世紀型ホテルとして生まれ変わった。経営する「都ホテルズ&リゾーツ」は、近畿圏を中心に東京から沖縄まで、近鉄グループの「都ホテル」を展開している。


リゾートホテルの老舗として忘れてはならないのが軽井沢の「万平ホテル」。江戸時代後期に佐藤万右衛門が旅籠「亀屋」を開業。その後、休業状態にあった同旅籠を初代佐藤万平が改築し、1894年に「亀屋ホテル」として創業したのが起源。1902年に移転した際に「万平ホテル」と改名した。


その後、現在の本館アルプス館が完成。1989年には、敷地内に会員制リゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ軽井沢万平」が開業した。余談だが、1976年から4年間、避暑のために万平ホテルに滞在したジョン・レノンが同カフェテラスで作り方を直伝したロイヤルミルクティーはその後、カフェテラスの名物となった。


2009年に創業100年を迎えるのが「奈良ホテル」だ。明治時代は政府鉄道省の直営であった。1983年には国鉄と都ホテルの共同出資となり、現在はJR西日本と近鉄ホテルズシステムが50%ずつ出資して経営にあたっている。


By Master K/益田 慶


100年企業 53 産業別100年企業 広告代理店・出版社・書店編

広告代理業自体が新しい業態なので、広告代理店に「100年企業」は存在しないと思いがちだが、誰もが耳にしたことのあるあの企業が唯一該当する。100年間も業界ナンバーワンの売上を築いている「電通」だ。同社は前身である「日本広告」とそれに併設した「電報通信社」(ともに1901年創業)の設立をもって創業としている。


創業者の光永星郎は幕末に熊本県で生まれ、日清戦争時に従軍記者として中国に渡った。通信手段の不備により、せっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れたことから通信社の設立を構想する。同時に広告代理店の設立を図ったことが光永の先見性といえよう。1907年にニュース通信社「日本電報通信社」を興し、自身が設立した電報通信社と日本広告を合併。この日本電報通信社を略して「電通」。1955年に電通と改めた。


1973年度の取扱高で同社が初の世界1位となる。創立100周年にあたる2001年、東証1部へ株式上場。2008年3月期の連結売上高は約2兆2519億円。現在、広告からイベント、映画制作などマスメディアにかかわる巨大なグループを形成している。


一方、有名書店チェーンには老舗が多い。1869年創業の「丸善」は書店、出版社、専門商社という三つの顔を併せ持つ企業で、さらに店舗内装事業も手がけている。創業者は福沢諭吉門下の早矢仕有的(はやしゆうてき)。創業時の社名は「丸屋商社」であった。丸善の店舗には、書店と衣料・雑貨・文具などの輸入品を扱う店舗がある。


前者では洋書の扱いが有名で、日本の書店にごく普通に洋書が並ぶようになったのは同社が道を開いてくれたからである。輸入品の小売については専門商社ならではの品揃えで、西洋の文化をいち早く紹介してくれた企業といえよう。日本最初の国産マッチの独占販売やオリジナル「丸善インキ」を発売するなど、現在の小売業が挑んでいる販売方法を最初に手がけたのも同社である。出版部門では、主に理工系・美術系の専門書・教科書・一般書を発行。マルチメディア、電子出版なども扱っている。ちなみに創業者の早矢仕が考案したから「ハヤシライス」と呼ばれるようになったという説があり、丸善ブランドにはちゃんと保存用ハヤシライスがある。

1881年創業の「三省堂書店」は、もともと古書店として神田神保町で誕生した。創業者の亀井忠一が海外の言葉に関心が高く、辞書編纂の業務を開始。1884年に出版事業に進出。出版・印刷部門は1915年に分離独立し、辞書や教科書の出版で知られる「三省堂」が設立された。同社も1881年も創業としている。書店部門はその後、全国に直営店とFC店を展開。アメリカにも直営店を出店している。丸善、三省堂書店と並んで大手書店チェーンといえば「紀伊国屋書店」の名前が挙がる。名前から想像すると江戸時代の創業と思えるものの、じつは同社は1927年創業なので「100年企業」ではない。

出版社の「100年企業」は、丸善、三省堂以外では、日記帳やビジネス手帳の版元として知られる「博文館新社」が1887年創業。1896年創業の「明治書院」と「新潮社」が該当する。前者は国文学・漢文学・国語教育の専門会社として創業し、現在は高校の検定教科書を発行している。新潮社は前身の「新声社」が起源で、1914年に新潮文庫を発刊し、書籍の大衆化に大きく貢献した。

2009年にちょうど創業100年を迎えるのが「講談社」だ。オーナー一族の野間家が100年間経営に携わっている。同じ老舗でも岩波書店は1913年、文藝春秋は1923年、旺文社は1931年の創業。新聞社と比べると、出版社の老舗企業は意外に少ない。特に出版不況と呼ばれる昨今は、中小出版社の廃業が続いている。今後は大手同士の合併や買収など、出版社も淘汰されていく可能性が高い。


By Master K/益田 慶


100年企業 52 産業別100年企業 新聞社後編

地方紙には政党や自由民権運動の機関紙としてスタートしたものもある。1882年創業の山陰中央新報社(島根県)は、島根県と鳥取県で「山陰中央新報」を発行している。前身は自由民権運動の機関紙として発刊された「山陰新聞」。幾度かの改題を経て1973年に現在の題号に変更。2002年に創刊120周年を迎えたばかりだ。


1879年創刊の「山陽新報」と1892年創刊の「中国民法報」が合併して生まれたのが、現在の「山陽新聞」。発行部数47部は評価できる部数だ。発行元の山陽新聞社(岡山県)は「山陽新報」の創刊をもって会社設立としているので、こちらも100年企業である。山陽放送の大株主でもある。


広島県、山口県、島根県、岡山県で発行されるブロック紙「中国新聞」発行元の中国新聞社(広島県)の設立は1892年。1945年の原爆投下で本社が被災し、一瞬にして社員 113人を失ったものの、2日間休刊しただけとは頭が下がる。中国放送の大株主でもある。


1899年創刊の「四国新聞」(香川県)は、当時の保守・中道政党である改進党系の機関紙「香川新報」として始まった。改題を経て1946年に「中国新聞」となったが、実際に発行されているのは香川県のみ。西日本放送とともに平井家がオーナーとなっている。実家の建設業を継ぎ、高松商工会議所会頭、四国商工会議所連合会会長など歴任し、政界に進出した平井太郎が現西日本放送を創設し、のちに四国新聞社の社長を務めた。


婿養子となった平井卓志氏も同社社長を務め、政界へ進出。1998年に政界を引退し、現在は四国新聞社社主・取締役会長、西日本放送代表取締役社長兼最高経営責任者。長男の平井卓也氏は二世議員として政界で活躍中、次男の平井龍司氏が四国新聞社代表取締役CEOに就任している。

愛媛県紙「愛媛新聞」は1876年創刊。2006年に創刊130年を迎えたばかり。四国中央テレビの大株主でもある。板垣退助の創立した政治結社「立志社」の機関紙から独立して、1904年に誕生したのが「高知新聞」。高知県唯一の日刊紙で、県内のシェアは80%を超える。


九州の新聞も歴史がある。「西日本新聞」(福岡県)は1877年創刊の「筑紫新聞」がルーツ。その後、改題を繰り返し、1942年に現題名に。発行元の西日本新聞社は「西日本スポーツ」も発行し、福岡ソフトバンクホークスの活躍を全面に押し出している。佐賀県紙「佐賀新聞」は1884年創刊。日本の日刊新聞で初めて電算写植による新聞製作システムに完全移行したことで知られている。


また、1996年に新聞社として全国初のインターネットプロバイダ事業をスタート。IT関連の先駆的な取り組みとして注目を集めた。1889年、「長崎新報」の題号で創刊したのが、今日の「長崎新聞」の前身。「長崎日日新聞」と改題後、原爆投下による社屋焼失など幾多の苦難を乗り越え、1959年に長崎民友新聞と合併して長崎新聞と改題して現在に至る。

「南日本新聞社」(鹿児島県)の歴史は、1881年の「鹿児島新聞社」の設立に始まる。創刊は1882年。全国の地方紙に先駆けた動きであったが、1889年に九州改進党鹿児島部の流れをくむ政治団体・鹿児島同志会に買い取られ、機関紙となる。「南日本新聞」の題字となったのは1946年。それ以降、南日本新聞社を中心にしたグループは九州地区の大手地場産業のひとつとなっている。


以上、足早に地方紙の「100年企業」をめぐってみた。明治に創刊された新聞ののれんを受け継ぎながら地場産業の支援に努めてきた地方新聞社だが、今日ではインターネットやテレビを含めた総合情報産業としての生き残りをかけているようだ。

By Master K/益田 慶


100年企業 51 産業別100年企業 新聞社中編

地方新聞社に「100年企業」が多い理由のひとつに明治政府が、水面下で「県紙」を根づかせる政策を進めたことにある。国や地方自治体は国民・県民に向けたインフォメーションルーツとして地方紙を機能させたのである。もうひとつの流れは地方経済紙だ。地域経済の活性化のため、地元の資本家の手で創刊された。昭和に入り、1県1紙方針が定まり、統廃合が行なわれた。現存している新聞社の「100年企業」は、統廃合で生き残った企業ばかりだ。


1891年に創刊した「茨城新聞」は、茨城県の県紙。発行元の茨城新聞社は、統廃合の際に、水戸に本社をもつ「常総新聞」や土浦で発行の「常南日報」、古川で発行の「関東毎日新聞」を吸収して今日に至る。栃木県の下野新聞社が発行する「下野新聞」は、1878年に創刊した「栃木新聞」がルーツ。1884年に「下野旭新聞」発行元と合併し、現題名になった。1941年、経営難から「東京日日新聞」(現毎日新聞)の支援を受けて以降、毎日新聞社と資本・協力関係にある。


群馬県県紙の「上毛新聞」は1887年創刊。発行元の上毛新聞社は、1970年に国内で初めて活字を使わない最新鋭フィルム版を使用した新聞社である。ちなみにミステリー作家の横山秀夫は同社の社会部に勤めていた。そのときに横山が体験した日航機墜落事故をモチーフにして描かれたのが、彼の代表作『クライマーズ・ハイ』だ。


「神奈川新聞」のルーツは1890年創刊の「横浜貿易新聞」。その後、地方紙との合併を重ね、1942年に現題名になった。発行元の神奈川新聞社は、朝日新聞社のグループ企業。2001年に「テレビ神奈川」の経営権を取得した。


長野県の「信濃毎日新聞」は、発行部数約48万部という地方紙の雄。1873年、「長野新報」として創刊。1881年より現在の題号となる。1881年から経営に参画し、実権を握った小坂善之助は、その後、信濃銀行を設立し、戦前に小坂財閥を築いた。善之助が君臨して以降、小坂家が代々社長を受け継いでいる。ちなみに、長野1区の代議士で、第三次小泉内閣の文部科学大臣を務めた小坂憲次氏は、信濃毎日新聞社と信越放送の大株主である。


1881年に「岐阜日日新聞」として創刊し、合併を重ねて誕生したのが今日の「岐阜新聞」だ。岐阜県は「中日新聞」(愛知県)のシェアが高いため、岐阜新聞はトップシェアではない。岐阜新聞社の傘下に岐阜放送がある。同一題字で日本最古の日刊新聞が1878年創刊の「伊勢新聞」(三重県)だ。紙名は、三重県という名前より前に伝統的な地名としてあった「伊勢の国」に由来する。


「京都新聞」は京都府と滋賀県で販売されているフロック紙だ。1879年、京都財界人の一人で、のちに京都商工会議所会長にも就任した浜岡光哲が「京都商事迅報」を創刊したのが起源。いわゆる経済専門誌で、これを源流にして新聞を発行。「京都新聞」の題字となったのは意外に遅く、1942年のこと。「神戸新聞」は、神戸川崎財閥・川崎正蔵の手によって1898年に創刊した。


神戸新聞初代社長は、川崎造船所(現川崎工業)社長の松方幸次郎。1920年に神戸川崎財閥から独立神戸新聞と銘打っているが、兵庫県全域と近畿地方の西部をフォローするブロック紙。発行部数56万部は見事だ。同じく神戸市に本社を置く「サンテレビ」の45.3%の株式を有し、連結子会社としている。余談だが、1995年の阪神・淡路大震災で「神戸新聞社」が入居する神戸新聞快感が全壊した。現在の社屋は、ウォーターフロントにあたる「神戸ハーバーランド」内にある。


北陸では、北日本新聞社(富山県)、北國新聞社(石川県)、福井新聞社(福井県)すべてが「100年企業」に該当する。各社とも地元テレビ局を系列会社とし、地元経済界と密接にかかわっている。


By Master K/益田 慶


100年企業 50 産業別100年企業 新聞社前編

老舗新聞社の多くは、明治初期に誕生している。新聞の配布エリアから全国紙、ブロック紙、地方紙という分け方ができる。情報収集の方法や広告主が共通するため、新聞社がテレビ局や出版社を系列に置くことが多く、中央・地方にかかわらずメディアグループを築いている。


まず全国紙から紹介しよう。発行部数世界一を誇る読売新聞は1874年に「日就社」が創刊した「讀賣新聞」が起源。1917年に社名を読売新聞社に改めた。中興の祖となったのが、前警視庁警務部長で後の衆議院議員、正力松太郎だ。経営難に陥った同社を買収し、1934年に大日本東京倶楽部(現読売ジャイアンツ)を創設。これが部数拡大に大きく貢献し、正力松太郎の戦略はズバリ的中した。2002年にはグループの再編が行なわれ、読売新聞社は、グループ持ち株会社の「読売新聞グループ本社」が傘下の「読売新聞東京本社」「読売新聞大阪本社」「読売新聞西部本社」「読売巨人軍」「中央公論新社」などを総括することになった。また、「読売新聞グループ本社は日本テレビの大株主である。


朝日新聞社は1879年、雑貨商を営む村山龍平が「朝日新聞」の所有権を獲得し、出資総額の3分の2を出し、上野理一が3分の1を分担して大阪で創業された。今日に至るまで創業家の村山家と上野家の株式が全体の半分以上を占め、大株主となっている。村山龍平は後に国会議員となった。途中で政府と三井銀行から経営資金援助を受け、1888年には「東京朝日新聞」を創刊し、いち早く東京進出を果たした。また、1915年には、大阪朝日が現在の全国高校野球選手権大会を開催した。また、朝日新聞社はテレビ朝日の大株主でもある。

毎日新聞は1872年に東京浅草の「日報社」から創刊された「東京日日新聞」がルーツだ。だから、じつは読売、朝日より歴史がある。1875年にはいち早く新聞の個別配達を開始している。一方、1906年に「大阪毎日新聞社」が東京の「電報新聞」を買収し、同紙を「毎日電報」に改め、東京進出を果たす。1911年に大阪毎日新聞社が日報社を合併し、「毎日電報」を「東京日日新聞」に吸収。その後、東西で異なっていた紙名を「毎日新聞」に統一した。こうして名実ともに全国紙となった。大阪の「毎日放送」の主要株主でもある。


名古屋市に本社を置く中日新聞社は、前身となる新聞が発刊されたのは1886年だが、会社の創業は1942年だ。「中日新聞」「東京新聞」をあわせると、読売、朝日、毎日の3大新聞に次ぐ発行部数となる。中日ドラゴンズの親会社としても知られている。


地方紙を発行する新聞社にも「100年企業」は多い。1887年創業の北海道新聞社は、北海道内で圧倒的なシェアを誇るブロック紙。東北で最も歴史のある「秋田魁新報社」は1874年創業なので読売新聞と同じ年生まれの老舗だ。東北各県の販売されているブロック紙「河北新報」の発刊元である「河北新報社」は1897年創業。青森県の「東奥日報社」は1888年創業、岩手県の「岩手日報社」は1876年創業。「山形新聞社」も同年の創業だ。「福島民報」は1892年に創刊している。


このように多くの地方紙の発刊元は「100年企業」である。地元銀行をはじめ地元有力企業、テレビ局、地元出身の代議士などと深く結びついているため、経営が破綻すると影響が大きく、地元経済界が新聞社を支えるかたちになっている。また、地方新聞社はイベントの主催者となることが多く、産業界に欠かせない存在でもあるため、明治から今日まで続く老舗となっているようだ。

By Master K/益田 慶



100年企業 49 産業別100年企業 飲料メーカー後編

日本の大手ビールメーカー、洋酒メーカーは、ほとんどが明治に入って誕生した「100年企業」だ。日本酒と異なり、製造技術の輸入・開発と新たな工場の建設が必要であったため、資本を蓄えた明治の財閥が少なからず経営に関与した。またアルコールを製造販売することから、経営には政治力も必要であった。各社は現在、清涼飲料やお茶、缶コーヒーなど飲料を販売しているので、総合飲料メーカーといえよう。


最も古い歴史を誇るのが「サッポロビール」だ。1876年、政府の開拓使が北海道札幌市に「開拓使麦酒醸造所」を設立した。実質は国営産業であったが、同社ではこれをもって創業としている。翌年、開拓使のシンボルである北極星をマークとした冷製『札幌ビール』を世に送り出した。これが現社名の由来だ。1886年、大倉財閥の大倉喜八郎率いる大倉商会に払い下げられ、翌年、渋沢栄一、浅野財閥・浅野総一郎らが大倉から麦酒醸造所場を譲り受け、「札幌麦酒」を設立し、製造販売をスタートした。


「アサヒビール」は1889年、大阪・堺の酒造業者のリーダー的存在であった鳥井駒吉が設立した「大阪麦酒」をもって創業としている。鳥井はのちに南海電鉄の前身である阪堺鉄道の敷設メンバーになり、また堺貯蓄銀行を設立するなど堺の資産家であった。1891年に「アサヒビール」を販売した。


この大阪麦酒と前出の札幌麦酒、1887年に東京で創業した「日本麦酒醸造」の3社が合併して、1906年に「大日本麦酒」が誕生する。日本麦酒醸造は三井物産系企業で、関東で「恵比寿ビール」を販売していた。合併によって生まれた大日本麦酒は国内シェア7割を占め、独占状態となった。サッポロビールとアサヒビールが同根と称されるのは、この合併によってである。
その後、大日本麦酒が、「朝日麦酒」と「日本麦酒」の2社に分割。後者がのちに「サッポロ」と「エビス」の商標を継承し、現在の「サッポロビール」へと発展していく。


アサヒビールとの2強時代が続く「キリンビール」は1907年、三菱財閥傘下の「麒麟麦酒」として誕生したのを創業としているが、その起源は1870年にアメリカ人のウイリアム・コープランドが横浜に開設した「スプリング・バレー・ブルワリー」にまでさかのぼる。大衆向けビールとしては日本で初めて継続的に醸造・販売を開始したが倒産。これを再建したのが三菱の岩崎弥之助である。


ビールより国産ウイスキーメーカーとして認知されている「サントリー」は、1899年に鳥井信治郎が「鳥井商店」を設立したことを起源としている。鳥井の実家は大阪の両替商・米穀商を営んでいたことから、鳥井家は大阪の資本家といえよう。当初はスペイン産のワインを販売したが、売れなかったため、日本人の口に合う「赤玉ポートワイン」を製造販売し、これが大ヒット。1921年に「寿屋」を設立し、国産ウイスキーの製造を開始。昭和に入り、現在の「角瓶」がヒットし、ウイスキー事業が軌道に乗った。ビールメーカーとしては後発で、アサヒ、キリン、サッポロに次ぐ4番手だが、国産ウイスキーのシェアはトップだ。


アサヒ、キリン、サッポロ、サントリーは、それぞれ多くの系列会社や子会社を持ち、一大グループを築いている。アサヒビールは子会社の「ニッカウヰスキー」が製造・輸入する商品の販売を行なうほか、山梨の「サントネージュワイン」も傘下としている。沖縄の県民ビール「オリオンビール」の主要株主でもある。サッポロビールグループは「恵比寿ガーデンプレイス」などの不動産事業が活発で、酒造事業の4倍以上の利益を不動産ビジネスで稼いでいる。


この不動産事業に目をつけたのが、投資ファンド「スティール・パートナーズ」である。一方、キリンビールは、「協和発酵キリン」を設立して医薬事業に進出しているほか、バイオ事業も手がけている。ちなみに「横浜アリーナ」はキンリビールと横浜市、西武鉄道が出資して誕生したホールである。サントリーは、サントリーホールやサントリー美術館など文化事業で名高いが、日本における「ハーゲンダッツ」や「ペプシコーラ」の販売はサントリーの系列会社が行なっている。

By Master K/益田 慶


100年企業 48 産業別100年企業 飲料メーカー前編

日本酒の酒蔵には老舗が多いが、じつはビールやワインのメーカーにも「100年企業」はたくさんある。その多くは酒造業からのスタートで、現在も日本酒製造と並行してワインやビールの製造を行なっている。また、社名に「○○酒造」という具合に「酒造」がつく企業も少なくない。ワインも地ビールも製造免許が必要だが、老舗の日本酒メーカーは新規に始めるコストとリスクが少なく、また地元の老舗企業として社名が浸透しているため、ビールやワインのマーケットにも進出しやすいからである。


元禄年間(1688~1703年)創業の「富士錦酒造」(静岡県)は、日本酒「富士錦」ブランドで知られているが、地元産の良質の完熟梅を使った「芝川梅ワイン」をはじめ、「ゆずワイン」「甘夏ミカンワイン」など、ぶどう以外の果実を原料としたワインも製造している。同じく1753年創業の「武甲(ぶこう)酒造」(埼玉県秩父市)は、銘酒「武甲正宗」の醸造元だが、秩父ワインの製造も手がけている。ちなみに武甲酒造店舗は、国指定の登録有形文化財に指定されている。


山梨県の「甲州ワイナリー」は1834年に酒造業として創業した。1961年に果実酒醸造免許を取得し、甲州ぶどうを原料としたワインづくりを開始。「かざま甲州」のブランドで知られている。一方、「沖正宗」の蔵元である「浜田」(山形県米沢市)は1866年創業。「浜田酒造」の名で酒づくりを続け、1977年にはワイナリーを竣工。「シャトーモンサン」や「モンサン米沢」のブランドでワインを製造している。


老舗酒蔵が規制緩和により、地ビールメーカーを始めたケースも多い。1575年創業の「二軒茶屋餅角屋本店」(三重県伊勢市)は、もともとは社名にあるように餅の製造から始まったが、現在は伊勢の地ビールとして知られている。世界のビールコンテストで入賞したことで、ビールファンの注目を集めた。地ビールの銘柄「さがみビール」の製造元「黄金井酒造」(神奈川県厚木市)は1818年創業の蔵元。


ビールは清酒造りと同じく丹沢の名水を使い仕込んだケルシュ、アルト、スタウトだ。1823年創業の「木内酒造」(茨城県)は、地ビール「常陸野(ひたちの)ネストビール」の製造元として近年知名度が上昇している。1977年に「インターナショナルビアサミット」で金賞を受賞。2000年にオープンした「手作りビール工房」がマイビールをつくれるとあって人気を博し、地元では観光スポットやデートコースのひとつに挙げられている。


1822年創業の「寿酒造」(大阪府高槻市)は、摂津富田郷の酒造りを受け継ぐ老舗。ブランド「大阪國乃長ビール」を展開している。1837年創業の「北村酒造」は、7代目となる現社長が地ビールの製造を開始。「伊賀流ビール」と名づけられた地ビールを製造している。


日本酒の蔵元以外では、食品メーカーとして知られる「小田原鈴廣」(小田原市)が、「小田原エール」や「箱根ピルス」など地ビールの製造に乗り出し、成功している。「箱根ビール」の名前でプロモーションを展開し、連動するビアレストラン「箱根ビール蔵」の人気も上々だ。二つのビールが国際大会で入賞したことから、近年知名度がアップしている。


こうして見てみると、やはり圧倒的に老舗の蔵元が、ビールやワインの製造も手がけていることがわかる。業種を変えることなく、同じカテゴリーの商品を製造し、時代に合ったヒット商品をつくり続けることが、「老舗」の生き残り方なのだろう。


By Master K/益田 慶


100年企業 47 産業別100年企業 専門メーカー・小売店編・後編

玩具メーカー「増田屋コーポレーション」(東京都)は1724年、春日局の末裔・斎藤林兵衛によって創業された老舗中の老舗。江戸時代は人形の製造・販売を中心に展開し、明治に入ると貿易部を設立して、世界各国から玩具を輸入し、国内で販売を開始。1940~1960年代に製造したブリキ製のロボットや自動車がヒット。現在、同社のこの時代のブリキ製の玩具は、世界的なコレクターズアイテムとなっている。また、世界に先駆けて1955年に発売されたラジコン・バスは、電子玩具の古典として知られている。ちなみに、ラジオコントロールを略した「ラジコン」は、同社の商標である。


1800年創業の「大石天狗堂」(京都市)は。小倉百人一首に代表されるかるたをはじめ、囲碁、将棋などを通じて、日本の伝統美と遊びを現代に伝える企業。同じく京都市に本社を構える1889年創業の「任天堂」も、もともとは花札のメーカー。現在は家庭用ゲーム機の世界的なメーカーとして有名だが、現在もトランプや囲碁・将棋、花札などの製造を続ける玩具メーカーである。


玩具業界では、日本の伝統的な雛人形や五月人形などの商品を製造している会社に当然のごとく「100年企業」は多い。全国区の有名な企業だけ挙げておこう。「吉徳」(東京都)は、1711年に初代治郎兵衛が江戸に人形玩具店を開いたのが起源。6代将軍家から「吉野屋」の 屋号をもらい、以来「雛人形手遊問屋」として吉野屋治郎兵衞を名乗る。同社の人形は、宮内庁御用達としても知られている。現会長の山田徳兵衞氏は「吉徳」11代目にあたる。


「島津」(京都市)は1833年創業。初代嘉助が皇室御用達の職人となり、名工の誉れを継承してきた。同社は直売店でしか販売していない。日本人形の製造・販売の大手「久月」(東京都)も1835年創業の老舗中の老舗。初代横山久左衛門が、江戸に人形師久月の表札を掲げたのがルーツ。現在、札幌、名古屋、大阪などに直営店を展開している。


家具・インテリア用品、インテリア設計・施工を営む「米三(こめさん)」は、富山県の有力企業。創業は1848年。米三漆器店を経て、現社名に改組。製造のみならず、大型家具専門店、ホームセンターなど小売店の経営も手がけ、地域一番店として君臨している。同じく家具メーカーの「コスガ」(東京都)も江戸時代の創業。1862年に大阪で籐製品の製造を始めたのが起源。その後、東京に進出、小菅商店を経て現社名に改組。1950年代にはラタン家具ブームを牽引。また、日本メーカーで初めて欧米に家具を輸出した家具メーカーでもある。


照明器具と「コイズミ学習デスク」のメーカーとして知られる「小泉産業」は1727年、近江商人・小泉武助が近江麻布の行商を始めたのがルーツ。明治・大正時代には呉服問屋として発展を続け、第二次世界大戦後、電熱器や電気スタンドなどの生活用品の製造卸売事業を開始。その後、照明器具の企画開発に参入。さらに1960年代には、業界初の蛍光灯付学習机を製造し、高度経済成長期とベビーブームが重なり、急成長。「コイズミ学習デスク」は現在、学習机のトップシェアを誇っている。2006年に事業ごとに分社化し、コイズミグループを結成。グループ連結売上高は477億円に達している。


家具製造・販売では、ほかに1780年創業の「会津屋」(岐阜県)、1786年創業の「板文」(兵庫県)、1867年創業の「松岡家具製造」(広島県)、1868年創業の「白半(はくはん)木材」(愛知県)など多くの「100年企業」が存在する。


By Master K/益田 慶


100年企業 46 産業別100年企業 専門メーカー・小売店編

寝具・健康機器・インテリアの製造卸売業の「西川産業」は、グループ会社に小売り専門店を展開している。近江商人の初代仁右衛門が1566年、近江八幡町に蚊帳・生活用品販売業を始めたのを創業としている。したがって「創業440年企業」だ。江戸幕府が開かれると江戸・日本橋に出店し、1706年には江戸町奉行から蚊帳問屋に指定。あわせて弓問屋を営み、9代目甚五郎は幕府の御用弓師となり、弓の運送・販売の独占を認められた。また、京都や大阪にも出店していった。1887年に京都、大阪の両支店でふとんの製造・販売を開始。


西川グループが広く認知されるようになったのは、1950~60年代の高度経済成長期に始めた合繊安眠わたや洋掛ふとんの製造・販売においてだ。それは、日本人が少しずつ豊かになり、睡眠にも投資できるようになったことを物語っている。やがて西川産業は、西川、西川リビング、京都西川、心斎橋西川など、地域や業態別に子会社化し、原料の調達、製造、運送、販売から廃棄ふとんのリサイクルまでグループでまかなえるようにしていった。ちなみに現会長の西川甚五郎氏は、西川家第14代当主である。


和文具や香などの製造・販売を営む「鳩居(きゅうきょ)堂」は、熊谷直心が1663年に京都で薬種商「鳩居堂」を開いたことを起源としている。薬種の原料が「香」と共通することから、1700年代に薫香線香の製造を始め、同時に薬種原料の輸入先である中国から、書画用文具の輸入販売を開始する。同社のブランドが全国区の知名度を得たのは、合せ香が皇室御用達であったからだ。1880年には宮中の御用に対応するため、現在の銀座に東京出張所を開設。1942年に製造部門と販売部門を分離して会社組織にし、1982年に東京鳩居堂銀座本社ビルが改築。銀座・中央通りに面した同社ビル前は、2008年度まで23年連続で路線価日本一の場所として知られている。


果物の輸入・販売の専門会社「千疋(せんびき)屋」は1834年、武蔵の国埼玉郡千疋の郷(現在の埼玉県越谷市千疋)の侍であった初代弁蔵が江戸・日本橋に「水菓子安うり処」の看板を掲げ、果物と野菜類を商う店を構えたのがルーツ。2代目は著名な料亭に商品を納品したことから信頼性を高め、徳川家御用商人となる。3代目が経営の近代化に着手し、逸早く外国産の果物を輸入。ここに日本初の果物専門店が誕生した。明治に入り、京都千疋屋、銀座千疋屋をのれん分けし、フルーツパーラーも開業。その後、フルーツ専門店のブランドとして君臨し、大手百貨店にテナントには欠かせない存在となっている。


「千疋屋」と競合する「新宿高野」も、フルーツの老舗小売業として有名な企業だ。初代髙野吉太郎が1885年、新宿に繭仲買・中古道具を本業とし、果実を副業とする「高野商店」を開業したのが創業だ。その後、フルーツの専門小売店となり、洋酒、缶詰の販売、ケーキの製造販売も手がけるようになる。同店を有名にしたのが、高級フルーツの代名詞、桐箱に梱包された「マスクメロン」だ。


現在に至るまでタカノブランドを代表する商品といえよう。1926年にはフルーツパーラーを開店。現在、フルーツの小売り部門は「新宿高野」、フルーツパーラー部門は「タカノフルーツパーラー」の社名で分離して運営している。ちなみに、現社長の髙野吉太郎氏は4代目にあたる。


余談だが、同じ新宿エリアに老舗の「中村屋」があるため、「中村屋」でカレーや中華まんを食べ、「タカノフルーツパーラー」でデザートを食せば、「100年企業」をハシゴすることになる。


By Master K/益田 慶


100年企業 45 産業別100年企業 食品業界 後編

食品業界で老舗が多いジャンルが和菓子だ。江戸時代からお菓子は土産物として必須アイテムであり、また日本で発展した茶道とは切っても切れない関係にある。


東京の「虎屋」と和歌山市の「駿河屋」は、ともに室町時代の創業で、「老舗中の老舗」と呼ばれている。「とらや」の看板で知られる虎屋。たかが和菓子だと、あなどってはいけない。年商197億円(2007年度)の優良企業であり、和菓子の老舗で最も成功した企業である。室町時代にすでに「虎屋」を名乗り、「御饅頭所」の看板を掲げ、天皇家に献上したという記録が残っている。現在、全国はもとより海外にも販売店を構え、直営の喫茶「虎屋菓寮」も展開している。ちなみに現社長の黒川光博氏は、第17代当主にあたる。


「駿河屋」は、初代岡本善右衛門が現在の京都・伏見の郊外に「鶴屋」の屋号で饅頭の販売を始めた1461年を創業としている。世界にも珍しい「500年企業」だ。羊羹発祥の店として名高く、蒸羊羹を改良してつくられた伏見羊羹は、豊臣秀吉の大茶会で諸侯に引き出物として使われ、絶賛されたと伝えられている。五代目善右衛門が紀州藩の藩祖・徳川頼宣に召抱えられ、紀州・和歌山へ移り、紀州家御用菓子司となる。のちに徳川家発祥地の駿河国にあやかって屋号を「駿河屋」とする。全国に駿河屋の名を持つ菓子店が多く存在するが、分家・のれん分によるものは11社のみだ。


「創業300年」の歴史を誇る「赤福」(三重県伊勢市)は、賞味期限の偽装と売れ残り商品の再利用で近年さらに有名になった。メインの赤福餅は、もともと伊勢神宮前で販売され、人気を博したもの。12の直営店と120の委託販売店が主な販路だ。あまり知られていないが、企業としての「赤福」は、菓子製造、レストラン経営、不動産管理、警備保障などからなる企業グループを築いている。300年も続いている「赤福」のブランド価値はすこぶる高く、歴史の浅い企業からすれば、うらやましい資産といえよう。


和菓子はもともと神社仏閣や観光地の土産として購入されてきたので、歴史のある観光地ごとに「100年企業」があるといえる。1805年創業の「船橋屋」(東京都江東区)は、亀戸天神参道でくず餅やあんみつなどを販売したのが起源。創業200年を機に創作スイーツの店を開店させている。浅草の「雷おこし」で有名な「常盤堂 雷おこし本舗」は、江戸時代中期から浅草の土産として定着した「雷おこし」の老舗。こちらは「250年企業」だ。


地域の特産物を加工したお菓子も多い。愛知県の港町では昔から漁師たちは、海老のすり身をあぶり焼きした「えびはんぺい」と称するおやつを食していた。これが尾張藩主から徳川家に献上され、特産品となっていた。1889年、創業者の坂角次郎が「えびはんぺい」を加工して、貯蔵できる「えびせんべい」を製造した。これを起源とするのが、えびせんの老舗「坂角(ばん)総本舗」(愛知県東海市)だ。えびせんで年商96億円をあげる老舗である。


最後に、京都の老舗を一軒紹介しておこう。「水田玉雲堂」は1477年の創業。同店が製造する唐板(からいた)は、「日本最古の菓子」と称されているせんべいだ。唐板は、清和天皇が863年に執行した御霊会で神前に供えられた疫病よけの「唐板煎餅」が起源。「応仁の乱」のあと、現店主の祖先が御霊神社境内に茶店を出店し、唐板を販売したところ、御霊神社の名物となり、世に知られることになった。明治維新前までは、皇室に皇子が誕生すると、御霊神社の参詣の際に皇族関係者が必ず土産として購入していたという。日本の老舗には、水田玉雲堂のように日本最古や世界最古と称される商品や建物を有する企業が多く存在しているのである。

By Master K/益田 慶


100年企業 44 産業別100年企業 食品業界 中編

日本茶と海苔の食品メーカー「山本山」は、1690年創業の老舗中の老舗。初代山本嘉兵衛が京都・宇治の茶を多くの人に飲んでもらおうと考え、江戸・日本橋で茶・紙類を商う店を開いたのが起源だ。当時世界最大の人口を誇る都市になりつつあった江戸に進出したのは、山本嘉兵衛の商人としての勘だろう。のちに山本嘉兵衛は、幕府御用達の茶師となる。六代目が「玉露」を発明し、知名度はさらに浸透した。この老舗ののれんにあぐらをかかず、戦後は海苔の製造販売を開始したことが、同社が飛躍する要因となった。


海苔の仕入時期は11月~3月と、ちょうどお茶の仕入時期(4月~10月)の後になり、茶に香りが移らず、1年を通して仕入と販売ができることから、茶と海苔というメイン商品を確立した。同社の高級フランドは現在、お中元・お歳暮の定番商品となっている。ちなみに、現社長の山本嘉兵衛氏は九代目にあたる。


もう一社、お茶の老舗を紹介しておこう。京都「福寿園」は1790年、福井伊右衛門が山城国上狛(現京都府木津川市山城町)で茶商を開いたのがルーツ。江戸後期から明治時代、日本茶は生糸と共に輸出の花形産業となり、同社のお茶は主に神戸港より輸出、貿易茶の産地問屋として発展した。1952年に、京都駅に初の直売店を設けて以来、卸売りの他に全国各地に直売店、百貨店への出店を行ない、製造直売方式で業績を拡大した。ちなみに、サントリーのヒット商品「伊右衛門」は、同社の茶葉を使用している。創業者の名の伊右衛門は「福寿園」の銘柄でもある。


味つけポン酢「味ぽん」や納豆「金のつぶ」で知られる「ミツカングループ本社」(本社:愛知県半田市)は、調味料の大手総合メーカー。グループ売上高は1512億円。醸造酢は、日本トップクラスのシェアを築いている。造り酒屋を営む初代中野又左衛門が酒粕酢醸造(日本酒の製造後に残る酒粕を用いた醸造酢)に成功して分家独立し、1804年、尾張国半田村(現・愛知県半田市) で創業した。1811年には半田工場を開設、1887年には、三本線の下に丸をつけたロゴを商標登録した。1950年代に瓶詰化をスタートさせ、「ミツカン酢」のブランドで全国展開したことが、同社が「100年企業」から「200年企業」にステップアップした最大の要因である。


味噌業界では圧倒的なシェアを誇る「マルコメ」(本社:長野県)は、1854年に味噌、醤油醸造業を開始したのが起源。「米」という漢字を丸で囲んだロゴと、くりくり坊主の「マルコメ君」のキャラクターで知られる。生味噌、即席味噌汁、業務加工用味噌を製造している。健康志向の高まりから、味噌の評価も高まり、近年では海外向け商品の開発にも力を入れている。


「鈴廣」は、神奈川県小田原市に本社を置く蒲鉾を中心にした食品会社の屋号であり、「鈴廣蒲鉾本店」の登録商標である。1865年、村田屋の屋号で魚商を営んでいた四代当主村田屋権右衛門が、漁業の副業として小田原の魚河岸に近い代官町(現在の本町)にてかまぼこ製造を開始。「鈴廣蒲鉾本店」「鈴廣かまぼこ」「小田原鈴廣」「スズヒロシーフーズ」などからなる鈴廣グループは、これをもって創業としている。


江戸後期、蒲鉾は、小田原宿や箱根温泉の客に特産品として食され、参勤交代の大名や武士が好んで持ち帰った。明治に鈴木姓となり、六代当主鈴木廣吉が屋号を「鈴廣」と改め、かまぼこ製造を本業とした。以降、工場を建設し、分社化を進め、「箱根ビール蔵」「かまぼこの里」などの運営も手がけている。グループの連結売上は115億円。小田原市を代表する企業グループとなっている。


By Master K/益田 慶


100年企業 43 産業別100年企業 食品業界 前編

食品は老舗の多い業界だ。京都や奈良など古都はもとより、地方の名産を製造する零細企業を含めると数えきれない。そこで、ある程度名の通った企業をピックアップして紹介しよう。


水産・冷凍食品のトップ「マルハニチロ水産」は、1880年創業の「マルハ」と1906年創業の「ニチロ」が統合して誕生した企業。どちらを起源としても100年企業である。ちなみに「マルハ」はかつて「大洋漁業」という社名で遠洋漁業を展開した企業。同社が運営したプロ野球チームが「大洋ホエールズ」、現在の「横浜ブルーウェーブ」だ。


総合食品分野トップ、1兆円企業の「味の素」は、創業者の鈴木三郎助が1907年に設立した鈴木製薬所がルーツだ。グルタミン酸を主成分とする調味料の製造特許を得て、1909年にはすでに「味の素」という名で販売している。調味料のほか、加工食品・冷凍食品など豊富に扱っている。1981年に医薬品事業に参入。栄養食品の「アミノバイタル」は、同社のアミノ酸研究から生まれたヒット商品だ。2007年には「カルピス」を買収し、完全子会社としている。


醤油・調味料分野には老舗が多い。「ヒゲタ醤油」は1616年に、「ヤマサ醤油」は1645年に、ともに銚子で誕生した。両社とも代々濱口家が当主を務めている。ヒゲタ醤油の濱口敏行社長は、12代当主濱口吉右衛門の次男、ヤマサ醤油の濱口道雄社長は12代当主である。ヒゲタ醤油は、同じく千葉県に本社を構える「キッコーマン」と資本提携している。キッコーマンの前身は野田醤油。キッコーマン当主の茂木家とヒゲタ醤油・濱口家は縁戚関係にあり、ヒゲタ醤油の前身である「銚子醤油」の社長をしばらく茂木家が務めたのち、12代当主濱口吉右衛門に大政奉還した。


その野田・茂木家が醤油製造を伝授したのが、群馬・館林の正田家であった。正田家は江戸時代、群馬県で米穀問屋を営んでいた富豪だったが、明治に入り廃業。正田家中興の祖・本家の3代目正田文右衛門が1873年に始めたのが「正田醤油」(群馬県)だ。群馬県の老舗企業にして名門正田家の本家である。


その3代目正田文右衛門の孫にある正田貞一郎らによって、1900年に群馬県に「館林製粉」が設立された。これが現在の「日清製粉グループ本社」だ。貞一郎は1908年に「日清製粉」と改称。以降、製粉事業から食品・医薬・ペットフード事業へと拡大し、2001年に現在の持株会社となった。傘下に製粉部門(日清製粉)、食品部門(日清フーズ)、ペットフード部門(日清ペットフード)などがある。カップヌードルの「日清食品」とは資本関係はない。ちなみに現会長の正田修氏は創業者正田貞一郎の孫にあたり、美智子皇后の実弟である。


トマトジュースやケチャップで有名な「カゴメ」は1899年、創業者のトマト農家・蟹江一太郎がトマトソースの製造を開始したことに始まる。1908年にはトマトケチャップ、ウスターソースの製造を開始したというから、100年前からケチャップをつくっていた、まさに野菜食品の老舗といえよう。2007年には、アサヒビールと業務・資本提携した。


フルーツ缶詰の老舗「サンヨー堂」は、1880年に初代店主逸見勝誠が広島県で野菜缶詰を試製したのが始まり。広島生まれなので屋号を「山陽堂」とし、「サンヨー・SUNYO」印の商標を登録。フルーツ缶詰をメイン商品として年商430億円。2008年に100周年を迎えた「崎陽軒」は、シウマイをメイン商品に掲げて年商200億円。和洋菓子やレトルト食品で知られる「中村屋」は1901年、東大正門前に開業したパン屋を始まりとする。クリームパン、中華まん、純インド式カリーなど中村屋が考案した、あるいは初めて紹介した食品は多い。


By Master K/益田 慶


100年企業 42 産業別100年企業 石油・鉱業業界

石油や石炭、レアメタルの調達を輸入に依存している日本だが、江戸時代から採掘の技術を有していたので鉱業はもとより石油産業の歴史は古い。


「ENEOS」ブランドで知られる「新日本石油」は、三菱グループに属する、国内石油元売りの最大手。そのルーツは、1888年に新潟県の尼瀬油田の石油開発ブームを受けて設立された「有限責任日本石油会社」だ。その日本石油が1999年に三菱石油と合併して「日石三菱」が誕生し、2002年に現社名となった。新日本石油発祥の地、尼瀬油田は日本で初めて機械による掘削が成功した油田で、20世紀初頭の日本の石油資源を支えた油田といえる。1980年に採掘を終えた。


「ENEOS」ブランドに統一されたのは2001年。同年、石油・天然ガス資源開発部門をグループ会社の「新日本石油開発」に譲渡した。2008年4月には、新日本石油開発の米国法人が権益を保有するメキシコ湾で天然ガス層を発見するなど、メキシコ湾での事業を積極的に展開している。
ちなみに「コスモ石油」とは業務提携を結び、日本最大の石油元売りグループを築いている。さらに2006年には、次に紹介する「ジャパンエナジー」と5分野における業務提携を結んだ。


「JOMO」ブランドのガソリンスタンドを展開する「ジャパンエナジー」は、戦前の鉱山王・久原房之助が日立鉱山(旧称赤沢銅山:茨城県)を買収し、操業を開始した1905年を創業年としている。日立製作所、日産自動車の源流が日立鉱山だ。久原鉱業としてスタートしたのち、「日本産業」に社名変更。鉱業部門が分離独立して「日本鉱業」が設立される。その後、原油生産を開始し、「共同石油」「日鉱共同」を経て1993年にジャパンエナジーが発足した。2002年に持株会社「新日鉱ホールディングス」が設立し、その傘下にジャパンエナジーが置かれた。


事業の転換と多角化を進めているのが、鉱業界だ。老舗中の老舗の「住友金属鉱山」は1590年の創業で、住友グループの源流にあたる。別子銅山の採掘権を獲得した住友合資会社から別子鉱業所が分離して生まれた。現在は電子・機能性材料などの生産を行なう総合非鉄金属メーカーとして認知されているが、鉱山開発事業は中国に生産拠点を構えて継続している。


三井物産が1889年に三池炭鉱の払い下げを受けた際に、三井財閥所有の鉱山・炭鉱を一括して経営するために設立されたのが「三井鉱山」だ。2003年に産業再生機構の管理下に置かれ、2006年まで事実上、国有化状態となった。現在は石炭事業や新素材事業、化工機事業を主力としている。三井グループには、非鉄金属系に三井鉱山から分離した「三井金属鉱業」もある。


石灰石の採掘や鉱産物の加工販売を営む「日鉄鉱業」は1899年、官営八幡製鉄所の原料部門として創業された福岡県の二瀬炭鉱がルーツ。その後、民間5社が出資し、「日本製鐵」が誕生。その鉱山部門が独立して生まれたのが日鉄鉱業だ。だから業界のグループ分けでは、「新日鉄系」と呼ばれる。日本では鉱山経営は成り立たないように思うが、鉱山事業は資源採掘、機械開発、環境事業、不動産事業など幅広く、また同社はコロンビアやチリで鉱山の操業を行なうなど多角的に展開している。


たとえば小坂鉱山からスタートした「DOWAホールディングス」も鉱山事業から拡大し、環境事業に進んだグループのひとつ。1884年に藤田財閥の藤田組に払い下げされた小坂鉱山は、現在DOWAホールディングスが所有しているが、現在はリサイクル工場として機能している。


By Master K/益田 慶


100年企業 41 産業別100年企業 精密機械・産業用電子機器メーカー

時計メーカーとして世界的に名高い「セイコー」の持株会社「セイコーホールディングス」は1881年、服部金太郎が銀座に輸入時計を販売する「服部時計店」を開いたのがルーツ。翌年、製造部門として「精工舎」を設立し、国産時計の製造を開始。日本初の腕時計、世界初のクオーツ時計を製品化した。服部時計店はその後、小売部門を「和光」とし、服部時計店本体は服部セイコー、セイコーを経て2007年、セイコーホールディングスへ移行。


精工舎は「セイコークロック」と「セイコープレシジョン」に分割され、現在はセイコーホールディングスの事業子会社となっている。ちなみに「セイコーエプソン」は、精工舎のウオッチ部門が独立した「第二精工舎」の関連会社が「諏訪精工舎」を設立し、その後、エプソンと合併した際に社名変更したもの。現在も腕時計の開発・製造を行なっているが、セイコーホールディングスからは独立しており、「エプソン」のブランドで通っている。


By Master K/益田 慶


「コニカミノルタホールディングス」は、写真用フィルムメーカーの「コニカ」が、カメラ、コピー機製造の「ミノルタ」を完全子会社化した誕生した持株会社。コニカの起源は1873年、小西六兵衛が写真と石版印刷材料の取扱いを開始したことに始まる。その後、小西六写真工業を経てコニカに改称し、ミノルタを吸収して現在に至る。しかし、写真フィルム事業からは撤退し、現在はOA機器や業務用光学製品に集中している。


ノーベル化学賞受賞者の田中耕一氏が勤める「島津製作所」は、1875年に初代島津源蔵が京都で創業したのが起源。世界的に名高い精密機器、計測器、医療機器の製造メーカーである。初代・二代目とも発明家として知られ、すでに1895年に畜電池の製造を開始、1986年にはX線写真の撮影に成功。これまで光学測定器、光電式分光光度計、遠隔操作式X線テレビなど、日本初や世界初の機器を製造している。本社は現在も京都市にあり、余談だが、田中耕一氏は同社の執行役員待遇とはいえ、一介のサラリーマンを続けている。

空調制御装置に代表されるビルディングオートメーション事業のリーディングカンパニー「山武」は1906年、創業者の山口武彦が山武商会を設立し、欧米工作機械類の輸入販売を始めたのがルーツ。その後、自社工場で工業計器の組み立てを開始。現在は、制御、計測機器、電気、通信など精密機器、空気調和制御機器など幅広く精密機器やシステムを販売している。また、1990年代に東南アジアを中心に多くの現地法人をつくり、現地で機器の製造を開始。東証一部上場の優良企業である。

日本に初めて電気通信が誕生した時から先端技術を提供してきた「アンリツ」は、黎明期の無線機器、有線機器などの製造に始まり、現在は情報通信分野での新たな計測技術を製造している。1895年に創業した「石杉社」が始まりだ。その後、何度かの合併によって「安立電気」と改称し、1981年に現社名となった。1920年までに世界初の無線電話の実用化に成功。日本初のテレビ放送機や、現在のテープレターダーの母体となった交流バイアス式磁気録音機を開発したのが同社だ。数多くの「日本初」「世界初」の技術を誇る企業である。


精密小型モーターと制御用電子回路の製造販売を手がける「オリエンタルモーター」は、創業者の石倉保太郎が1885年に電気器具の製造を開始したのが創業にあたる。「東洋電動機」を経て現社名に。海外ネットワークが充実しており、欧州、アジア、アメリカの各主要都市に現地法人の支社を設け、世界的な展開をしている。


100年企業 40 産業別100年企業 電機メーカー・家電メーカー

総合電機メーカーの売上高トップ3は、日立製作所、東芝、三菱電機だ。それぞれ家電から人工衛星、原発プラントまで幅広く手がけている。このうち厳密に「100年企業」と呼べるのは、東芝だけだ。


東芝は1875年、初代田中久重が東京・新橋に電信機工場を創設したのが起源。1904年、息子で2代目田中久重が工場を芝浦に移転し、「芝浦製作所」と改称。のちに東京電気と合併して「東京芝浦電気」となった。


同社は創業を1875年、設立を1904年としている。子会社・関連会社は、国内外に巨大な東芝グループを設立している。旧財閥系のグループ分けでいえば、三井グループに入る。ちなみに三菱電機は、1921年に三菱造船の電機製作所が母体となって誕生した。


総合家電メーカーの売上高トップ3は、松下電器産業、三洋電機、シャープだ。家電の歴史自体が、100年経っていないこともあってか、このうち「100年企業」は1社もない。


情報通信機器をメインに扱う総合エレクトロニクスメーカーでは、日本電気(NEC)が「100年企業」該当する。1899年、岩垂邦彦らによって、米国ウェスタン・エレクトリック社(現ルーセント・テクノロジーズ社)と合弁会社として設立。日本初の外国資本との合弁である。戦前に住友財閥に吸収され、現在では住友電気工業、住友商事とともに"住友新御三家"の一角を占めている。


音響・映像系メーカーでは、ヤマハが「100年企業」にあたる。楽器、AV機器、スポーツ用品、半導体、リゾート開発、システムキッチンなど住宅機器販売など幅広い事業を展開しており、ジャンル分けが難しい企業ともいえる。起源は、1888年に山葉寅楠が浜松で日本最初の本格的オルガン製造に成功したことに始まる。同社では、「日本楽器製造」に改組した1897年を会社設立年としている。


電子部品メーカーでは、沖電気工業が「100年企業」だ。1881年、沖牙太郎が「明工舎」を設立したのがルーツだ。半導体事業で知られる同社だが、半導体部門はロームへ譲渡する予定。近年は、金融機関のATMや消費者金融の自動契約機、ソフトウエアの機能をインターネット経由でサービスとして提供するASP(アプリケーション・ サービス・プロバイダ)事業など、情報と通信が融合した分野への進出が目立つ。電力機器メーカーでは、住友グループの明電舎が100年の歴史をもつ企業だ。1897年創業。住友電工、NECと親密な関係にある。だだし、変電、配電分野において日立製作所、富士電機と提携している。


最後に、電機メーカー・家電メーカーのジャンルとしては多少違和感があるが、家庭用ゲーム機メーカーとしては世界最大の任天堂は、1889年創業の「100年企業」だ。山内一族が京都市で花札の製造を始め、日本で初めてトランプの製造を手がけた。アーケードゲームでゲーム機業界に参入し、ファミリーコンピュータの大ヒットで一躍世界的なメーカーとなった。


ゲーム機の製造工場は持たず、現在は中国の生産協力工場で製造している。売上高は単体で1兆4000億円を超える程度だが、日本では時価総額10兆円を超える稀有な企業。創業者一族で3代目社長を務めた現相談役の山内博氏が現在、主要株主として10%を保有している。経営危機に陥ったシアトル・マリナーズをポケットマネーで購入した人物として知られるほか、百人一首のテーマパーク建設に21億円、京都大学医学部に70億円を個人で寄付している。時価総額10兆円企業の10%の株を個人で所有している人物でなければ、マネはできない豪快さだ。


By Master K/益田 慶


100年企業 39 産業別100年企業 非鉄金属業界

鉄以外の金属、金、銀、銅、アルミニウムなどの精錬や製品化を営むのが非鉄金属業界だ。銅線を中心とした電線ケーブル、光ケーブルのファイバー樹脂などもこの業界の範疇に入る。大きく分けると、総合非鉄、電力用電線、アルミなどに分類できる。ともに住友、三井、三菱、古河などグループ系列企業がリーディングカンパニーとなっている。


業界で最も歴史があるのが住友系だ。住友金属鉱山は1590年、住友電気工業は1897年の創業である。資源の保有量では日本企業トップの「住友金属鉱山」は、戦国時代に京都で生まれた銅製錬・銅細工の「泉屋」をルーツとする。つまり、住友グループの源流だ。別子銅山の採掘権を獲得した住友合資会社から別子鉱業所が分離して生まれた。中国に生産拠点を構える鉱山開発、製練のほか電子・機能性材料などの生産を行なう総合非鉄金属メーカーである。


電線の国内シェア首位の「住友電気工業」は、住友本店が開設した「住友伸銅場」の電線製造部門が独立して誕生した。自動車部品、電子部品、光ファイバーなどの製造で大きなシェアを占めている。同じ住友伸銅場をルーツとする鉄鋼メーカー「住友金属工業」が三井住友銀行、住友化学とともに"住友御三家" と称されるのに対し、こちらは、日本電気(NEC)、住友商事とともに"住友新御三家"の一角を占めている。


その住友金属工業とシリコンウエハー事業(ICチップの製造に使われる半導体でできた薄い基板の製造)で統合した「三菱マテリアル」は、総合非鉄のトップ企業。1871年、三菱商会前身の九十九商会が紀州新宮藩の炭鉱を租借し、鉱業部門に進出したのが起源だ。のちに「三菱鉱業セメント」と「三菱金属」が合併して誕生したのが三菱マテリアルだ。子会社の「三菱電線工業」も100年企業。電線業界大手6社のうちの1社で、2005年に三井グループの「フジクラ」と合弁企業を設立した。三菱-三井-住友といったグループの壁は、ゆるやかになっているようだ。


三井グループには「三井金属鉱業」がある。1874年、三井組が神岡鉱山の経営権を取得して生まれた三井鉱山から分離したのが同社だ。金属製練、電子材料、自動車部品製造に強い。


三井系では、ほかに電線御三家(ほか住友電気工業、古河電気工業)の「フジクラ」がある。携帯電話やデジカメに欠かせないプリント基板は世界第2位、光ファイバー第3位の企業だ。タイに主要工場を置き、タイで一番多くの雇用をしている日本企業である。同社の歴史は、創業者である藤倉善八が1885年、神田淡路町で絹・綿巻線の製造に乗り出した時に始まる。1910年に「藤倉電線」を設立、1992年に現社名に改称した。また2005年に電力システム事業を「古河電気工業」と統合した。中国、ベトナム、インド、マレーシアなどアジア各国に事業所を構えている。


電線御三家を担う古河電気工業は1884年、古河鉱業の一部門として設立された本所溶銅所をルーツとする100年企業だ。1920年に現社名となり、古河鉱業から独立した。主要取引先にJRやNTTがあり、30社ほどのグループ企業がある。

By Master K/益田 慶


余談だが、銅地金などの価格は、ロンドン金属取引所の相場に連動して決まる。ドル建なので為替相場に大きく左右されるのは当然のことながら、近年の資源高の影響で生産原価が高騰し、収益を圧迫している。海外から安い資源を輸入し、工業製品の材料や素材に加工して提供する日本企業にとっては逆風となっている。


100年企業 38 産業別100年企業 鉄鋼業界・セメント業界

基礎原料を仕入れて加工して製品をつくる「素材型産業」を代表するのが鉄鋼業界だ。鉄をつくるには高炉が必要なので「装置産業」とも表現できる。また製品の価格はよりグローバル化し、原料の調達から製品の輸出まで、為替相場の影響をモロに受ける業界でもある。


鉄鋼業界は、かつて5強と呼ばれたが、現在は「新日本製鐵」と「JFEスチール」の2強。2006年に世界最大の鉄鋼メーカー「アルセロール・ミッタル」が誕生し、日本の鉄鋼メーカーの買収を目論んでいるようなので、2強は財務強化を図り、グループ化を進めている。


新日本製鐵の創業は幕末。1857年、釜石で日本初の洋式溶鉱炉の出銑に成功。1880年に釜石製鐵所が営業を開始した。これを母体として5社が合併して誕生したのが新日本製鐵だ。2002年にNKKと川崎製鉄が合併して誕生したJFEスチールと対抗するために、業界第3位の神戸製鋼所と提携する一方で、業界4位の住友金属工業の大株主となって、ゆるやかなグループを形成している。


1905年、鈴木商店が小林鉄鋼所を買収して誕生したのが「神戸製鋼所」。1911年には鈴木商店から独立。兵庫県を基盤に成長し、鉄鋼部門、溶接部門、銅・アルミ部門で約50もの関連会社があり、神戸製鋼グループを築いている。2001年に新日本製鐵と鉄鋼事業で包括的提携を結び、新日本製鐵、神戸製鋼所、住友金属工業の3社による提携戦略を進めている。


1897年に創業した住友伸銅場を起源とする「住友金属工業」は、住友グループの中核企業。三井住友銀行、住友化学とともに住友御三家と称される。主要株主には、住友商事とともに新日本製鐵が名を連ねている。


石灰石や粘土を主原料とするのがセメント業界。かつては小野田セメント、日本セメント、三菱鉱業セメントなど5グループがしのぎを削ったが、現在は太平洋セメント、住友大阪セメント、三菱マテリアルの3グループに集約されている。最大手「太平洋セメント」のルーツは、1881年に山口県で創業した「セメント製造会社」。のちに「小野田セメント」「秩父小野田」を経て「日本セメント」と合併し、現在に至る。


業界第2位の「住友大阪セメント」は、住友グループ唯一のセメントメーカー。1907年創業の「磐城セメント」をルーツとし、1994年に「大阪セメント」と「住友セメント」が合併して誕生した。原料を自社で調達するため鉱山経営も続けている。


業界第3位の「三菱マテリアル」は、銅、鉛、アルミなど非鉄金属メーカーの最大手でもある。1871年、三菱商会前身の九十九商会が紀州新宮藩の炭鉱を租借し、鉱業部門に進出したのを起源としている。三菱はのちにセメント事業に進出し、「三菱鉱業セメント」と「三菱金属」が合併して誕生したのが三菱マテリアルだ。その三菱マテリアルと総合化学メーカーの「宇部興産」の共同販売会社が「宇部三菱セメント」だが、宇部興産はセメント業界でも第4位のシェアを占める大手。同社は1897年の匿名組合沖の山炭鉱組合設立を創業とする「100年企業」である。


また、三菱マテリアルは2004年、前出した神戸製鋼所と鋼管事業を統合することで合意。神戸製鋼が 55%、三菱マテリアルが45%を出資して設立した「コベルコ マテリアル銅管」は、銅精錬から加工、販売までを一貫して行う日本最大の企業となった。


1872年、麻生太吉が炭鉱を採掘したのをルーツとする「麻生ラファージュメント」は、旧麻生財閥の中核企業「麻生セメント」とフランスのセメント大手「ラファージュ」が合併した企業。世界最大手のラファージュ社のノウハウがどこに活かされるのかに注目。

By Master K/益田 慶


100年企業 37 産業別100年企業 化粧品・家庭用製品業界

化粧品や洗剤、シャンプーなどを製造する企業は、広くいえば化学メーカーだが、小売りの取扱アイテムから「化粧品・家庭用製品業界」というくくりで紹介する。一部医薬品の扱いもあるが、主力ではないので製薬メーカーとは区別する。


国内第1位の化粧品メーカー「資生堂」は、1872年に日本初の調剤薬局として銀座に誕生したのが起源だ。創業者の福原有信は、西洋薬学を学んだ後、海軍病院薬局長を経て23歳で開業。それまで日本になかった「医薬分業」という考え方をいち早く導入した。福原は1888年、設立発起人として「帝国生命保険」(現朝日生命)の設立に関与し、社長も務めた。同年、日本初の練り歯磨き、1897年に化粧水を発売。


医薬部門からのスタートであったが、1917年に化粧品部を独立させ、現在の基盤を築いた。のちに洗濯用洗剤事業、歯磨事業から撤退。医薬品製造でなく、競争の少ない化粧品部門を特化させたことと巧みな宣伝が成功をもたらした。現在は、中国を中心にアジアに進出し、高級ブランドとしてアジアの女性に人気を博している。


1887年創業の「花王」は、創業者の長瀬富郎が日本橋馬喰町に開業した「長瀬商店」がルーツ。1890年、国産ブランドで初めてとなる高品質な化粧石鹸を発売。「花王」は、洗剤・トイレタリー業界でトップシェアの化学メーカーだが、化粧品業界でも前出した資生堂に次ぐ第2位。


これは2006年に「カネボウ化粧品」を子会社化したことで化粧品分野のシェアが増えたからだ。ほかに生理用品、入浴剤、おむつなど、各アイテム別に有力商品を展開するマーケティング能力に長けている。連結決算で1兆2300億円の優良企業。近年では特定保健用食品の家庭用油「エコナ」、同じく特定保健用食品指定の飲料「ヘルシア」など健康食品事業が成功し、食品業界をして「その手があったか」と悔しがらせている。

その「花王」と洗剤・石鹸分野で競合するのが1891年創業の「ライオン」だ。初代小林富次郎が神田柳原河岸に石鹸とマッチの原料取次ぎの店を開いたのがルーツ。その後、1893年に化粧石鹸「高評石鹸」と洗濯用石鹸「軟石鹸」、「絹練石鹸」を発売、1896年に粉ハミガキ「獅子印ライオン歯磨」を発売し、石鹸と歯磨きの製造メーカーとなる。また頭痛薬「バファリン」の取り扱い、中外製薬から事業を譲り受けたドリンク剤「グロンサン」「新グロモント」「中外胃腸薬」などの販売など医薬品メーカーの側面も持っている。

最後に「資生堂」「花王」「ライオン」より歴史のある老舗2社を紹介しておこう。1615年、日本橋に創業した「柳屋本店」は化粧品業界の最古参。江戸時代は「紅や」の屋号で髪にぬる「柳清香油」を発売し、繁盛したという。名前が全国に知られるきっかけとなったのが、1920年に発売した「柳屋ポマード」だ。男性のリーゼントやオールバックスタイルに欠かせない整髪料となった。また、1953年発売の「柳屋ヘアトニック」は育毛ブームを先取りしたヒットアイテムとなった。それらはロングセラー商品として現在も販売されているほか、男女用ヘアケア、スキンケア製品も発売している。

女性用の「紅」を専門に扱い、200年近く経つのが「伊勢半」。1825年、江戸の小舟町に誕生した、江戸で最初の紅製造問屋「伊勢屋半右衛門」が起源だ。現在は伊勢半グループを形成し、メイク、ネイル、リップなど化粧品を幅広く扱っている。伝統的な紅は、「伊勢半本店」から「小町紅」のブランドで販売されている。


By Master K/益田 慶


100年企業 36 産業別100年企業 繊維業界

明治時代に入って逸早く工業化に進んだのが繊維業界だ。生糸の生産や織物の技術、生産者-工場-問屋-呉服店といった流通ルートも江戸時代にできていたことから、容易に工業化に移行できた。ひとくちに繊維産業といっても、現在では合成樹脂や化成品も生産しており、化学業界、バイオ業界との垣根は曖昧になっている。


1882年創業の「東洋紡績」は、実業家・渋沢栄一の紡績事業計画による国策によって日本初の本格紡績工場として大阪に誕生した。当初は「大阪紡績」としてスタートしたが、1914年に「三重紡績」と合併し、東洋紡績となった。レーヨン、アクリル繊維、ポリウレタン繊維など、常に新たな事業に進出し、化成品、機能材、バイオ・メディカルへと事業領域を拡大した。2001年以降は、非繊維部門の売上高が50%を超えている。売上では後発の「テイジン」「東レ」に大きくリードされている紡績界の名門は、バイオ事業に活路を見いだしている。


1888年、岡山県倉敷市の資産家・大原家の出資を受けて誕生した倉敷紡績、通称「クラボウ」も大阪に本社を構える大手メーカー。繊維関連、化成品、環境制御製品に加え、不動産業やレジャー事業も手がけている。


1889年に「尼崎紡績」としてスタートし、いくつかの合併を経て誕生したのが「ユニチカ」だ。同社も繊維事業だけでなく、高分子事業、環境事業など異分野に進出している。ちなみに同社の子会社に年商34億円の「寺田紡績」(大阪)があるが、なんとユニチカの株式の76.1%を所有している。つまり実質的なオーナーだ。寺田紡績は、旧寺田財閥の寺田利吉が設立した企業。すでに紡績事業から撤退し、タオル及び関連商品の製造販売、合成樹脂製品・原料及び成形品の製造販売を営んでいる。株主配当額が気になるところだ。


1892年創業の「シキボウ」は、伝法紡績、福島紡績、敷島紡績と社名を変更し、現在に至る。同社も大阪のメーカー。産業用資材の製造・販売(製紙用ドライヤーカンバス、フィルタークロスなど)や先端複合材料の製造・販売、不動産業にも進出している。


1896年創業の「富士紡績」は、持株会社制に移行し、社名を「富士紡ホールディングス」に変更。原材料の製造から製品の販売、または商品開発部門までフジボウグループとしてシナジー効果を上げようとしている。国内外に生産工場を展開し、非繊維事業にも力を入れている。


1907年創業の「日清紡績」は根津財閥の資本を得て、のちに「電力王」と呼ばれた福沢桃介が設立した。現在、繊維部門からブレーキ製品、紙製品、バイオテクノロジー部門に軸足が移っている。同社には日本経済界の重鎮が多くかかわっている。創業者の福沢桃介は鉱山、発電、鉄道事業で財を築いた人物。特に関西電力と中部電力の前身となる「大同電力」を設立したことで知られている。


1919年に社長に就任した宮島清次郎は、東京紡績の専務であったが、尼崎紡績に吸収合併されると退社し、日清紡績の専務として迎えられた中興の祖。「日本製紙」の前身のひとつ「国策パルプ」の社長、日本工業倶楽部理事、根津育英会理事長などを務めた。宮島の後継者として社長に就任した桜田武は、日本経済団体連合会(日経連)会長も務めている。


どの「100年企業」も繊維メーカーから、繊維を核にした付加価値の高い化学メーカーへ脱皮しつつあることがわかる。多角化事業が高収益につながるか、それとも足を引っ張るのか。1887年創業の「カネボウ」が食品事業、化粧品事業を拡大した挙げ句、粉飾決算から解散に至った事件は、繊維業界の教訓になっていることだろう。


By Master K/益田 慶


100年企業 35 産業別100年企業 建設業界後編

準大手・中堅ゼネコンにも「100年企業」は多い。大阪に本社を構える「銭高組」は1705年、錢高林右衛門が棟梁として作業員を集め、本願寺尾崎別院の建立に携わった事業をもって創業としている。明治に入ると、大阪・東京を中心に紡績工場、鉱山施設、兵舎建築など数多く施工して業容を拡大。現在に至るまで創業の銭高家が社長を務める。主な施工実績は、東京大学本館、大阪合同庁舎、本州四国連絡高速道路瀬戸大橋、関西国際空港旅客ターミナルなど。


1871年、鴻池忠治郎が大阪で建設業と運輸業を個人創業したのをルーツとするのが「鴻池組」。同じ名前だが、鴻池財閥とは無関係だ。1898年に淀川改良工事を手がけ、名前をあげた。1945年、運輸部門を「鴻池運輸」の名で分社化。主な施工実績は、六甲山トンネル、東京国立博物館、名古屋市立美術館、損保ジャパン本社ビルなど。4代目社長で現会長の鴻池一季氏までは、創業家の鴻池家直系子孫が社長を続けてきた。

By Master K/益田 慶

学校・医療・福祉関連施設に強い「戸田建設」は1881年、大工の戸田利兵衛が東京・赤坂で「戸田方」の屋号で建設請負業を開始したのが始まり。早くから鉄骨や鉄筋コンクリート造りに取り組み、1910年にはロンドンで開かれた「日英博覧会」の工事を受注、1912年には英国風ゴシック様式を採用した慶応義塾大学記念図書館(三田)を手がけた。戸田建設は堅実経営で知られる。金融支援を受けたことのない無借金経営から、格付づけは「準大手A」。主な施工実績は、早稲田大学大隈講堂、日経新聞東京本社ビル、愛知県庁舎、北里研究所病院など。


戸田建設と業務提携を結んでいる「西松建設」も「準大手A」の格づけをもらっている。創業は1874年。西松桂輔が土木建築請負業を創業。トンネルの工法や地盤改良など土木技術に定評がある。上信越自動車道、関越自動車道、九州自動車道など道路やダムを数多く手がけている。


「ダムのハザマ」と呼ばれるほどダム建設に強い「ハザマ」は1889年、福岡県で間猛馬が開業した「間組」が起源。その後、東京に本社を移し、黒部ダムや御母衣ダムなどを手がける。超高層建築物件では、マレーシアのペトロナス・ツイン・タワーの建設で知られる。ピーク時には大手ゼネコンに迫る売上をあげていたが、バブル期の経営失敗により多額の債務を負い、経営再建中。


そのハザマが資本提携したのが、1873年創業の「安藤建設」。創業者の安藤庄太郎が、煉瓦建築は新時代の建築であると見通しを立て16歳で独立。東京に瓦建築業「安藤方」を創業したのが始まり。明治初期に鉄骨、鉄筋コンクリート造りを手がけ、全国業者に成長。業界に先駆けて大型コンクリート板によるプレハブ工法を開発した。中高層ビルに強い。


その安藤建築が業務提携している「東亜建設工業」は、浅野財閥総帥・浅野総一郎が1908年に鶴見・川崎地区の海面埋立てを目的に組織した「鶴見埋立組合」が実質的な創業。その後、事業を受け継ぐ「鶴見埋築会社」を経て現社名に変更。海洋土木に強く、レインボーブリッジは同社が出かけた。


大阪を地盤とする「淺沼組」は、1892年に淺沼幸吉が奈良県大和郡山市に「淺沼組」を創業したのが始まり。庁舎、商業施設、集合住宅、道路など幅広く手がけている。創業家の淺沼家から社長が登場している創業オーナー企業のひとつ。官公庁建設に実績があり、主な施工実績は、久留米市新庁舎、東京湾アクアライン、大阪市中央体育館、横浜ポートサイド地区再開発など。


1896年、広島県呉市で水野甚次郎が創業した「水野組」を前身とするのが、海外大型工事で有名な「五洋建設」だ。明治・大正時代に呉や佐世保など海軍の工事を受注して成長。1961年にはスエズ運河改修工事を受注。広島から東京に本社を移し、現社名に改称。カタール、イラン、シンガポール、マレーシアなど海外で海洋土木を手がけている。


100年企業 34 産業別100年企業 建設業界前編

元請負者として各種の土木・建築工事を一式で発注者から直接請負い、工事全体のとりまとめを行なうゼネコンから紹介しよう。受注高1兆円を超える大手5社(鹿島、清水、大成、大林、竹中)はすべて「100年企業」だ。


最も古い歴史をもつのが、1610年に初代・竹中藤兵衛正高が名古屋で創業したのを起源とする竹中工務店だ。大手5社のうち唯一の非上場企業。竹中藤兵衛正高は織田信長の元家臣で、神社仏閣の造営を得意とした。明治に入り、欧米の建築技術を導入。1899年、14代竹中藤右衛門が神戸に進出したことが、飛躍のきっかけとなった。


世界に開かれた神戸港を核に神戸の都市化が加速し、建築物の請負いが急増したのだ。会社組織にしたのも早く1909年。1923年には本社を大阪に移した。主な施工実績は、東京タワー、国立劇場、東京ドーム、新丸ビルなど。同社は自社が手がけた建築物を「作品」と呼び、作品至上主義を貫いている。社長は代々竹中家から出ている。大阪を基盤とすることから、関西経済界では旧三和銀行の色が強い。


清水建設は1804年、日光東照宮の修理に参加した大工の清水喜助が江戸・神田鍛冶町で創業したのが始まり。腕が見込まれて得意先が増え、「清水屋」の看板をあげて棟梁となる。江戸時代には、江戸城西の丸の再建工事や、井伊直弼から横浜の外国奉行所の建設を請負っている。これが「清水屋」が発展する契機となった。幕府御用達の工事が増えたのだ。明治に入ると、渋沢栄一の助言を受け、創業家は経営を離れ、会社として数多くの建造物を請負うようになり、建設業界のトップの地位を築く。主な施工実績は、大阪国際空港ターミナルビル、シャープ亀山工場、横浜スタジアム、ヒルトン東京ベイなど。

1840年創業の鹿島建設は、大工の鹿島岩吉が江戸で開業したのが始まり。明治に入って「鹿島組」と改称。鉄道建設、ダムや発電所の受注で規模を拡大した。完成まで17年の歳月を要した難工事「丹那トンネル」は有名。1990年に退任した8代目社長鹿島昭一までは、創業の鹿島家が歴代社長を輩出してきた。6代社長の渥美健夫と7代社長の石川六郎は、鹿島家の娘婿として鹿島に君臨した名物経営者であった。主な施工実績は、青函トンネル、西武ドーム、フジテレビ本社ビル、国立新美術館など。超高層ビル事業を得意とする。関連会社の数が多く、鹿島グループを築いている。

大成建設のルーツは、1873年に大倉喜八郎が設立した大倉組商会だ。したがって旧大倉財閥系列。大成建設に改称したのは1946年。超高層ビル、ダム、橋、トンネルなど大規模な建築土木工事を得意とする。近年では、アラブ首長国連邦のパーム島の海底トンネル工事、ボスポラス海峡横断鉄道トンネル工事の受注によって海外でも注目を集めた。


大林組は、1898年に大林芳五郎が大阪で創業した土木建築請負業「大林店」がルーツ。竹中工務店と同じ大阪を基盤とする企業だが、1970年に東京本社、大阪本店に改めた。建築新技術の開発に定評がある。主な施工実績は、大阪毎日新聞本社、甲子園球場、六本木ヒルズ森タワー、表参道ヒルズなど。歴代社長は3代まで創業家の大林家から誕生したが、以降は輩出していない。現会長大林剛郎氏は3代目社長・会長の次男。副社長、副会長を経て現職に至るが、社長は経験していない。大阪商工会議所副会頭、関西経済同友会常任幹事も務めている。


建設業界の市場規模は約60兆円。「100年企業」の大手5社は海外進出を図る一方で、準大手との業務提携や吸収など淘汰・再編が進むであろう。

By Master K/益田 慶


100年企業 33 産業別100年企業  百貨店編・後編

地方都市にも創業100年を越える老舗の百貨店がある。「松坂屋」や「大丸」のように中央に進出して全国区になった企業がある一方、あえて全国展開しなかったからこそ「100年企業」になりえた百貨店もあるだろう。


1615年に後藤家が名古屋で創業した「十一屋呉服店」をルーツとするのが、名古屋の老舗「丸栄」だ。戦中の企業整備令に基づく百貨店整理統合により、同じく名古屋に本店を構える「三星」と合併し、「丸栄」が誕生。「三星」のオーナーは京都で百貨店「丸物」を経営する中林仁一郎で、彼が「丸栄」の経営にも関与したが、経営不振から1995年に地元名古屋の企業グループ「興和」が経営再建に加わった。


「興和」は、医薬品、繊維、商社など幅広く手がける「100年企業」で、現在も筆頭株主だ。名古屋といえば「松坂屋」の本拠地で、百貨店の激戦区だが、「丸栄」はターゲットを10代後半から20代前半に絞り、松坂屋との差別化に成功している。


1749年創業の「矢尾百貨店」は、埼玉県秩父市唯一の百貨店。百貨店業界は呉服店を前身とする企業が多いが、「矢尾百貨店」のルーツは初代・矢尾吉兵衛が始めた酒造業だ。「秩父錦」ブランドで知られる酒蔵メーカー「矢尾本店」は250余年続く老舗として名高い。「矢尾百貨店グループ」には、ほかに家具店、メモリアルホールがある。こちらは地元密着のグループ企業として生き残る戦略をとっているようだ。

鹿児島、宮崎に店舗を構える百貨店「山形屋」は1751年創業。地元密着型百貨店として生き残り、店舗ごとに一企業として独立している。創業者は、山形県庄内地方の北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て鹿児島城下で最初の呉服店としてスタートしたのが起源。屋号は創業者の出身地だ。「山形屋」は神戸以西の地域では最古の百貨店で、「大丸」と肩を並べるほどの伝統がある。坪あたりの収益率は高く、事実上「ひとり勝ち」を続けてきた。また子会社の「山形屋ストア」がスーパーを展開している。


1806年、田中丸善吉が佐賀県牛津で創業した荒物商「田中丸商店」を起源とするのが、「佐賀玉屋」(佐賀市)と「佐世保玉屋」(長崎県佐世保市)だ。九州では鹿児島の「山形屋」に次ぐ歴史がある。両社とも創業家の子孫がオーナーを務めている。かつては福岡市や北九州市にも店舗を持っていた。「佐世保玉屋」は長崎に支店を持ち、子会社が伊万里で「伊万里玉屋」を開いている。


仙台にも老舗百貨店がある。1819年創業の「藤崎」だ。初代・藤崎三郎助が仙台で木綿商を始めたのがルーツ。江戸時代に仙台の富豪となり、明治に入り、「藤崎呉服店」を開業。現在、仙台を中心に東北地方でギフトショップやスーパーも展開している。現社長の藤崎三郎助氏は7代目にある。


中国・四国地方最大の百貨店グループである「天満屋」の創業は1829年。多くの女子マラソン選手を輩出している女子陸上部を抱えることでも有名だ。初代・伊原木茂兵衛が現在の岡山市で「天満屋小物店」を開いたのが始まり。直営店は岡山県、広島県にあり、グループ会社が米子市、高松市に「天満屋」ブランドの店舗を運営している。百貨店以外にスーパー、ホテル、人材派遣業などを傘下に収める企業グループを築いている。売上は連結で約1736億円あげているが非上場。創業者一族の伊原木家が同族経営を続けている。

山梨県甲府市の「岡島百貨店」は1843年創業。茶業と呉服業からスタートしている。2002年には「三越」と業務提携。ホームセンターの経営のほか「ケーズデンキ」とFC契約を結び、2店舗を運営している。
こうして地方の老舗百貨店を見てみると、地元密着度を増していることがわかる。大手の進出によって競争が激化しているので、大手と業務提携し、伝統ののれんだけは守って活路を見出すのもひとつの方策だろう。


By Master K/益田 慶


100年企業 32 産業別100年企業  百貨店編・前編

百貨店業界の「100年企業」として、すぐに思い浮かぶのが「松坂屋」と「三越」だ。松坂屋は織田信長の家臣であった伊藤蘭丸が1611年、名古屋に呉服小間物商「いとう呉服店」を開いたのが起源。本来の屋号は「いとう屋」だが、1767年に江戸・上野にあった呉服店「松坂屋」を買収した際、すでに知れ渡っている江戸の屋号をそのまま使用した。松坂屋は戦後の一時期、三越、髙島屋をしのぎ、単独で日本一の売上を誇った。


創業家の伊藤家は、名古屋で銀行やホテルを経営するなど伊藤財閥を築き、長い間、松坂屋の経営権を握っていたが、1985年、16代伊藤次郎左衛門会長の死去にともない、副社長から会長に就任したばかりの大番頭格の鈴木正雄が社長に就任。創業家の17代伊藤洋太郎社長が代表権のない会長に棚上げされ、「松坂屋クーデター」と称された。当時、伊藤社長は、鈴木正雄会長がリベート事件に関与していたとして取締役会を招集して糾弾するつもりだったが、逆に鈴木派に反撃されて社長解任決議案を出された。以降、伊藤家以外の社長が経営者を務めている。そして記憶に新しいのが2007年に起こった「大丸」との統合劇。統合後の売上高は、当時一番だった「髙島屋」のグループ連結売上1兆427億円を抜く約1兆1,600億円となり百貨店業界の首位に立った。


「大丸」も1717年創業の「100年企業」。知名度はさておいて、売上は「松坂屋」より多く、一時期は「三越」との合併が噂されていたが、地域競合が少ないことから老舗同士の大型統合が決まった。両社の持株会社である「J.フロントリテイリング」の代表には、大丸・奥田務氏がCEO、松坂屋・岡田邦彦氏が会長として名を連ねている。ともに百貨店業界のリーダーだ。


この統合は、同じく江戸時代生まれの老舗「三越」と明治生まれの老舗「伊勢丹」の経営統合に大きな影響を与えた。「三越」は1673年、三井高利が江戸本町に呉服店「越後屋」を開いたのが始まり。「伊勢丹」は1886年、初代・小菅丹治が神田に「伊勢屋丹治呉服店」を創業したのが起源。どちらも「100年企業」だ。両社を運営する持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」の設立は2008年4月なので、今期の決算報告はまだだが、統合前の「三越」の売上(連結)7739億円、「伊勢丹」の売上(連結)7647億円を足せば、「松坂屋・大丸」を抜き、2008年度からトップに立つことになる。このように老舗百貨店の業界再編は激しい。


2005年、「伊勢丹」の連結子会社となった福岡の「岩田屋」も1754年創業の老舗だ。全国区の知名度は低いが、九州出身者には有名。こちらもスタートは呉服店だ。会社再建中の2002年、創業一族である中牟田喜一郎会長と中牟田健一社長が退任。中牟田一族は経営から手を引き、3年間の再建計画が終了した時点で伊勢丹の連結子会社となった。現在は、三越伊勢丹ホールディングスの傘下だ。


1869年創業の「松屋」も「伊勢丹」と業務提携した百貨店である。初代・古屋徳兵衛が横浜・石川町に「鶴屋呉服店」を創業したのが始まり。1899年、東京・神田の「松屋呉服店」を買収し、のちに屋号を「松屋」に改める。1970年代のオイルショック以降、経営難に陥り、再建の過程で伊勢丹と東武百貨店が支援に入り、伊勢丹とは業務提携を開始。しかし、三越と伊勢丹の経営統合により、松屋と伊勢丹の蜜月もあやしくなっている。伊勢丹が統合する三越の銀座店は、松屋銀座店の隣。銀座エリアで互いに地域一番店を競う松屋からすれば、伊勢丹が突然ライバルと結婚したのも同然。今後の関係は微妙だ。


一方、「松坂屋・大丸」に売上ナンバーワンの地位を奪われた「髙島屋」だが、こちらも老舗の「100年企業」だ。1831年、飯田新七が京都・烏丸松原で古着・木綿商「髙島屋飯田呉服店」を開いたのが創業。1898年に心斎橋に進出し、本社を大阪に移す。老舗最大手の中では数少ない独立系百貨店。東京店、横浜店、大阪店、玉川髙島屋など大型店舗が多いのが特徴だ。


By Master K/益田 慶


100年企業 31 産業別100年企業  中小専門商社編・後編

中小の専門業者に「100年企業」は多い。市場が小さくても、その中である程度のシェアを確保することによって今日まで継続して来られたのだろう。


富山県高岡市の「塩崎商衡」は、1740年に大工道具、仏具、銅器、金物を扱う「指物屋道具屋利兵衛」として創業したのがルーツ。高岡は古くから銅器の産地であったことから、明治に入り、銅器の製造・販売に乗り出し、戦後はアルミ鋳物製・家庭用鍋・釜などの扱いも開始。現在は計量・計測機器の専門商社として知られている。現社長の塩崎利平氏は八代目にあたる。


1790年に初代小倉久兵衛が、江戸・京橋南伝馬町で油蝋商「和泉屋」を創業したことを起源とするのが、「小倉貿易」だ。明治初期に日本橋に進出して「小倉久兵衛商店」と改め、麻・漁網船具商を専業として発足。以後、明治末期にかけて業容を拡げ、マニラ麻、ラミー麻など広く海外より輸入販売。大正時代に現社名に改め、現在はパルプや機械部品、プラスチック製品、生活用品の商社として展開している。


1798年、初代小林吟右衛門が、近江国(現滋賀県)で創業したのが「チョーギン」だ。「丁子屋」の屋号を用いたことから、小林の名とあわせ、丁吟(ちょうぎん)と呼ばれた。のちに彦根藩御用達商人となる。近江商人の躍進は続き、1831年、二代目小林吟右衛門が日本橋に織物問屋を創業。京都、大阪にも支店を出し、両替商も営んだ。その後、織物販売部門を分離し、今日の衣料品の卸と小売が始まる。現在、百貨店に洋服を卸しているほか、京都店の跡地と東京の所有地に「ホテルギンモンド」を建設し、経営している。


「日本紙パルプ商事」は紙の専門商社。初代・紙屋弥兵衛が1845年に京都に和紙商「越三商店」を開いたのが起源で、明治に入って京都府御用達となり、王子製紙とも取引を開始。その後、本店を東京に移し、いくつかの紙商社を吸収して拡大。1970年代に東証、大証とも上場。国内外に卸と加工、物流の一大ネットワークを築いている。


1854年創業の「森友通商」は、初代森友徳兵衛が徳島県より上京して、現在同社が建つ日本橋の地に荒物雑貨問屋「阿波屋」を開業したのが始まりだ。現在は日用品雑貨、医療用具、乾物食品の卸を手がけている。「問屋無用論」が浸透している今日、同社は中小規模の日用品卸問屋を集めてオンラインショップを立ち上げ、問屋の可能性を模索している。


1852年創業の「田中産業」は、黒船来航の1年前に初代田中与助が日本橋箱崎町で創業した麻船具問屋「十一屋与助商店」をルーツとする船舶機械商社。築地にマリンショップを経営し、関連会社がマリーナの管理やボートのメンテナンスなど船舶関連の事業を展開している。


1861年、増田善兵衛が現在の埼玉県で行商の行き返りに商売をする「持下り商い」を開始したことをルーツとするのが「掘田丸正」。明治に入り、日本橋大伝馬町に呉服問屋を開業。「丸正」の名で衣料品の卸と直営を展開し、のちに和装品の卸・小売企業「ヤマノグループ」の一員となり、2007年に「堀田」と合併。現在、和装品、洋装品、寝装品、健康関連商材等と貴金属・宝石等の卸売販売、意匠撚糸の製造販売を手がけている。


1862年、初代外村市郎兵衛有常が金堂村(現滋賀県)で布類の卸売業を開業したことを始まるとするのが和装問屋の「外市」だ。外村市郎兵衛は近江麻布や関西木綿を江戸へ、関東の衣服を京・大阪へ送った近江商人。現在、本社は京都市にあり、和装と洋装のアクセサリーや貴金属の問屋を営んでいる。京都には老舗呉服商社が多く、1867年に塚本喜左衛門が烏丸に創業した「ツカキ」も近江商人が開いた店が始まりだ。現在、ツカキグループとして和装、貴金、ウェディングドレスを手がけているほか、京都市内の不動産管理も行なっている。


By Master K/益田 慶


100年企業 30 産業別100年企業  中小専門商社編・前編

三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅などは日本を代表する総合商社だが、じつはこれらより古い歴史を誇る専門商社は多い。老舗の専門商社に共通する特徴は、そのほとんどが特定のジャンルに特化していることと、取引先が安定していることだ。紙の専門商社が多いことから、保守的な業界であればあるほど老舗は生き残りやすいという見方もできそうだ。


織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取った1560年。同年に創業した日用品・住宅設備機器の専門商社が岐阜市にある。「サンアイ岡本」だ。448年も続く企業があるとは驚きである。現会長と社長は岡本姓なので、彼らが創業者の子孫だとすれば、約450年間、岡本家がのれんを守ってきたことになる。日本にこういう企業、一族が存在することは国の財産といってもよいだろう。


安土桃山時代の1585年、初代西川勘右衛門数吉が現在の滋賀県近江八幡市で蚊帳や畳表などの農産品を中心に販売を始めた商社がある。その後、販路を広げ、江戸日本橋、大阪、京都に出店を持つに至り、西川庄六商店、西川商店と改組し、現在の「メルクロス」となる。甘味料など食品素材、寝装品、繊維原材料、工芸品、インテリア、ファッション雑貨、不動産管理など幅広い事業を展開している。こちらは「423年企業」だ。


和紙から洋紙まで紙の専門商社「小津産業」は1653年の創業というから、「355年企業」だ。4代将軍・徳川家綱の時代、小津清左衛門長弘が江戸・大伝馬町に紙商を開いたのが起源だ。小津はもともと松阪商人で、旧小津清左衛門邸は現在、三重県松阪市に「松阪商人の館」の名で資料館として保存・公開されている。


江戸時代の紙屋の半数は、松阪商人であったとされている。江戸十組問屋仲間には47軒もの紙屋が名を連ねていたが、なかでも小津清左衛門は一番組の筆頭格であった。明治に入ると紡績工場を買収し、「小津銀行」を創業するなど多角化を進め、財閥化の方向にあったが、洋紙問屋が台頭したことで洋紙部門を拡充し、紙の専門商社として生き残る道を選んだ。現在、6社からなるグループを築いている。


徳島県に総本店を構える「三木産業」は、1674年創業の化学品の専門商社。阿波国中喜来浦村(現在の総本店所在地:徳島県板野郡松茂町)で、三木家遠祖が天然藍の取扱いを始めたのがルーツだ。その後、代々家業を継ぎ、播州姫路、淡路洲本に販路を開き、さらに1789年には江戸日本橋にも店舗を構えた。それが現在の東京本社の所在地である。世界各国にネットワークを築き、グループ企業もある。


福島県の紙の専門商社「富久」は1685年創業。王子製紙、日本製紙、北越製紙など国内大手製紙会社に納品していることから、堅実な経営をしているようだ。「新生紙パルプ商事」も紙の商社だ。1692年創業の洋紙商社「岡本」と1889年創業の洋紙商社「大倉三幸」が2005年に合併して誕生した。初代・紙屋彌兵衛は江戸両国に店舗を借りて紙商を興し、再生紙「浅草紙」の行商よりスタート。その後、幕府の指名問屋となり、岡本商店、岡本と改組して今日に至る。


1712年創業の「国分」は、四代目国分勘兵衛宗山が土浦に醤油醸造工場を設け、「大国屋」の屋号で開業、同時に日本橋に店舗を開いたのが起源だ。現在は酒類・食品の卸売業、貿易業、パン粉の製造業、貸室業などを営んでいる。ちなみに現代表取締役会長兼社長の国分勘兵衛氏は、十二代目にあたる。1717年、徳川吉宗が将軍の時代に初代中澤彦七が江戸に酒・醤油仲買商「塗屋彦七」を開いたことを起源とするのが「ぬ利彦」だ。現在は酒類・食品をはじめ、OA機器も扱っている。現社長は九代目中澤彦七氏。オンラインショップ九代蔵や直営ギャラリーも経営している。

このように、名前は一般的に知られてなくても、100年以上続く中小の専門商社は、ほかにも多く存在する。


By Master K/益田 慶


100年企業 29 産業別100年企業  総合商社・専門商社編

「ラーメンからミサイルまで」といわれるように、ありとあらゆる商品を扱う総合商社。上位5社は、三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅だ。名前だけ見るとすべてが「100年企業」に思えるが、実はそうでもない。三菱商事は、三菱合資会社4代目社長・岩崎小弥太が1916年に事業部を分割して以降に誕生した。三井物産は、1876年に旧三井物産として設立したが、戦後の財閥解体で一時解体し、現在の三井物産は1947年の創業を謳っている。「伊藤忠商事」と「丸紅」は1858年、伊藤忠兵衛が行商を開始したことをもって創業としているので「100年企業」だ。住友商事は戦後の創業である。


準大手の「日双」は2003年、ともに100年の歴史を誇る「ニチメン」と「日商岩井」が合併して誕生。ニチメンが存続会社となっているので、ニチメンの前身である日本綿花の創業年1892年をもってしても「100年企業」である。日本綿花より3年前の1889年に兼松房治が神戸市で羊毛の輸入を始めたことをルーツとする「兼松」は現在、エネルギー、医薬品、食料、鉄鋼など幅広く扱う準大手の総合商社となっている。こちらも「100年企業」だ。創業者の兼松房治は、三井銀行大阪支店、堂島米紹介所を経て、1882年に住友財閥の大阪商船の設立に参加し、取締役となるが、1886年に辞任。翌年、「大阪日報」を買収し、「大阪毎日新聞」と改称し、今日の「毎日新聞」の基本をつくった人物としても知られている。


中堅・専門商社としては、森村商事、岡谷鋼機、長瀬産業、ユアサ商事、蝶理などが「100年企業」だ。「ノリタケ」や「日本碍子」「日本特殊陶業」などから成る世界最大のセラミックグループ「森村グループ」の中核企業である「森村商事」は1876年創業。旧森村財閥を牽引した商社で、商社では珍しく創業の森村家が代々社長を務めている。鉄鋼・機械の専門商社「岡谷鋼機」の起源は、江戸時代までさかのぼる。1669年に初代岡谷總助宗治が名古屋の、現在同社の本社所在地となっている場所で金物商「笹屋」を創業。1888年にはすでに輸入鉄の販売を開始していたというから、まさに鉄鋼の老舗である。現社長の岡谷篤一氏は創業者の子孫にあたる。


大阪に本社を置き、医薬品や写真材料を専門に扱う「長瀬産業」のルーツは、1832年に長瀬徳太郎が京都西陣で染料、澱粉、ふのりなどの販売を始めた「鱗形屋」だ。その後、大阪に本店を移転。かつては米国コダック社の日本総代理店を務め、日本コダックをグループ会社としていた。現在20数社から成る「長瀬グループ」を構成し、「長瀬薬品」や「イマジカ」を傘下に持っている。同社もまた創業の長瀬家が代々社長を務めている。


切削機械や制御機械の扱いで知られる「ユアサ商事」は、1666年に初代湯浅庄九郎が京都で創業し、1674年に江戸に出店している。現在はプラント事業、建設・土木など幅広く資材の調達を行い、「ユアサグループ」を結成している。繊維と化学品の専門商社「蝶理」も大阪に本社を置く老舗だ。1861年、京都西陣で生糸問屋として創業。人絹糸生産量の30%を取扱い、人絹糸業界最大の糸商となる。その後、本社を大阪に移した。バブル期の過剰な事業投資が裏目に出て慢性的な赤字経営が続き、当時の大口取引先である旭化成と東レの支援を受け、現在は東レが50.1%の株を有しており、東レの子会社化している。


同じく京都西陣で1890年に合成染料の輸入販売や、国産染料の開発を始めたのが「稲畑染料店」だ。創業者の稲畑勝太郎は、15歳でフランス留学し、帰国後、京都染工講習所の所長を務めた秀才。1895年には東京支店を開業し、その後、本社を大阪に移転。この稲畑染料店が「稲畑産業」に改称し、戦前に日本染料と住友化学工業と合併し、今日に至る。主要株主は住友化学だが、「住友」の名前を冠せず、創業稲畑家の子孫が現会長、社長を務めている。ちなみに1984年に医薬事業部を分離し、住友化学とともに設立したのが「住友製薬」である。


By Master K/益田 慶


100年企業 28 産業別100年企業  損害保険会社編

木造住宅が多いことから火災、そして地震が大きなリスク要因となる日本。もともと海運業の発展とともに明治時代に興ったのが日本の損害保険会社だ。「○○海上」と名のつく損保は、海上保険をメインにしていた名残である。日本の損保会社は、生保の関連会社や子会社として設立されることが多い。銀行、生保業界同様、合併を繰り返して今日に至る。また、財閥系を起源とする企業が多いことも共通点だ。


日本最初の損保会社は1879年に誕生した三菱系の「東京海上保険」だ。三菱グループの源流となる「日本郵船」創業の4年後だ。同社が東京海上火災保険となり、旧安田財閥系の「日動火災海上保険」と合併して2004年に「東京海上日動火災保険」が誕生した。現在、同社が収入保険料業界第1位である。東京海上火災が存続会社となって合併したので、1879年創業の「100年企業」になる。現在の親会社である持株会社の「ミレアホールディングス」も三菱グループ。ホールディングス社長の隅修三氏は、東京海上日動火災の社長を兼務している。


1887年に創業した「東京火災保険」が数度の合併を重ねて誕生した「安田火災海上」と日産グループの「日産火災海上」が2002年に合併して誕生したのが「損保ジャパン」だ。これに破綻した「大成火災海上」が吸収され、また「第一生命」の損保会社「第一ライフ損保」が加わり、同社は一気に業界第2位に浮上した。といっても、もともと旧安田火災は業界第2位をキープしていたので順当なところだが、現在「三井住友海上」が業界第2位につけている。損保ジャパンは1888年を創業年としているが、これは、安田火災海上の前身である東京火災保険の創業の翌年にあたる。1888年に正式に会社としてスタートしたということだろうか。どちらにしても東京海上火災と肩を並べる「100年企業」だ。


「日本興亜損保」の歴史も古い。1892年、大阪に「日本火災保険」が誕生。1896年、東京川崎財閥系の「日本海上保険」が誕生。よく似た名前で紛らわしいが、この二社が合併して「日本火災海上」が設立。2002年に「興和損保」と合併して誕生したのが「日本興和損保」だ。同社は日本火災保険の設立をもって創業としているので1892年創業の「100年企業」となる。


日本生命グループ「ニッセイ同和損保」は1897年の創業。ただし、当時は日生グループではなかった。のちに関西の岡崎財閥が設立した「神戸海上運送火災」に吸収され、さらに同社を含む4社が合併し、「同和火災海上」が誕生。同社の筆頭株主が日生だった。そして損保業界に進出した日生のグループ会社「ニッセイ損保」と合併して、2001年ニッセイ同和損保が誕生した。


東京海上火災と同じ持株会社の傘下にあるのが「日新火災海上」だ。起源は1908年創業の「帝国帆船海上」。1943年に現社名に改称。2006年、ミレアホールディングスの子会社となったことで、東京海上日動火災と同じグループとなった。


損保ジャパンと熾烈な2位争いを続けている業界最大手の「三井住友海上」は意外に歴史が浅く、存続会社である「三井海上」の前身にあたる「大正海上」が設立したのは1918年。一方、「住友海上」の起源は1893年創業の「大阪保険」。住友海上が存続会社になっていれば、問題なく「100年企業」だった。


ほかに大きな合併を挙げれば、「大東京火災」と「千代田火災」が合併し、トヨタ自動社が34%出資して2001年に生まれた「あいおい損保」がある。前者は野村証券が大株主となってスタートした損保。後者のルーツは「千代田生命」だが、2000年に破綻し、米国大手金融グループAIGに買収され、生保部門は「AIGスター生命」として営業している。


By Master K/益田 慶


100年企業 27 産業別100年企業   生命保険会社編

日本では、銀行の誕生とほぼ同じ頃に誕生した生命保険会社。老舗の生保は、国策として明治政府の意向を受けて誕生したものと財閥系に大別できる。そして銀行業界同様、吸収・合併・統合を繰り返して今日に至っている。


生保として最も古い組織は1880年、安田財閥総帥・安田善次郎が「安田生命」の前身である「共済五百名社」を設立したことに始まる。翌年、福沢諭吉門下の阿部泰蔵と三菱の正田平五郎が「明治生命」を設立した。阿部は慶応義塾大学塾頭から文部省に入省した官僚だった。正田も福沢に認められ、教師になったのち、三菱に入社して初期三菱の経営戦略を担ったエリートだ。


このように「安田生命」と「明治生命」が日本最古の生保だが、ご存じのように2004年、存続会社を明治生命とした「明治安田生命」が誕生。同社は明治生命の創業年1881年を採用しているので「100年企業」ということになる。明治生命は三菱グループ、安田生命は芙蓉グループ。旧財閥・企業グループの枠を超えた大型合併だった。


社名を変更せずに現在に至る生保の最古参が、1888年設立の「朝日生命」だ。旧古河財閥に属し、現在も日本通運や古河機械金属(旧古河鉱業)の大株主である。業界地図からすれば、古河銀行→第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行という流れがあることから「みずほフィナンシャルグループ」に近いものの、近年では「三菱グループ」と見なされることも多い。ちなみに朝日生命の前身である「帝国生命」の設立発起人は、「資生堂」創業者の福原有信で、設立5年後には帝国生命の社長に就任した。なお、老舗生保ではあるが、損保子会社を持っていない。


1889年に設立された「日本生命」は現在、生保業界第一の保険料収入を誇るビッグカンパニーだ。その子会社、関連会社、主要株主となっている企業は数えきれない。その起源は、多くの銀行設立に関与した弘世財閥・弘世助三郎が関西最初の生保として立ち上げたものだ。初代社長こそ関西経済界の重鎮、鴻池善右衛門に担ってもらったが、実質的には副社長の片岡直温(のちに若槻内閣で大蔵大臣に就任)と弘世助三郎ラインでスタートしている。


意外に古いのが1893年創業の「太陽生命」だ。もともと「名古屋生命」として創業されたもので、1908年に改称。1999年には「大同生命」と業務提携。一時は経営統合して「大同太陽生命」が誕生するのではないかと思われたが、両社の統括会社「T&D保険ホールディングス」が持株会社となり、大同と太陽はともにホールディングスの子会社となった。


その「大同生命」も歴史は古く、1902年の創業だ。朝日生命(現存する朝日生命ではない)と護国生命、北海生命の3社が合併して誕生。太陽生命同様、旧三和銀行系列。つまり関西に軸足を置くUFJグループだったわけだが、三菱グループとの合併により、結果として三菱グループに飲み込まれた。


1902年創業の「第一生命」は、当時としては珍しく非財閥系だ。創業者の矢野恒太は、日本生命、安田生命の前身である「共済生命」の設立に関与したのち、当時の農商務省保険課長を務めた人物。日本で初めて相互会社形式での保険会社を構想。こうして第一生命が誕生した。なお、「安田生命」の実際の設立は1894年。「共済五百名社」の運営に行き詰った安田善次郎が矢野を抜擢し、矢野と安田を中心に「共済生命」を興したが、矢野が経営陣と対立して退社している。


業界第3位の「住友生命」は、1907年の創業。名前からわかるように旧住友財閥が出資して誕生した会社だ。銀行、損保、資産運用分野とも「三井」と合併して「三井住友銀行」「三井住友海上」「三井住友アセットマネジメント」が誕生しているが、生保に関しては合併の見込みはないようだ。


By Master K/益田 慶


100年企業 26 産業別100年企業 都市銀行編

銀行の「100年企業」を調べていくと、江戸から明治にかけて潤沢な財力を得意分野に集中、あるいはリスクを分散させながら、財閥へと成長した現在の企業グループのおいたちが見えてくる。


金融機関には「金融機関コード」と呼ばれる、独自に割り当てられた4桁の番号がある。0001~0017は都市銀行、0116~0190は地方銀行、1001~1996は信用金庫といった具合にグループ化したうえで振り分けられている。では、0000は欠番なのかといえば、そうではない。1882年に設立された「日本銀行」に0000がつけられている。銀行の「100年企業」といえば、まず日本銀行の名をあげなければいけないだろう。


ここで「日銀は企業ではないじゃないか」と思われる人がいるかもしれないが、日本唯一の中央銀行である日本銀行は政府から独立した法人で、日本銀行法により資本金は1億円と定められている。そのうち政府が55%を出資し、残りは民間等の出資となっている。つまり、半官半民の企業なのである。日銀はジャスダックに上場しており、出資者には出資口数を証明する出資証券が発行されている。なぜジャスダックなのかといえば、東証では上場基準に満たないからだ。


金融コード0001を引き継ぐ存続会社が「みずほ銀行」だ。起源は三井組と小野組が設立した「三井小野組銀行」をベースにしてつくられた「第一国立銀行」。渋沢栄一が音頭を取って1873年に創業し、初代頭取も務めている。「国立」とついているが、財閥系企業による民間経営で、法律上では日本初の株式会社である。その後、何度も行名を変え、一度は三井銀行と合併したが、のちに分離。その後、存続会社の第一勧業銀行が富士銀行、日本興業銀行と統合し、現在のメガバンク誕生となった。第一国立銀行を創業とするなら、みずほ銀行は「100年企業」ということになる。


金融コード0009をもらっている「三井住友銀行」は、前出した「第一国立銀行」の創業の際に主導権を手放した三井が1874年に創業した私立「三井銀行」と、江戸時代に別子銅山の経営で財を成した住友家の個人経営による「住友銀行」(1895年創業)がルーツだ。もともとは三井銀行に金融コード0002が与えられていたが、0009の住友銀行が存続会社となったため、0002は消えてしまったことになる。どちらの創業を採用しても三井住友銀行は「100年企業」である。それにしても日本を代表する財閥系の三井と住友が、銀行分野だけとはいえ合併して「三井住友」と名前を連ねることを100年前に誰が想像しただろうか。


ちなみに、かつて0003をもっていたのは富士銀行だが、その前身は安田財閥の安田銀行であった。銀行設立は財閥でなければ実現できなかったのであろう。その富士銀行は3行の合併により前出した「みずほ銀行」となったので、0003もまた消えてしまった番号のひとつである。


意外に歴史が浅いのが三菱系。「三菱銀行」が設立されたのは1919年。その後、「東京三菱」を経て「三菱東京UFJ」となったのは周知のごとくだ。仮に「三井住友銀行」とUFJグループが手を組んでいたなら銀行再編はまた様子が異なっていただろう。「りそな銀行」のツールも歴史が浅く、野村財閥が「大阪野村銀行」を設立したのは1918年。のちに大和銀行を経てあさひ銀行を吸収し、りそな銀行が誕生。りそなの金融コード0010は、大和銀行の存続コードである。


こうして見ていくと、都市銀行の「100年企業」はあまり多くないことがわかる。銀行法の改定や相次ぐ吸収合併による業界再編が顕著にあらわれているのが銀行業界といえるだろう。


By Master K/益田 慶


100年企業 25 産業別100年企業 製薬会社編 後編

老舗の製薬会社には創業家が代々社長を引き継いでいく世襲制が多く見られる。鎮痛消痛炎薬「アンメルツ」やトイレ用芳香消臭剤「サワデー」でお馴染みの「小林製薬」は、創業者の小林忠兵衛が1886年に名古屋で創業した卸問屋「小林盛大堂」がルーツ。のちに日本の医薬品卸業界の中心地である大阪・道修町に進出、店名を「小林大薬房」と変え、大阪に本社を設置し、今日の「小林製薬」へと発展した。現会長の小林一雅氏と社長の小林豊氏は兄弟で、創業家の子孫。また、使い捨てカイロで知られる「桐灰化学」は子会社である。


ビタミン剤「ポポンS」や頭痛薬「セデス」で知られる「塩野義製薬」は、1878年創業。初代塩野義三郎が大阪・道修町に薬種問屋「塩野義三郎商店」を創業し、和漢薬を販売したのが起源。社名は名字の「塩野」に「義三郎」の「義」をつけたもの。塩野義三郎商店は1897年に欧米の商社と直接取引を開始するなど輸入洋薬の市場も開拓し、在阪メーカーの武田薬品、田辺製薬とともに相場を支配した。現会長の塩野元三氏は創業家の子孫。


1879年創業の「太田胃散」は、初代太田信義が日本橋で「雪湖堂」を創業し、胃腸薬「太田胃散」を発売したのが始まり。現在では韓国、台湾、シンガポールなどアジアでも販売している。創業の太田家が代々社長に就任し、現在の太田美明氏は創業者から5代目にあたる。


1887年創業の「浅田飴」は、堀内伊三郎が当時の東京市神田区富山町で、宮中侍医浅田宗伯処方の「御薬さらし水飴」を創製発売したのがルーツ。伊三郎から商売を引き継いで創業者となった堀内伊太郎が商品名を「浅田飴」と改称。「良薬にして口に甘し」のキャッチフレーズで広告を展開し、全国に浸透した。社名は長い間、「堀内伊太郎商店」を使い、「浅田飴」に変更したのは1994年。現在も創業オーナーの堀内家の子孫が社長を務めている。


1888年創業の丸石製薬は、医療用消毒薬、吸入麻酔剤・鎮静剤などの医薬品を専門とする在阪メーカー製薬会社。初代社長の井上治兵衛以降、井上家が社長を務めている。医療用目薬で国内シェア1位、一般用目薬で第2位のシェアを持つ「参天製薬」は1890年、創業者の田口謙吉が大阪北浜に「田口参天堂」を開業したのが始まり。創業から9年後、初期の成長を支えたヒット商品「大学目薬」を発売。初代製品の発売から100年以上が経過した現在でも、日本のロングセラー目薬としてそのブランドが引き継がれている。


1894年創業の興和は、「キャベジン」で知られる医薬品のみならず産業用素材や繊維事業、光学製品まで幅広く展開する企業グループ。名古屋に本社を構え、近年では名古屋観光ホテルの経営も担っている。「大日本住友製薬」の前身は、1897年に大阪で創業した大阪製薬。大日本製薬に改称し、その後、住友化学工業株式会社(現 住友化学株式会社)の医薬事業の研究、開発、製造部門と、住友化学の医薬品の販売総代理店であった稲畑産業株式会社の医薬販売部門を継承して、1984年に住友製薬となり、2005年に現社名となった。現在も本社は大阪にある。


胃腸薬「パンシロン」でも知られ、一般用目薬の国内シェア1位を誇る「ロート製薬」は、創業者の山田安民が1899年、大阪に「信天堂山田安民薬房」を開業したのが起源。胃腸薬「胃活」を販売し、大ヒットしたことで飛躍した。事業を引き継いだ長男の輝郎が「ロート製薬」を設立。現社長の山田邦雄氏は安民の曾孫にあたる。このロート製薬が筆頭株主となっているのが、1893年創業の「森下仁丹」だ。


創業者の森下博が大阪で薬種商「森下南陽堂」を開店。広告を重視した販売戦略を得意とし、1905年に発売した「仁丹」は広告の巧みさもあり、大きな利益を上げた。その後、「仁丹」は記録的なロングセラーブランドとなり、社名も「森下仁丹」に改称。この他にも製薬100年企業は多く、「トクホン」(1901年創業)、「内外製薬」(1902年創業)、「笹岡製薬」(1903年創業)などがある。


By Master K/益田 慶


100年企業 24 産業別100年企業 製薬会社編 中編

江戸時代から明治中期までに創業した「製薬100年企業」は必ずロングセラー商品を生み出している。また、一般用商品ではネーミングや広告戦略の巧みさも見逃せない。


1690年、大坂の高津で代々和漢屋を営んでいた伊藤長兵衛が漢方医から製法を習い、創薬したのが「七ふく製薬」の始まりだ。創業当初から便秘薬を専業とする老舗。同社の本社は創業と同じ場所に位置する。1717年創業の「小野薬品工業」も在阪製薬メーカーだ。徳川吉宗が将軍の時代、初代小野市兵衛が「伏見屋市兵衛」の屋号で薬種商を開いたのが起源。医療用専門の医薬品メーカーなので一般には馴染みが薄いが、東証・大証に上場している大手である。


「エスタックイブ」や「ハイチオールC」など市販向け医薬品で知られる「エスエス製薬」は、大正製薬、武田薬品に次ぐ業界第3位。1765年、漢薬本舗として東京・八重洲で創業したのが起源。かつては泰道グループが経営していたが、現在はドイツの製薬大手ベーリンガーインゲルハイムの日本法人が筆頭株主となっている。


医療用事業は2005年、後述する「100年企業」の久光製薬に譲渡された。同じ頃、創業したのが「天藤(あまとう)製薬」だ。江戸中期に天津屋藤助が丹波福知山城下で雑貨商兼薬種商を営んだことに始まる。社名には馴染みがなくても、痔疾患用薬のナンバーワン「ボラギノール」の製造会社といえばわかるだろう。「ボラギノール」は日本のロングセラー薬品のひとつである。


江戸時代の創業で忘れてならないのが業界最大手の「武田薬品工業」。1781年、初代近江屋長兵衞が、日本の薬種取引の中心地であった大坂・道修町で和漢薬の商売を始めた。薬を問屋から買いつけ、小分けして地方の薬商や医師に販売する小さな薬種仲買商店であったが、これがのちに武田薬品を中心とする企業グループに成長したのである。


幕末にさしかかる1847年、現在の佐賀県鳥栖市で久光仁平が「小松屋」という屋号を掲げ、漢方薬の製法を生かして製薬・売薬の第一歩を踏み出した。自ら調合した薬を馬の背に積み、徒歩で各地の村々へ売り歩いたという。これが「サロンパス」で名高い「久光製薬」のスタートである。朝鮮半島の薬の情報、技術が対馬本藩を経由してこの地域へ伝わったのだろう。


宿場である田代宿(現鳥栖市)では藩の積極的な奨励で「田代売薬」と呼ばれるほどに成長し、長崎街道を経て西日本各地に広まった。やがて「サロンパス」というロングセラー商品をもって同社は一気に躍進した。


1848年創業の「帝國製薬」(香川県)は一般に馴染みが薄いが、パップ剤の生産量世界一の会社だ。五代目当主・赤澤庄蔵が薬売買株を譲り受けて開業したのが始まりだ。同社の貼付剤は現在世界40カ国以上で販売されている。現在の社主・赤澤庄三氏は創業者の子孫である。


明治に入ると、龍角散(1871年)、広貫堂(1876年)、塩野義製薬(1878年)、太田胃酸(1879年)、小林製薬(1886年)、浅田飴(1887年)、丸石製薬(1888年)、参天製薬(1890年)、森下仁丹(1893年)、興和(1894年)、大日本住友製薬(1897年)、奥田製薬(1897年)、ロート製薬(1899年)、トクホン(1901年)、内外製薬(1902年)、笹岡製薬(1903年)などが相次いで誕生した。


「龍角散」(東京)の創業は1871年だが、同社の「日本ののどを守って200年」という企業コピーが示すように江戸時代中期より秋田・佐竹藩の家伝薬として伝えられてきた。江戸末期には、当主藤井正亭治が改良を加え、藩薬として処方・創製し、「龍角散」の名がつけられた。


家庭用配置薬のパイオニアといえば富山県。旧富山藩での配置家庭薬の製造と販売業者を指導管理した役所の廃止後、これを引き継いで1876年に誕生したのが広貫堂(富山県)である。配置販売は現在も主要な販路となっている。

By Master K/益田 慶


100年企業 23 産業別100年企業 製薬会社編 前編

本稿から「産業別100年企業」に入る。トップバッターは、江戸時代からすでに「薬種商」と呼ばれ、一般用医薬品の専業販売業者として、大きな産業となっていた製薬業界だ。製薬メーカーを核にして、逸早く製造工場、問屋、商社、運送、販売店舗など系列化が進んだ業界でもある。製薬会社には老舗企業が多いので、前・中・後編に分け、時系列に沿って紹介する。


現存する製薬会社で最も歴史のある企業といえば、鎌倉時代末に創業したとされる「三光丸本店」(奈良県)だ。1319年にはすでに現在「三光丸」と呼ばれている胃腸薬が創薬されていたようだ。創業から計算すれば「600年企業」である。当主の米田家は農業のかたわら「三光丸」の製造を副業とし、のちに織田信長の嫡男・信忠がこれを飲み、「妙薬」と称賛したと伝えられている。江戸時代に入ると配置売薬が始まり、奈良「大和売薬」は越中「富山売薬」に次ぐ勢力を広げた。明治時代に当時の米田家当主が、現在も機能している配置業者からなる販売組織を結成し、流通と販売を担っている。


社名にもなっている子供用生薬で名高い「宇津救命丸」は、豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が行われた1597年の創業。こちらは「400年企業」だ。宇津家の初代宇津権右衛門は、500年以上続いた下野の国(現在の栃木県)の国主、宇都宮家の御殿医として仕えていた。


しかし22代の国綱が秀吉の逆鱗にふれて国を追われたことで、権右衛門は1597年、下野国高根沢西根郷で帰農した。この地が同社の現在の工場所在地(栃木県塩谷郡高根沢町上高根沢)である。権右衛門は半農半医の家業を続け、村人の健康のために「金匱救命丸」を創製。この薬は近郷近在の人々に分け与えられ、その優れた効能が「宇津家の秘薬」と次第に評判となり、関東一円から 全国に広まっていった。


普及に一役買ったのが、江戸をはじめ各所の旅籠や造り酒屋などに置かれるようになったこと。つまり置薬として重宝されたのである。ちなみに現社長の宇津善博氏は、宇津家18代当主。宇津家は徳川家より歴史の長い名門家といえよう。


「宇津救命丸」が関東で抜群の知名度を持つ乳児薬であるのに対し、関西で知れ渡った乳児薬といえば「樋屋(ひや)奇応丸」の名が挙がる。製造会社は1622年創業の「樋屋製薬」。こちらは「300年企業」だ。


創業家である坂上家の初代忠兵衛が摂津国山本村より天満(現大阪市北区天満で、同社の本社所在地)に移居し、奇応丸を創製。屋号で社名にもなった「樋屋」の由来は、坂上中兵衛の家に近隣の家にはない「樋(とい)」があったからだとされている。現社長の坂上晴一氏は14代目。1781年創業の100年企業「武田薬品」に勤めたのち、樋屋製薬に入社し、老舗の社長となった。老舗が多い在阪製薬メーカーの中でも屈指の歴史を背負っている。


古くは「大阪の薬業御三家」(武田、塩野義、田辺)といわれた「田辺製薬」は、1678年に初代田辺屋五兵衛が大坂土佐堀で「田辺屋振出薬」を開いたことに始まる。その祖・田辺屋又左衛門は御朱印船を繰り出し、ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)に渡って交易し、様々な輸入薬種を持ち帰っている。その孫が「田辺製薬」の創業者五兵衛だ。田辺製薬は2001年、業界最大手の大正製薬との経営統合を発表したが、その3ヶ月後に白紙撤回した。2007年10月、三菱ウェルファーマを吸収し、「田辺三菱製薬」に改称した。グループ会社として、田辺製薬販売ほか国内外に30以上の系列会社がある。


田辺製薬が三菱グループとの統合に至る過程に着目してみると、もうひとつの「田辺製薬」の歴史が浮き彫りになってくる。十二代田辺五兵衛の次男で二代目・田辺元三郎は1901年、東京日本橋本町に薬種問屋「田辺元三郎商店」を創業。大阪本家とはまったくの別会社として発展し、1943年には「東京田辺製薬」に改称。1999年に三菱化学と合併し、医療事業を分社化して「三菱東京製薬」が誕生。2001年にはウェルファイド(吉富製薬+ミドリ十字が1998年合併)と合併し、「三菱ウェルファーマ」が誕生。これを吸収した田辺製薬は、100年前に分裂した「東京田辺」をも取り込んだということになる。


By Master K/益田 慶


100年企業 22 旧財閥系の100年企業 地方財閥 旧麻生財閥

九州の炭鉱王であった麻生一族は、現在もなお福岡県を中心に多岐にわたる事業を展開している。元外務大臣麻生太郎氏が「麻生セメント」の社長を務めた麻生財閥の御曹司であること、また母方の祖父が吉田茂であることはあまりにも有名だ。


麻生財閥は、幕末に現福岡県飯塚市に誕生した麻生太吉を起源とする地方財閥。明治に入ると、九州・筑豊地方の炭鉱開発に三井、三菱、住友など中央財閥の資本が押し寄せただ、地元には「筑豊御三家」と呼ばれる資本家がおり、いくつかの炭鉱を経営していた。その一人が麻生太吉だ。太吉は炭鉱業者として福岡で多くの採炭に携わり、炭鉱会社を設立。


開坑した炭坑を三菱や住友に譲渡しつつ資本を増やし、九州鉄道や九州コークス、九州電力の取締役や社長を務め、銀行も設立した。また政治家としても活躍した。太吉が炭鉱採掘事事業のために設けた個人事業「麻生商店」が誕生したのは1887年頃とされているが、同グループでは1872年を創業年としている。現在の「麻生グループ」の中核企業「麻生」は創業136年の「100年企業」となる。


麻生一族は炭鉱がいずれ廃れることを予見していたのだろう。太平洋戦争後、メイン事業を炭鉱からセメントへと切り替えることに成功したことが、今日の繁栄につながっている。炭鉱王・太吉が広げた炭鉱事業、電力事業、銀行事業、病院経営を受け継いだのが、太吉の孫にあたる麻生太賀吉である。祖父の経営する麻生商店に入社してすぐに社長となり、麻生鉱業と麻生セメントの社長を務め、のちに九州電力の会長も務め、九州財界の重鎮となる。この麻生太賀吉が吉田茂の娘と結婚し、首相となった義父を補佐するために福岡県から立候補し、政界にも進出。吉田茂の側近として政治資金を捻出したことはよく知られている。


さて、麻生グループの中核事業はセメント事業だが、「麻生セメント」は2001年に世界のセメント業界第一のラファージュ(仏)と合弁し、「麻生ラファージュセメント」に改称。現社長の麻生泰氏は麻生太郎氏の実弟。病院経営、環境事業、不動産業を営む「麻生」の代表も務めている。グループはほかに商社、教育事業会社など約40社を傘下におさめている。


筑豊の炭鉱で財を成した「筑豊御三家」のうち、麻生以外の二家にもふれておこう。安川家と貝島家だ。石炭販売からスタートし、実業家として名を馳せた安川敬一郎は北九州門司に拠点を設け、二男の松本健次郎とともに「安川松本商店」を開き、鉄道建設(筑豊線・伊田線等)、炭鉱経営、紡績業、製鉄業、学校経営にも参画した。安川が1907年、鉱山技術者の養成目的で設立した私立明治専門学校はのちに国に寄付され、現在の九州工業大学へと発展する。


また、経営していた炭鉱「明治鉱業」の電気用品の開発・製造を担うために1915年、北九州市に「安川電機」を創業。同社はまだ「100年企業」には満たないが、今日では産業用ロボットの製造で世界的に知られる企業で、同社は電機機械を核にした企業群から成る安川グループを国内外に築いている。


1918年には、「黒崎窯業」(現黒崎播磨)を創業。黒崎播磨は主力の耐火物事業では国内最大手の企業だ。安川一族は人材が豊富で、敬一郎の弟や息子たちも実業家として手腕を発揮した。中でも五男・第五郎は日本原子力研究所初代理事、日本原子力発電初代社長を務め、原子力業界に大きな影響力を発揮。また、九州電力会長、東京オリンピック組織委員会会長も務めている。炭鉱経営を振り出しに製造業に移り、財を築いた安川家も地方財閥のひとつといえよう。


炭鉱夫から炭鉱経営者に成り上がった貝島太助も「筑豊御三家」の一人である。小学校設立以外は、炭鉱業に専念したために炭鉱が廃れるとともに没落していった。「筑豊御三家」と呼ばれた地方財閥のうち、麻生グループと安川グループは石炭かに石油というエネルギーの転換期に炭鉱以外の産業に移行したことで今日も繁栄を続けているということだ。


By Master K/益田 慶


# 麻生太郎氏の母方の祖父が吉田茂であることは前述したが、吉田茂夫人(雪子)は西園寺内閣、山本権兵衛内閣の外務大臣、第一次大戦のパリ講和条約における全権大使・牧野伸顕の長女である。そして牧野伸顕は大久保利通の実子(三男)である。吉田茂自身の実父竹内綱は、元土佐藩士で後藤象二郎と並ぶ大物政治家・実業家である。自由党創立メンバーであり自由民権運動の旗手でもあった。さらに吉田茂の長兄・竹内明太郎もまた衆議院議員であり、小松製作所の創業者である。


100年企業 21 旧財閥系の100年企業 地方財閥 岡山・大原財閥、静岡・旧鈴与財閥

岡山県倉敷市で「倉敷紡績」(クラボウ)を経営する大地主の大原家に生まれた大原孫三郎は2代目社長として家業を発展させ、多くの関連企業を築いた。大原家は500ヘクタール(東京ドーム約107個分)の田畑を持ち、2500人もの小作人が働いていたというから、規格外の大地主であったようだ。


クラボウの創業は1888年。倉敷に住む三人の青年が紡績所の設立を企画し、地元の大地主大原家に支援を請い、孫三郎の父・大原孝四郎が社長となって一工場からスタートした「100年企業」である。現在は大阪市に本社を構え、繊維だけでなく、化成品、不動産、バイオ関連製品の製造まで手がける企業に発展しているが、そのスタートは倉敷市だ。倉敷紡績創業工場は現在、クラボウが経営するホテルを中心にした複合観光施設「倉敷アイビースクエア」となり、経済産業省の近代化産業遺産にも認定されている。


大原孫三郎は繊維事業以外にもいろんな事業に挑んだ。倉敷紡績創業メンバーの一人である小松原慶太郎が設立した倉敷銀行を改称して誕生した合同銀行(のちの中国銀行)頭取や中国水力電気会社(のちの中国電力)の社長も務めている。名高いのはレーヨンの国産化を目的に1926年に倉敷で創業された「倉敷絹織」。これが現在の化学メーカー「クラレ」である。


本社は東京と大阪に分かれてあるものの、登記上の本社は現在も同社の発祥の地である倉敷市に所在する。大原孫三郎は他に病院や研究所、学校を設立。また西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本で最初に誕生した「大原美術館」は孫三郎が資金を提供し、自らのコレクションを集めた美術館である。孫三郎のコレクションには目を見張るものがあり、モネ「睡蓮」、エル・グレコ「受胎告知」、ゴーギャン「かぐわしき大地」などの世界的絵画が倉敷にあること自体が奇跡だといわれている。


一方、静岡県清水市で多くの関連企業を展開する「鈴与」は、物流・運輸・倉庫業を営む企業だ。同社を核とする物流事業の関連会社、「鈴与商事」に代表される商品流通関連会社、「鈴与建設」がリードする建設・ビルメンテナンス関連会社、「清水食品」ほかの食品事業に加え、不動産事業、人材派遣業、保険業、スポーツ事業、ケーブルテレビ運営など多岐にわたる巨大ネットワークを築いている。「100年企業」鈴与の創業は1801年。初代鈴木与平が現在の清水港で船舶を使った物流業を始めたのが、国内外に広がる鈴与グループ130余社の関連会社のすべての起源である。鈴与は鈴木与平の名前を略した社名なのだ。


幕末には製茶を横浜に送る流通を引き受け、明治初期には郵便汽船三菱社(日本郵船の前身)の積荷取扱店となる。明治半ばには清水港開港場を仕切り、日本船舶や東京海上保険の代理店となって業務を拡大。6代目・鈴木与平は1929年に缶詰メーカー「清水食品」を創業、1933年にはガソリンスタンドを開店。1936年に鈴与商店(現鈴与)を設立し、「清水製薬」や「鈴与建設」など次々と設立し、静岡県を代表する総合複合企業へと発展していく。


近年では、Jリーグ「清水エスパルス」の運営会社エスパルスのオーナーとしても知られ、1998年に日本で初めてセルフ式ガソリンスタンドを開店させたパイオニアとしても名をあげた。また、2007年には静岡空港を拠点とするエアライン事業への参入を発表。2009年7月の就航を予定している。


鈴与は今もなお創業オーナー鈴木与平の子孫が経営する稀有な企業で、現在の社長である8代目・鈴木与平氏は、鈴与商事や清水食品の会長も務め、多くのグループ企業の取締役でもある。また、多くの関連企業が清水市に本社を構えていることも同グループの特徴でもある。鈴与が清水にこだわるのは創業の地であるばかりでなく、清水港という港によって発展した物流グループが核になっているからである。
なお鈴与は社員1000余人を抱え、売上高913億円を達成しているが、上場しておらず、2004年に持株会社鈴与ホールディングスを設立し、すべての企業はその傘下となっている。


By Master K/益田 慶



100年企業 20 旧財閥系の100年企業 地方財閥 名古屋・旧伊藤財閥、長野・旧片倉財閥

織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道は1611年(慶長16年)、新しい城下町になりつつあった名古屋に移り、名を源左衛門と改め、呉服小間物商「伊藤屋」の看板を掲げて商売を始めた。これが100年企業「松坂屋」の起源である。伊藤屋はその後、1768年に江戸に進出し、上野の松坂屋を買収して「いとう松坂屋」と改める。同店は、尾張徳川家、加賀前田家の御用達として名高く、また東叡山諸寺の法衣を独占販売するなど世間の信望も厚く、江戸の名所として浮世絵にも描かれた。名古屋では、尾張藩の御用達として藩財政にかかわり、明治維新後には伊藤為替方として公金を取り扱った。


伊藤家は1875年、大阪の「ゑびす屋呉服店」を買収して、「ゑびす屋いとう呉服店」を開業。第14代伊藤次郎左衛門は1881年、名古屋初の私立銀行「伊藤銀行」を設立。1910年には、会社を立ち上げ、名古屋・栄町に中京地区最初の百貨店「いとう呉服店」を開業。そして1925年、店舗を「松坂屋」に統一。1934年、「名古屋観光ホテル」を創業。伊藤銀行はのちに名古屋銀行、愛知銀行と合併して東海銀行となった。伊藤家は、戦前には松坂屋と伊藤銀行を中核にした伊藤財閥を築いた。名古屋観光ホテルは現在、「コルゲンコーワ」で知られる医薬品会社の「興和」が経営している。14代、15代、16代伊藤次郎佐衛門は、それぞれ名古屋商工会議所会頭に就いた。ちなみに現在の名古屋商工会議所会頭は松坂屋会長の岡田邦彦氏である。


ご存じのように松坂屋は2007年3月、大阪を地盤とする「大丸」と経営統合した。大丸もまた1717年に京都市で誕生した呉服店を起源とする「100年企業」の名門百貨店で、1717年に京都市で誕生した呉服店を起源とする「100年企業」である。同社は創業家である京都の下村家の個人商店からスタートし、いち早く近代化に成功した百貨店のひとつ。松坂屋との経営統合では、持ち株会社の本社は松坂屋銀座店に置くものの、経営の主導権は大丸側が握ることになった。余談だが、大丸現社長の奥田務氏は、元トヨタ自動車会長・前経団連会長の奥田碩氏の実弟である。


一方、長野で誕生した片倉財閥は、1873年に片倉市助が製糸業を手がけ、初代片倉兼太郎が垣外製糸場を開設したことから始まる。明治期から大正期にかけて日本の主力輸出品であった絹糸。長野県で誕生した片倉財閥は、1873年に片倉市助が製糸業を手がけ、初代片倉兼太郎が垣外製糸場を開設したことから始まる。初代兼太郎は長野県に3工場を建設し、個人経営の製糸場としては日本一の規模になる。2代目片倉兼太郎は1895年、製品の出荷を担う片倉組を結成し、東京支店を設立し、中央に進出。日清戦争景気もあり、日本の生糸輸出量は世界2位となり、片倉組も成長。次々と製糸工場を買収し、朝鮮半島でも工場を開設した。


1920年に片倉組を片倉製糸紡績に改組し、1939年には長野県の富岡製糸場の経営を手がける。大正期には製糸工場の数は1府24県、58ヵ所となり、片倉財閥へと発展していく。この片倉製糸紡績が改組して生まれたのが、「片倉工業」だ。よって1873年を創業年とする片倉工業は「100年企業」である。


ところで、近代化産業遺産の富岡製糸場だが、もともとは1872年に日本初の器械製糸工場として操業を開始した官営工場であった。1893年に三井家に払い下げられたのち、横浜の実業家・原富太郎に渡ったが、片倉製糸紡績が富岡製糸場を受け継ぎ、1987年の操業停止後も18年間、保存を続けてきた。毎年の維持費は固定資産税を含め約1億円。富岡市に移管するまで、計18億円を無償で注ぎ込んだ計算になる。一企業が貴重な産業遺産を保存してきたひとつの例である。


By Master K/益田 慶


100年企業19 旧財閥系の100年企業 地方財閥(阪神財閥)  旧広岡財閥・伊藤財閥

江戸時代に三井家、鴻池家とともに繁栄した大阪の両替商「加島屋」。幕末の1849年~1902年(明治35年)に連続して長者番付にランクインした人物を挙げれば、1位:三井財閥・本家当主三井八郎右衛門(東京)、2位:鴻池財閥・鴻池善右衛門(大阪)、住友財閥・住友吉左衛門(大阪)、そして3位に「加島屋」当主・9代目広岡久右衛門の名が並ぶ。9代目こそが明治維新の混乱期を乗り越え、明治・大正時代に金融グループの広岡財閥を形成した人物だ。


9代目久右衛門こと広岡信五郎は1888年、両替商「加島屋」のノウハウをもとに「加島銀行」を設立し、初代頭取に就任。翌年、大阪の有力財界人が参加して尼崎市に設立された「尼崎紡績」の初代社長に就いた。尼崎紡績はのちに「大日本紡績」に改称し、「日本レイヨン」と合併し、今日の「ユニチカ」へとつながっている。繊維事業だけでなく高分子事業・生活食品分野・環境事業などにも進出する同社は、1889年創業の「100年企業」だ


明治に入り、時代の変化に追いつけずに没落しかけた広岡家を再興したのは、信五郎に嫁いだ浅子の手腕と三井家の援助があったからだ。浅子は、当時の三井室町家当主で三井銀行の社長を務めた三井高保の娘。信五郎に銀行業と紡績業に絞り込むよう助言したのは義父・三井高保で、「加島屋」の実質的な経営者は浅子であった。彼女は1901年開校の「日本女子大」の設立にも加わり、女性実業家として多額の資金を提供している。同大学は「100年企業」ならぬ「100年大学」だ。


ほかに信五郎は「朝日生命」(現存の朝日生命とは異なる)の経営に参画し、1903年に同社を含めた3社によって誕生した「大同生命」の初代社長にも就任している。大同生命もまた大阪に本社を置く「100年企業」である。一方の加島銀行は昭和恐慌の影響で1937年、業務を野村銀行と山口銀行に分割譲渡して廃業した。ちなみに10代目広岡久右衛門は日本ゴルフ協会の理事を務め、関西でゴルフ場の設計も手がけた。


三井、鴻池、住友、広岡などの財閥が江戸時代の両替商を起源とするなら、兵庫県の伊藤財閥は江戸時代の大地主から財閥にスライドした不動産長者であった。1911年の全国多額納税者名簿(長者番付)で全国一位を占めたのが、兵庫県の伊藤家である。伊藤長次郎一族は不動産資本をもとに阪神地区の多くの新規事業に投資し、複数の会社の株主となった。ちなみに同じ伊藤財閥の名で、名古屋で創業した「いとう呉服店」(のちの松坂屋)や伊藤銀行、名古屋観光ホテルなどを経営した伊藤財閥があるが、血縁関係はない。


四代伊藤長次郎は兵庫-神戸間の路線を走る山陽鉄道や姫路第三十八国立銀行などの設立発起人にもなり、姫路第三十八国立銀行設立後に頭取も務めた。山陽鉄道の発起人には藤田財閥・藤田伝三郎、辰馬財閥・辰馬吉左衛門、岡崎財閥創始者・岡崎真鶴など阪神財閥の面々が名を連ね、初代社長にはのちに三井銀行の理事となる中上川彦次郎が就いた。


この阪神の不動産王・四代伊藤長次郎が第三十八国立銀行のバックアップを受けて、1887年に神戸に設立した「100年企業」がシルクを輸出する商社「神栄」である。生糸の輸出からスタートした同社は現在、衣料、食品、住宅、情報など幅広い事業を展開する「神栄グループ」を築いている。


以下は余談。伊藤長次郎一族には劣るが、姫路には他に有名な大地主がいた。大阪・堂島で名を馳せた伝説の相場師・牛尾梅吉である。梅吉の息子・健治は姫路銀行頭取を務め、のちに神戸銀行に吸収合併した際には神戸銀行の初代副頭取を務めた。電力・伝記事業にも進出し、「中国合同電気」や「山陽配電」の経営も担い、牛尾財閥を築いた。その中国合同電気を買収した山陽中央水電の大株主が、前出した四代伊藤長次郎である。買収される側と買収する側が同じ姫路の大地主同士であったのは、何かの因果だろうか。ちなみに中国合同電気の電球製造部が独立して「姫路電球」が誕生するが、同社から産業用特殊光源の製造部門を受け継いで「ウシオ電機」を創業したのが、健治の息子、現同社会長の牛尾治郎氏である。


By Master K/益田 慶


100年企業18 旧財閥系の100企業 地方財閥(阪神財閥)-旧川西財閥、嘉納財閥

阪神地区では明治初期に多くの紡績・繊維事業が始まった。紡績事業が拡大した理由は、渋沢栄一が企画し、藤田財閥の藤田伝三郎が1882年、日本初の本格的な紡績会社である大阪紡績(現東洋紡績)を大阪に設立したことにある。これにより地場産業が刺激され、時流に乗ろうとする起業家が相次いで登場したのだ。


大阪生まれの川西清兵衛が中心となり、投資家・小曽根喜一郎ら神戸の実業家27人を発起人として1896年に設立したのが「日本毛織」、通称ニッケだ。同社は現在もウールのトップメーカーとして営業を続ける「100年企業」だ。繊維・非繊維事業に多くの関連会社を持ち、ニッケ企業グループを築いている。川西は戦争景気によって軍用毛布の売上で資産をつくり、1907年には鉄道事業に乗り出したのち、皮革事業、生糸事業など多数の関連事業を出かけ、川西財閥を形成した。清兵衛は戦前、日本羊毛工業会会長、神戸商工会議所会頭も務めた。


川西財閥は日本毛織を核とする繊維財閥だが、まったく畑違いの機械製造事業でも高い評価と実績を残している。ベンチャー精神にあふれる清兵衛は1918年、元海軍機関将校の中島知久平の飛行機事業に参画。1年後には中島と決別したが、1903年に神戸に創業した「川西倉庫」に「川西機械製造所」を設立。初代社長の川西龍三は清兵衛の次男だ。1928年には飛行機部門を分離独立して「川西航空機」を設立した。ここから紫電改や二式飛行艇が誕生したのである。戦闘機ファンにとっては「伝説の戦闘機メーカー」である。


川西機械製造所は、戦前に真空管やレントゲンなど精密機械を生産し、当時の最高水準のものと評価された。戦後、解体清算されて誕生した神戸工業が1968年に富士通と合併して生まれたのが「富士通テン」である。同社は現在も創業地の神戸に本社を置いている。一方、川西航空機を母体として創業したのが現在の「新明和興業(現新明和工業)」だ。同社の創業には川西龍三がかかわったが、日立製作所の傘下としての再スタートだった。川西機械製造所と川西航空機は現存していないが、「100年企業」川西倉庫は現在、倉庫業と物流業を展開している。


ところで、川西清兵衛と決別した中島知久平は「中島飛行機」を設立し、エンジンや機体の開発に高い技術を発揮。太平洋戦争終戦まで東洋最大の航空機メーカーとなる。こちらも戦闘機ファンには「伝説の戦闘機メーカー」である。中島飛行機の解体後、技術者の多くが自動車産業へ転身し、そのうちの一社が富士重工業(スバル)であることはよく知られている。


さて、阪神といえば甲陽学院中学・高校(白鹿グループ)のように、資産家が設立した私立校が多い地区でもある。進学校として名高い灘中・灘高は、銘酒「菊正宗」や「白鶴」で名高い嘉納家が設立した学校だ。学校法人灘育英会は現在、菊正宗酒造の11代当主で社長の嘉納毅人氏が理事長を務めている。嘉納本家(本嘉納)は1659年に酒造業に進出。適度に硬度があり、鉄分を含まない地下水によって、江戸時代に良質の酒を量産できるようになり、「灘」は良質の酒の代名詞となった。本嘉納が家業として営む菊正宗酒蔵は、300年以上の歴史を持つ「100年企業」だ。


その本嘉納八代目と分家(白嘉納)が設立したのが、旧制灘中学であった。八代目嘉納治郎衛門は土地や建物、株などの投資事業を行い、灘商業銀行(のちに岡崎銀行ほかと合併し神戸銀行に)を設立し、自身は頭取に就任。酒造業と投資事業を営む嘉納財閥として名を馳せた。ちなみに治郎衛門に酒造業対象の銀行設立を進めたのは、のちに第4代総理となる松方正義であった。


一方、分家の白嘉納家は「白鶴」ブランドの醸造で酒造業を営み、日本最大の酒造メーカーへと成長した。1897年設立の白鶴酒造はもちろん「100年企業」である。ほかに灘の酒造業で財力を蓄えたのに「櫻正宗」ブランドで知られる山邑(やまむら)家がある。こちらも1717年創業の老舗「100年企業」である。

By Master K/益田 慶


100年企業17 旧財閥系の100企業 地方財閥(阪神財閥)-旧八馬財閥・乾財閥・岡崎財閥

江戸時代から海外貿易で栄えた阪神地区には、海運業で財を成した、いくつかの中堅財閥が存在した。初代八馬兼介が米穀商を興したことから始まる八馬財閥もそのひとつ。初代は米穀商で蓄えた財をもとに海外船舶を購入。1878年に兵庫県西宮市に八馬商店船舶部を設立し、船主として海運業に進出した。のちに「八馬汽船」と改組し、同社は現在も神戸市に本社を構えている。八馬汽船は阪神の「100年企業」である。


その後、八馬家は銀行や電鉄会社の設立に出資し、大株主となる。初代は西宮銀行、武庫銀行の両頭取を務め、孫の三代目兼介が後を継いだ。1936年に兵庫県の7銀行が合併して誕生した「神戸銀行」では、当時の神戸岡崎銀行(岡崎財閥)岡崎忠雄が会長、三代目八馬兼介が頭取、姫路銀行(牛島財閥)牛島健治が副会頭に就任した。のちに太陽銀行と合併し、「太陽神戸銀行」となり、三井銀行と合併して「さくら銀行」となり、さらにさくら銀行と住友銀行が合併して、今日の「三井住友銀行」となる。


八馬家は、のちに老舗酒造メーカー「多聞酒造」を経営したが、2005年に経営難より会社更生法を適用。同じ西宮市の酒造メーカー「大関」が「多聞」の商標と製造販売を譲り受けた。ちなみに大関は創業1711年の「100年企業」である。また、船会社設立時に八馬汽船から船を借りて手数料をかせぎ、「船成金」と呼ばれるほど成功し、のちに吉田茂内閣で農林大臣を務めたのが内田信也である。


一方、醸造業から海運業に進出したのが、三代目乾(いぬい)新兵衛だ。三代目は中古船舶を購入し、1904年に社外船主として海運業へ転換。1908年に神戸に「乾合名会社」を設立。「乾汽船」は今日も乾家が代表を務める「100年企業」である。2001年に本社を東京に移した。ちなみに五代目新兵衛こと乾豊彦は日本ゴルフ協会名誉会長を務めたことでも知られている。


銘酒「白鹿」で名高い西宮の醸造元・辰馬家もまた海運業を営んでいた。1662年創業の酒造業の老舗は、酒を江戸に運ぶために海運業にも乗り出した。1909年に設立した「辰馬汽船」はのちに「新日本汽船」へ改組し、山下汽船と合併して新山下日本汽船となり、「商船三井」に吸収される。「辰馬本家酒造」は現在「白鹿グループ」を展開する「100年企業」だが、一時期は海運業と海上火災保険業も手がけ、阪神地区での辰馬財閥を形成した。その大番頭として新日本汽船の社長を務めた山県勝見は、辰馬海上火災保険がほか3社と合併して生まれた「興亜海上火災保険」の初代会長も務めた。同社はのちに「日本海上火災」と合併し、「日本興亜損保」となる。


一方、辰馬本家から分家して生まれた北辰馬家は1862年に西宮で創業。こちらの銘柄は「白鷹」で、社名も「白鷹」。本家とは一線を画しており、「白鹿グループ」には加盟していない。


海運業を基盤にして財閥にまでのしあがったのは、ほかにもある。岡崎財閥の始祖・岡崎藤吉は「岡崎汽船」で蓄えた財をもとに金融業へ転換していった。その岡崎が海運業を始めるために資金を借りたのが、前出した辰馬家当主・辰馬吉左衛門である。藤吉は1897年、神戸海上運送火災保険を創業。岡崎家は婿養子に迎えた岡崎忠雄の代に事業を広め、山崎豊子の小説『華麗なる一族』のモデルになったとされている。


阪神の岡崎財閥の当主として君臨し、神戸商工会議所会頭にも就任している。1944年、金融統制によって神戸海上運送火災保険が共同海上保険など3社と合併して誕生したのが「同和火災海上」だ。この時に社長に就任したのが、忠雄の長男・岡崎真一である。真一も神戸商工会議所会頭に就任し、日本商業会議所副会頭も務めた。同和火災海上は日本生命の子会社「ニッセイ損害保険」と合併し、「ニッセイ同和損害保険」となった。同社は岡崎藤吉が立ち上げた神戸海上運送火災保険をもって創業年としているので、「100年企業」といえる。


ちなみに岡崎真一の長男・岡崎真雄氏は、同和火災海上社長と会長を務めたのち、現在ニッセイ同和損害保険の名誉会長を務めている。次男・岡崎藤雄氏は、藤吉が創業した内外ゴム(営業本部:神戸)の現社長、三男・岡崎由雄氏は東京衡機製造所会長兼社長を退任し、取締役相談役に就いている。まさに「華麗なる兄弟」である。


By Master K/益田 慶


100年企業16 旧財閥系の100年企業 地方財閥(阪神財閥)-旧弘世財閥ほか

江戸時代から海外との貿易が盛んであった大阪・神戸周辺には中堅の財閥が集中したことから、それらは総称して「阪神財閥」と呼ばれた。15財閥と比べると知名度は落ちるが、阪神には日本有数の「100年企業」が集まっている。


旧弘世(ひろせ)財閥は、明治時代に金融業、保険業、鉄道事業で財を成した弘世助三郎を起源とする阪神財閥だ。総資産額国内第2位の日本有数の「100年企業」で、生命保険会社業界のトップである「日本生命」を関西経済人の助力を得て1889年に立ち上げたのが弘世助三郎である。日本生命は関西で最初に誕生した生保会社で、現在も本店は大阪市にある。同社は単なる生保会社ではなく、国内屈指の機関投資家で、数多くの企業の筆頭株主、主要株主となっている。


現在の滋賀県彦根市に生まれた助三郎は、幕末に彦根城下で商人として成功し、明治に入り、金融機関の走りである「融通会社」を設立。これは徳川時代に使われていた藩札を明治の太政官札に交換する会社だ。その後、助三郎は数多くの銀行設立に関与する。たとえば助三郎が取締役兼支配人となった第百三十三国立銀行はその後、改称合併を経て、現在の「滋賀銀行」に至る。大阪の繊維関係の有力商人を集め、「山林王」岡橋治助とともに設立した第三十四国立銀行はのちに鴻池銀行など大阪に本店を置く銀行と合併し、「三和銀行」へと発展した。


冒頭に述べた日本生命だが、助三郎は銀行業が忙しいこともあり、日本生命の初代社長には大阪財界の大御所・鴻池善右衛門を推挙した。「社長は鴻池財閥当主」という信用が大きく影響したのか、設立10年目には早くも日本一の契約高を誇る生保へと発展した。創業時に副社長に就任した片岡直温は助三郎が送り込んだ実務のまとめ役で、のちに17年間にわたり二代目社長を務め、その後、政界に進出し、大蔵大臣も務めた。


三代目社長を務めた「中興の祖」弘世助太郎は助三郎の長男。助三郎が婿養子に迎えたのが五代目社長の弘世現で、「日生劇場」の生みの親である。ちなみに四代目社長成瀬達は弘世現の実兄だ。このように五代目までは弘世家による日本生命の創業者支配が続いた。弘世現の長男源太郎は後継者として日生常務となるが、44歳の若さで病死した。


ちなみに日本生命が旧三和銀行の筆頭株主であったのは、同じ大阪の企業ということよりも日生創業者の助三郎が三和銀行創立時に取締役を務めていた関係からであるといわれている。そして現在の日生のメインバンクは三菱東京UFJ銀行である。


さて、日生が主要株主となっている大手企業のひとつに、連結決算で売上高1兆3000億円を誇る「武田薬品工業」がある。連結子会社が46社あり、製薬を核とした「武田グループ」を築いている。
同社の創業家である武田家が1781年、大阪で薬種の仲買い業「近江屋」を創業したのが起源だ。武田薬品が「創業1781年、設立1925年」としているのは、この近江屋開業から数えた歴史だ。こうなると「100年企業」どころか「200年企業」である。


武田家当主・4代目武田長兵衛が和漢薬から洋薬一本に切り替え、5代目武田長兵衛が1895年に大阪市北区の内林製薬所を武田専属工場として経営したのが実質的なスタートだ。この創業一家の武田家の男子が歴代の社長を務め、旧武田財閥が誕生した。武田家は現在も同社に大きな影響を持っている。現在の代表取締役会長・武田國男氏は6代目武田長兵衛の三男。長兄の副社長が社長に昇進する矢先に急逝。当時、アメリカ合弁会社に代表として派遣されていた國男氏が後継者に選ばれたのである。それは武田家以外からの社長が3代続いた後の「大政奉還」であった。


國男氏は社長就任後、大改革を実行。その結果、同社は2002年に連結で売上高1兆円を達成し、名経営者として注目を集めた。元日本経済団体連合会(経団連)副会長、現関西経済連合会副会長を務めている。


以下は余談。1980年に6代目武田長兵衛が亡くなった際、妻(武田國男氏の母)ら家族が遺産相続した額は約240億7000万円だった。遺産の内訳は自社株などの有価証券が約230億円、自宅などの不動産が約6億9000万円、預貯金などが約4億3000万円。相続税額約160億円は現金で納付したという。


By Master K/益田 慶


100年企業15 旧財閥系の100年企業 旧森村財閥・森村グループ

森村財閥は、6代目森村市左衛門が1876年に異母弟とともに森村組(現森村商事)を設立したのが起源だ。6代目は幕末に日米修好通商条約によって開港した横浜で海外の洋服や靴、鉄砲、懐中時計などを仕入れ、土佐藩や中津藩などに販売を行った。その関係から土佐藩出身の官軍総督参謀・板垣退助の軍需品の調達を担うようになり、財を築いた。この資金でいろんな事業に挑んだが失敗。


やがて始めた帝国陸軍重騎兵用の馬具を製造・販売する工場の経営が成功し、銀座に洋装店モリムラテーラーを出店。異母弟の森村豊がニューヨークに留学したのを契機に洋装店を辞め、骨董品や陶器などを販売する「森村組」を設立。一方、ニューヨークに渡った豊は1878年、六番街に森村組の現地法人森村ブラザーズを開店。こちらは日本製品を販売する「輸入雑貨店」である。


しばらくして6代目の義弟でのちに「大倉陶園」を創業する大倉孫兵衛が森村組に加わり、森村財閥の基盤となる陶磁器の貿易業が始まった。


森村組は1946年に森村商事に改称。現在、耐火物原料や工業用原料、化学品などの輸出入と販売を行っている総合商社森村商事は、よって1876年創業の「100年企業」である。森村組が財閥へ発展したのは、卸売業へ転換してからだ。アメリカで生産されていなかった陶磁器、特に日用食器が米国で大ヒット。米国にはない陶磁器の繊細な絵柄が、当時のアメリカ女性に気に入られたようだ。


1885年以降は、注文を受けてから生産を行うようになる。取引の規模が拡大すると、陶磁器の生地の生産地である名古屋に専属窯を設け、絵付工場も設立した。日本製の白い陶磁器はフランスでも好評を博した。6代目はヨーロッパに技術者を派遣し、当時の食器製造の最新技術を学ばせた。


そして海外向け食器(ディナーセット)の大量生産を目指して1904年に名古屋に設立されたのが「日本陶器合名会社」だ。初代社長には森村組の陶器責任者・大倉孫兵衛の長男で、当時森村組ニューヨーク支店に勤めていた29歳の大倉和親が抜擢された。この日本陶器合名会社が現在の「ノリタケカンパニーリミテッド」である。よって同社は「100年企業」である。ちなみに「ノリタケ」とは、同社の本社所在である名古屋市西区則武(ノリタケ)新町から命名された。


ノリタケカンパニーリミテッドは現在、食器にとどまらず、研磨機材、セラミック素材製造を手掛けるメーカーで、海外にも製造工場を設けている。同社だけで多くの子会社・関連会社を持つノリタケグループを形成している。現在、森村グループの中核を占めている。


以降は「100年企業」ではないが、森村商事と日本陶器(ノリタケ)から生まれた企業を紹介しよう。これらが現在の「森村グループ」の中心企業である。そのほとんどが陶磁器の産地・愛知県に本社を構えているのが同グループの特徴だ。


日本陶器合名会社の衛生陶器部門を分離して1917年に設立されたのが「東洋陶器」、つまり今日の「TOTO」だ。世界に進出した日本を代表する衛生陶器・住宅設備機器メーカーである。陶器といえば電線の絶縁に用いる「碍子」がつきものだが、1919年に日本陶器合名会社の碍子部門が分離して名古屋に設立されたのが「日本碍子」(現日本ガイシ) である。


同社も多くの関連会社を持つガイシグループを形成している。同年、森村組の陶器責任者・大倉孫兵衛が立ち上げた「大倉陶器」(現大倉陶園)は日本を代表する洋食器メーカーで皇室御用達だ。さらに1936年に創業した「日本特殊陶業」は、日本碍子の点火プラグ製造部門が独立して誕生した企業。同年、日本陶器、東洋陶器、日本碍子、3社の原料部門を分離統合して設立された「共立原料」が、今日のエレクトロセラミック製造メーカー「共立マテリアル」である。


ところで、1924年に日本陶器のタイル製造部門が独立し、同社社長の大倉和親が会長、伊奈長三が常務となって創業したタイルメーカー「伊奈製陶」(現INAX)は当前のことながら森村グループに入っていたのだが、INAXが衛生陶器の製造を始めたことで兄弟会社TOTOと競合するようになり、さらにINAXが2001年にトステムと経営統合したことでグループを離脱した。


ちなみに陶磁器関連企業の売上順位は、1位TOTO、2位INAX、3位日本ガイシ、4位日本特殊陶業、5位ノリタケカンパニーリミテッドである。森村グループが「世界最大のセラミック企業グループ」と称される理由はここにある。


By Master K/益田 慶


100年企業14 旧財閥系の100年企業 日窒コンツェルンと藤山コンツェルン

日窒コンツェルンは、日本窒素肥料(現チッソ)を中心とした戦前の新興財閥で、15財閥のひとつに数えられた。日本で最初にカーバイドの製造を始めた野口遵(したがう)が1906年に曽木電気を設立し、鹿児島県に曽木水力発電所を開いたのが起源だ。野口は東京帝大工学部卒業後、ドイツの大手電機メーカーのシーメンス日本出張所で働き、電機技師として技術を培った。シーメンスはカーバイドを原料に窒素肥料をつくる特許を有していた。野口はその特許の実施権を買い取り、新たなビジネスモデルを描いていたのである。


野口が曽木水力発電所を開いたのは、そこで生まれた電力を使ってカーバイドの製造を考えていたからだ。同じ年に熊本県にカーバイド製造工場「日本カーバイド商会」を設立。2年後に曽木電気と合併し、「日本窒素肥料」と改め、石灰窒素の製造を開始した。現在のチッソは1906年を設立としているので、「100年企業」ということになる。


野口は人絹工業、合成アンモニアの製造にも成功し、朝鮮にも進出して朝鮮窒素肥料と朝鮮水力発電を設立した。政商としの手腕も発揮し、日本軍の進軍とともに満州まで進出した。1926年には長野県で信濃電気とともに信越窒素肥料を設立。これが現在の信越化学工業である。同社の初代社長には信濃毎日新聞社長、長野商業会議所会頭を務めた小坂財閥・小坂順造が就任した。また野口は日本窒素肥料株式会社延岡工場を「延岡アンモニア絹絲」として独立させ、社長を務めた。同社がのちの「旭化成」である。さらに日本窒素肥料のプラスチック事業から生まれたのが積水化学工業である。旭化成と積水化学は同根ということだ。日窒コンツェルンから生まれた「100年企業」はチッソのみだが、旭化成や信越化学工業といった化学メーカーが日窒コンツェルンから派生したことを考えると、大きな足跡を残したといえるだろう。


藤山コンツェルンは、佐賀生まれの藤山雷太が一代で築いた財閥。藤山は長崎県会議員として手腕を発揮しているときに三井中興の祖・中上川彦次郎に呼ばれて三井銀行に入社。抵当係長として頭角を現わし、所長となって芝浦製作所(のちの東芝)を再生したほか、渋沢栄一が会長を務める王子製紙の専務に32歳の若さで就任した。これは三井が王子製紙の大株主であったため、「物言う株主」として三井から送り込まれたようだ。藤山は渋沢を辞任に追い込むが、後ろ盾であった中上川の死去と王子製紙の営業不振が原因で、王子製紙と三井銀行を去る。


東京市街電鉄の取締役を経て、駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)取締役、日本火災保険(現日本興亜損保)副社長、歌舞伎座取締役など歴任し、因縁の深い渋沢栄一の依頼を受け、倒産寸前と評されていた「大日本製糖」の社長に就任し、再建に成功。1896年創立の大日本製糖は、1996年に明治製糖と合併し、大日本明治製糖となり、現在は三菱商事の子会社となっているものの、藤山が立て直した同社は製糖業界の「100年企業」である。藤山が大日本製糖を再建させた手法は、台湾で生産拡大であった。その後、朝鮮製糖、内外製糖などを吸収し、拡大した。


また大日本製糖は戦前に沖縄の北大東島と南大東島を所有していた。藤山は北大東島で採掘された天然肥料を原料に化学肥料を製造する「日東化学工業」(現三菱レイヨン)や「日本金銭登録機」(現日本NCR)経営し、藤山コンツェルン拡大した。藤山はのちに東京商工会議所会頭、日本商工会議所連合会会頭にも就任した。


ちなみに藤山の長男が、岸信介内閣の外務大臣を務めた藤山愛一郎である。藤山コンツェルンの後継者として大日本製糖や日東化学工業の社長などを歴任し、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、日本航空初代会長も務めた。その後、実業家から政治家に転身。外務大臣就任後に衆議院議員となり、岸派から分派して藤山派を結成。自民党総務会長、経済企画庁長官なども歴任した。


その藤山愛一郎が建設したホテルが、1960年に開業した「ホテルニュージャパン」だ。のちに横井英樹に買収され、1982年に火災にあったことで有名だ。実は愛一郎はホテルニュージャパンに事務所を構えており、火災の際に中国近現代史料コレクション「藤山現代中国文庫」が焼失したという。そこに藤山コンツェルンの落日を見た人も少なくない。


By Master K/益田 慶


100年企業13 旧財閥系の100年企業 旧根津財閥と甲州実業家グループ

根津財閥の創始者・根津嘉一郎(初代)は東武鉄道や南海電気鉄道の前身となる路線の運行など、国内の鉄道敷設や再建事業に関わった「鉄道王」である。そして旧根津財閥は、交通・住宅・流通・レジャー事業を手掛ける現在の「東武グループ」の源流である。


根津嘉一郎は、村会議員、県会議員、村長を経て上京した。甲州(山梨県)出身の実業家つながりで、相場師としても名高い若尾逸平や軽井沢を開発した雨宮敬次郎と親しくし、1896年には同郷の先輩・若尾とタッグを組んで東京電灯の買収に成功。若尾は東京電灯社長に就く。甲州出身実業家たちが行ったのは、過半数の株の買い占めだ。そして根津に「事業を始めるなら金をつくらねばならぬ」と株の売買を進めたのが、生糸の買い占めで巨額の財を手にした若尾であった。


明治の実業家の多くが、電気やガス、鉄道など公共事業に着目して事業に取り組んだが、甲州実業家グループはまずそれらの会社への株式投資で存在感を強めた。若尾・根津連合はいち早くM&Aを手掛けた実業家といえるだろう。世間は若尾や雨宮、根津らを「甲州財閥」と呼んだ。


嘉一郎は1905年、営業不振が続いていた東武鉄道の社長に就任し、経営再建に挑んだ。いくつかの鉄道と合併し、同社は復活する。東武鉄道は1897年創業の「100年企業」で、今日の東武グループの核となる企業である。現社長の根津嘉澄氏は初代嘉一郎の孫で、2代目嘉一郎の次男にあたる。東京急行電鉄(東急)の取締役や蔵王ロープウェイの会長、松屋取締役など要職に就いている。2代目嘉一郎が創業した東武百貨店の社長を務める根津公一氏は、2代目嘉一郎の長男で、根津術館館長や学校法人根津育英会の理事長など務めている。


嘉一郎はほかにも多くの鉄道事業を手掛けた。初代社長を務めた大阪高野鉄道(1899年開業)は、のちに南海鉄道と合併し、今日の南海電気鉄道へとつながっている。嘉一郎は1900年、江戸時代から続く名家の当主・正田貞一郎によって創業された「館林製粉」の社長にも就任している。館林製粉は1907年に「日清製粉」と改め、今日の「日清製粉グループ本社」へとつながっている。嘉一郎がかかわった「100年企業」のひとつである。ちなみに正田貞一郎の孫が美智子皇后で、正田貞一郎は嘉一郎が他界した2年後の1942年に東武鉄道の会長も務めている。正田家と親しくしていた嘉一郎の華麗なる人脈が垣間見える。


さらに嘉一郎は1923年に「富国徴兵保険」を興し、初代社長を務めている。これが今日の「フコク生命」である。同社3代目社長の小林中(あたる)は、嘉一郎が社長を務めていたときの社長秘書で、嘉一郎から帝王学を学んだ人物の一人だ。小林はのちに日本開発銀行(現日本政策投資銀行)の初代総裁、アラビア石油社長、日本航空会長を務め、「影の財界総理」とも称された。


一方、前出した甲州出身の実業家・雨宮敬次郎は嘉一郎より14歳年上で、若尾逸平同様、近代国家が投資すべき産業は、鉄道や水道などのインフラ事業だと考え、嘉一郎に大きな影響を与えた人物である。横浜を本拠地として相場取引で名を馳せ、欧州外遊後、1883年に軽井沢の開発事業を開始。さらに民間人として初めて本格的な機械製粉事業にも進出した。1896年に起業した「有限責任日本製粉会社」が今日の「日本製粉」である。同社は日清製粉よりも前に誕生した「100年企業」である。


さらに1888年には東京と甲府を結ぶために敷設された私鉄「甲武鉄道」への投機で巨額の利益を出し、同社の社長にも就任している。のちに国有化され、中央本線となるが、甲武鉄道こそが国有鉄道最初の電車である。また、1905年には「江之島電鉄」(現在の「江ノ島電鉄」の前身)社長に就任したほか、1908年には軽便鉄道会社「大日本軌道」を設立している。


ほかに甲州出身の実業家で「甲州財閥」と呼ばれる一群には、前出した相場師・若尾逸平に師事した小池国三(廃業した「山一証券」の創業者)や百貨店の「松屋」(松屋は100年企業)創業者・古屋徳兵衛、「富士急行」創業者の堀内良平などの起業家がいる。

By Master K/益田 慶


100年企業 12 旧財閥系の100年企業 旧鈴木(鈴木商店)財閥・神戸川崎財閥

川越藩(現埼玉県川越市)の鈴木岩治が1874年に兵庫県で開業した貿易会社「鈴木商店」は、岩治死去後、番頭の金子直吉が事業を継承し、防腐剤や医薬品として使われる樟脳、砂糖の貿易などで逸早く世界進出を果たした。全盛期は短かったものの、多数の企業の創立や買収にかかわったことから明治・大正時代を代表する財閥といえよう。


鈴木商店は穀物取引、保険・海運・造船などの分野にも進出し、日本企業として2番目にロンドン・バルティック取引所(世界有数の船舶物資取引所)のメンバーとなり、一時期は三菱商事や三井物産を凌駕する売上を築いた。株式公開することなく、1927年に事業を停止するまでに多くの企業買収や設立にかかわった。


鈴木商店が創業した企業の中で最も有名なのが、1905年に創立した神戸製鋼所、のちの「神戸製鋼グループ」である。同社は鈴木商店から独立した1911年を会社設立年としているが、創立年から見れば「100年企業」である。同じく「100年企業」にあたる創業1896年の日本製粉(現在は三井グループ)や1900年創業の台湾製糖(合併して現在は三井製糖)、帝人なども一時期、鈴木商店の傘下に置かれていた。  

                          
ちなみに鈴木商店の子会社だった「日本商業会社」を後継した「日商」が岩井産業と合併して生まれたのが「日商岩井」で、同社とニチメンが株式移転して誕生したのが総合商社「双日」である。2008年1月末、中国の天洋食品から輸入した冷凍餃子を食べた消費者が食中毒にあう事件が発生したが、ジェイティフーズが輸入にあたって、食品商社として中国からの輸入を仲介したのが同社子会社の「双日食料」である。

  
鈴木商店同様、神戸を本拠地としたのが、川崎正蔵が礎を築いた神戸川崎財閥だ。金融業で幅広く展開した関東の川崎財閥とは無関係である。正蔵は貿易で財を成し、官営兵庫造船所の払い下げを受け、1887年に川崎造船所を設立した。前出した神戸製鋼の創立より約20年の前のことだ。


これがのちに改組し、船舶・航空機・鉄道車両・バイクなどを製造する「川崎重工業」へと発展したのである。同社は前身である株式会社川崎造船所設立年の1896年を創業年と謳っているが、どちらにしても日本を代表する「100年企業」である。この川崎重工業の製鉄部門が独立して「川崎製鉄」が生まれ、日本鋼管と株式移転し、「JFEホールディングス」が誕生したのである。


川崎重工・初代社長の松方幸次郎は正蔵が川崎財閥の後継者に選んだ人物で、第4、6代総理大臣・松方正義の三男である。正蔵は1898年に「神戸新聞」を創刊し、同じく松方幸次郎が新聞社の初代社長に就任した。神戸新聞社もまた「100年企業」である。正蔵が1905年に開設した「神戸川崎銀行」はのちに十五銀行に吸収され、松方幸次郎は同行をメインバンクとしてグループの基盤を固めた。


十五銀行は昭和金融恐慌の際に破綻するが、同行の代表を務めていたのは幸次郎の兄・巌であった。その十五銀行を吸収した帝国銀行が三井銀行に継承され、太陽神戸三井銀行からさくら銀行を経て三井住友銀行へとつながるのである。   


                           
神戸川崎財閥を継承した松方幸次郎は、「松方コンツェルン」とも呼ばれるグループ企業を展開した。神戸瓦斯、川崎汽船、九州土地、旭石油(のちに合併して昭和石油となり、昭和シェル石油に発展)、日ソ石油、九州電気軌道(現西日本鉄道)などの社長や役員として活躍する一方で、神戸商工会議所会頭、衆議院議員も務め、神戸政財界に君臨した。


上記企業のうち、福岡に本社を置く西日本鉄道(西鉄)は1908年創業の「100年企業」である。また、川崎重工が出資して1919年に設立された川崎汽船は日本郵船、商船三井に次いで国内第3位の規模を誇っている。


鈴木商店が創設した神戸製鋼と、川崎正蔵が創業した川崎重工は、日本が誇る重厚長大産業の代表である。両社が神戸で誕生した背景には、幕末に兵庫港(神戸港)が開かれたことが挙げられる。この地域が船舶の造修に適しており、また港があることから貿易が発達する要因に満ちていたのである。神戸を基盤にした財閥が複数生まれた要因は、立地環境と幕末の指針があったからなのである。 

By Master K/益田 慶


100年企業 11 旧財閥系の100年企業 渋沢栄一が設立に携わった企業

渋沢栄一は、日本の近代経済史・産業史に欠かせない経済人・実業家だ。500にものぼる企業の設立、育成に携わり、経営者利益を手にしていたことから渋沢が関与する企業群は戦前には「渋沢財閥」とも呼ばれ、十五財閥のひとつに挙げられた。戦後の財閥解体の指定も受けた。しかし、明治の財閥創始者と異なり、系列企業の株保有率は極端に低く、系列企業を支配していたわけではないので、財閥と呼ぶにはふさわしくないだろう。


それでも無視できないのは、渋沢が設立に関わった企業の多さと、多くの明治の実業家たちを支援したその影響力の大きさによる。渋沢が資金を提供したことで事業を軌道に乗せた実業家は少なくない。

まず、現在「金融機関コード0001」を誇る銀行「みずほ銀行」は、ご存知のように2000年に第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行が合併して誕生した銀行だが、「金融機関コード0001」のルーツは、1873年に渋沢が初代頭取となって開業した日本初の民間銀行「第一国立銀行」である。


民間銀行でありながら国の中央銀行の役割を果たしたのち、普通銀行の「第一銀行」へ改組。帝国銀行を経て第一勧銀になり、みずほ銀行へとつながる。だから、みずほ銀行は渋沢栄一を創業者とする「100年企業」といえよう。


「王子製紙」は1873年に渋沢が創業社長となって設立した日本最初の洋紙会社「抄紙会社」が起源。1893年に現社名に改称し、日本を代表する洋紙メーカーとなった。日本の損害保険トップの「東京海上日動火災保険」の前身である「東京海上保険」は、渋沢が発起人となって1879年に誕生した日本初の海上保険会社である。


1882年に創業した「東洋紡績」は渋沢の紡績事業計画によって誕生した「100年企業」。1885年に設立された東京瓦斯(東京ガス)は浅野財閥・浅野総一郎と渋沢が共同で立ち上げた民間の公共事業であった。同年、三菱の郵便汽船三菱会社と政府の共同運輸会社が合併して誕生した「100年企業」が「日本郵船」だ。渋沢は15年もの間、同社の取締役を務めた。渋沢が出資し1889年に設立された「石川島造船所」は石川島播磨重工業を経て、現在IHI(アイ・エイチ・アイ)となっている。同社は日本を代表する「100年企業」の建設機械メーカーである。


あまり知られていないが、渋沢は1892年に日本で最初の帽子製造会社「東京帽子」を設立し、初代代表取締役会長を務めた。これが現在ペン先メーカーとして知られる「オーベクス」である。同社は帽子メーカーとして創業し、現在ではメディカル事業も展開する「100年企業」である。


財閥オーナーと一緒に取り組んだ事業も数え切れない。キリンビールのルーツは、1885年に岩崎弥之助らが発起人となり、渋沢は重役を務めた「ジャパン・ブルワリー」だ。これを引き継いで三菱財閥と明治屋が出資して1907年に創業したのが「麒麟麦酒」、つまりキリンビールである。「サッポロビール」の前身は大倉財閥の大倉喜八郎に払い下げられた開拓使麦酒醸造所をもとに、1886年に渋沢と大倉が出資して誕生した「札幌麦酒会社」だ。設立から見れば、キリンもサッポロも「100年企業」である。藤田財閥・藤田伝三郎と設立した「大阪紡績」はのちに合併して前出した「東洋紡績」へと発展した。


1890年に開業した「帝国ホテル」は大倉財閥・大倉喜八郎と渋沢が発起人となって誕生。1906年に渋沢が創立委員長となって開業されたのが「帝国劇場」だ。浅野財閥・浅野総一郎が1908年に創業した「東亜建設工業」は安田善次郎と渋沢の支援で誕生した「100年企業」である。
最後に「渋沢」の名前を残す「100年企業」を紹介しておこう。1897年に発足した「渋沢倉庫」である。現在、従業員490名。倉庫・運送業を営み、オフィスビルも所有している。名門・渋沢家の子孫は現在、公共事業やNPO活動、投資会社の代表などを務めている。


ちなみに大蔵大臣と日銀総裁を務めた渋沢敬三は栄一の孫にあたり、敬三の長男・雅英氏は「渋沢栄一記念財団」理事長を務めている。JPモルガン証券、ゴールドマン・サックスなどを経て投資会社「シブサワ・アンド・カンパニー」を創業した渋沢健氏は栄一の孫の孫にあたる。著書に『渋沢栄一とヘッジファンドにリスクマネジメントを学ぶ』『巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」』などがある。


By Master K / 益田 慶


100年企業 10 旧財閥系の100年企業 旧藤田財閥

旧藤田財閥の創立者・藤田伝三郎は明治期の関西財閥の重鎮で、民間人として初めて男爵の称号を得た人物である。長州・萩(現山口県萩市)で生まれ。明治維新の動乱期に奇兵隊員として活躍し、同郷の木戸孝充や井上馨、山県有朋らと親しくなったことが明治になって活かされた。


藤田は長州藩が払い下げした大砲・小銃・砲弾・銃弾の搬送や、軍靴製造の店舗の経営など大阪を拠点に事業を展開。1869年に藤田組を発足させ、大倉財閥と組んで土木事業(大倉組、現在の大成建設)に進出したほか、鉱山経営、銀行経営、化学事業、紡績事業などを手掛け、藤田財閥を形成していく。


1878年には大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の発起人となり、1880年に大阪硫酸製造会社を設立。大阪商法会議所初代会頭は当時の関西経済界の首領・五代友厚、2代目が藤田伝三郎、3代目・5代目が第四十二国立銀行の頭取を務めた田中市兵衛である。藤田はその後、「大阪紡績」や琵琶湖の「太湖汽船会社」、「大阪貿易」などを設立し、初代頭取に就任した。


1882年に創業した大阪紡績は渋沢栄一が計画した紡績事業で、これが現在の高機能製品メーカー「東洋紡績」である。同社は「100年企業」である。また太湖汽船会社はのちに鉄道会社と合併を繰り返し、「琵琶湖汽船」となる。同社は1886年創業の「100年企業」で、現在は京阪グループの一員である。そのほか田中市兵衛らとともに阪堺鉄道(現南海電鉄)の設立、大成建設を使って宇治川水力発電(関西電力の前身)の建設を進めたり、北浜銀行(のちに三和銀行)の設立にあたって当時三井銀行大阪支店長であった岩下清周を頭取に抜擢するなど関西経済界のリーダー的役割を果たした。


ちなみに北浜銀行が株を引き受けることで箕面有馬電気軌道(のちの阪急電鉄)の創業にこぎつけたのが、三井銀行時代の岩下の部下であった小林一三である。阪急阪神東宝グループの創始者だ。

藤田組の中核となったのが秋田県の小坂鉱山の経営であった。1884年、明治政府から払い下げされた同鉱山は、藤田伝三郎の実兄の息子である久原房之助が鉱山所長として手腕を発揮し、当初は銀の生産で実績を築き、やがて鉛、銅の生産で日本有数の鉱山に成長させた。


久原房之助はのちに独立し、久原鉱業を設立。日立鉱山を機械化生産で開発し、久原財閥の基盤をつくりあげる。この久原鉱業の機械工場として小平浪平が1911年に創業したのが日立製作所である。一方、久原房之助から久原鉱業の社長を引き継いだ鮎川義介は同社を日本産業(日産)へ改組し、日産自動車や日油などを経営する「日産コンツェルン」へと発展させていく。

日本を代表する日産・日立グループとも藤田財閥から派生したのである。日産コンツェルンは戦前の十五財閥のひとつに数えられたが、日本産業の創業自体が1928年なので、残念ながら「100年企業」は存在しない。

本流の藤田財閥は1911年に大阪亜鉛鉱業、1917年に藤田銀行を設立し、鉱山部門を藤田鉱業として分離。藤田組と藤田鉱業が合併して誕生したのが同和鉱業で、これが改組し、持株会社に移行したのが「DOWAホールディングス」だ。藤田伝三郎が明治政府から払い下げを受けた1884年を創業とするなら、DOWAホールディングスは120年もの歴史を刻んできたことになる。現在、同グループ会社の複数の企業が小坂鉱山跡地でリサイクル事業を展開しており、藤田財閥の遺産はしっかり運用されている。


藤田財閥の遺産といえば土地だ。藤田鉱業から分離し、藤田財閥の所有する広大な敷地・建物を運用する観光事業としてスタートしたのが「藤田観光」である。同社は戦後の創業なので、「100年企業」には及ばないが、同社が経営する結婚式場「椿山荘」(東京)は山縣有朋が1878年に私財を投じて購入した私邸だったが、当時関西財界で主導的地位を占めていた藤田組の二代目当主・藤田平太郎が、名園をありのまま残したいという山縣有朋の意志を受け継ぎ、藤田家の邸宅や別荘として譲り受けた。約2万坪の敷地は戦後、藤田観光が所有することになったものだが、100年近くにわたり都内にこれほどの土地を有していたことがまさに藤田財閥の財産といえよう。


By Master K / 益田 慶


100年企業 9 100年企業 旧財閥系の100年企業 旧大倉財閥

戦前には15財閥のひとつに数えられた大倉財閥。その創設者・大倉喜八郎は1867年(慶應3年)、大倉銃砲店を開業したことで運をたぐり寄せた。成功した偉人は「運も才能のうち」というが、喜八郎の場合、時代が味方したようだ。翌年から約1年間続く戊辰戦争における官軍の御用武器商人となり、喜八郎はまとまった財を築いた。


1873年、日本人による初の貿易商社「大倉組商会」を設立。翌年には大倉商会ロンドン支店を開店。機械などの直輸入貿易を進めるとともに諸建造物の造営などにあたった。1877年に勃発した西南戦争では軍御用達として食料・兵器を納入。1893~1894年の日清戦争でも喜八郎は武器商人として奔走し、巨利を手にした。軍事関係の需要は三井、三菱ではなく、そのほとんどを大倉組が独占したようだ。


喜八郎の事業意欲はますます盛んになり、1878年には渋沢栄一を中心に東京商法会議所(現東京商工会議所)設立に関与。1883年には日本初の電力会社「東京電燈」の設立発起人にも名を連ねている。


1887年、渋沢栄一、藤田財閥総帥・藤田伝三郎とともに、資本金200万円をもって日本土木会社を創立。大倉組商会の業務の内、土木に関するものを分離し、これを継承した。これが大成建設の前身で、日本では初めての会社組織による土木建築業である。


1892年、日本土木会社は解散し、翌年その事業を喜八郎が単独経営の大倉土木組として継承した。大成建設は1917年を創業年としているが、実質的には1893年が同社の創業だ。日本の建設事業を支えてきた「100年企業」である。

喜八郎は、土木・建設業以外に鉱業、林業にも進出した。喜八郎が設立あるいは設立に関与した企業は多い。1890年に開業した「帝国ホテル」は、喜八郎と渋沢栄一が手を組んで始めたものだ。もちろん「100年企業」である。建設を請け負ったのは喜八郎が共同で経営した日本土木会社だった。喜八郎没後は長男の喜七郎が経営を担ったが、財閥解体後は他社に経営権が移った。ちなみに「ホテルオークラ東京」も長男・喜七郎が創業したホテルだ。


「サッポロビール」の前身である札幌麦酒会社は1886年、喜八郎が政府から麦酒醸造場を払い下げられ、それを渋沢栄一、浅野総一郎らが譲り受けてスタートした企業だ。こちらも創業からすれば「100年企業」である。「日清製油」(現日清オイリオグループ)は、喜八郎と肥料商の松下久治郎によって「日清豆粕製造」の名称で1907年に設立された。日清オイリオグループは、1907年を創業としているので「100年企業」である。ちなみに日清食品、日清製粉は同社のグループではない。

1887年創業の「東京製綱」、1893年創業の「日本化学工業」とも喜八郎が関与した「100年企業」。靴のリーガルでおなじみの「リーガルコーポレーション」は大倉組ほか3社の靴製造部門が統合して1902年に生まれた日本製靴が前身。リーガルコーポレーションは創業1902年と銘打っているので「100年企業」である。創業の喜八郎が会長となって1907年に創業した「東海紙業」は現在「東海パルプ」と社名を変えたものの、大倉財閥から生まれた「100年企業」のひとつである。

喜八郎は慈善事業や教育にも力を注いだ。彼の寄付によって設立・運営された施設や学校は少なくない。1900年に開校した大倉商学校が今日の東京経済大学だ。1907年開校の関西大倉学園(大阪府茨木市)も喜八郎が開いた。


残念なのは、大倉組を改組し、中堅総合商社として証1部上場していた大倉商事が1998年に自己破産したことだ。負債額は2528億2700万円だった。旧大倉財閥の中核企業で、機械・金属、食料、物資・建設部門を中心に中堅商社としての地位を築いてきたが、バブル期の不動産開発や事業多角化の失敗によって業績が悪化、増資および債務圧縮による再建を目指していたが、遂に力尽きた。日本で最も古い総合商社の自己破産は当時、「バブル倒産」と騒がれた。


ちなみに自己破産した大倉商事の当時の社長・大倉喜彦氏は現在「中央建物」の社長を務め、東京・銀座に大倉本館と大倉別館という二つのビルを所有している。主要株主は大倉文化財団、東海パルプ、大成建設など旧大倉財閥企業が名を連ね、主な出資先には同じく大成建設、東海パルプに加えホテルオークラなどの企業が並んでいる。旧大倉財閥のネットワークは100年を経てもまだ生きているのだ。


By Master K / 益田 慶


100年企業 8 旧財閥系の100年企業 旧浅野財閥

浅野財閥は医者の子として現在の富山県氷見市に生まれた浅野総一郎が夜逃げ同然で24歳にして上京し、石炭の廃物であるコークスやコールタールを売って儲けたところから始まる。1878年、総一郎は横浜市営瓦斯局から毎日排出される燃料炭の残骸コークスの処理に困っていたことに着目し、東京・深川の官営セメント工場を訪ね、コークス利用の研究を依頼。


結果は良好で、さっそく瓦斯局と交渉し、安値で数千トンのコークスを買い取り、大きな利益を得た。さらに処理に困っていた廃物のコールタールの販売を委託し、当時コレラの流行で不足していた消毒用の石炭酸として再利用し、成功を収めた。総一郎が優れていたのは、リサイクルに目をつけたことだ。現在社会のキーワード「持続可能型社会」を100年以上も前にビジネスにしたのである。


総一郎は1884年、渋沢栄一の援助を受けて、官営の深川セメント工場(東京都)の払い下げを受け、浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)を設立した。深川はセメント製造に適した立地だった。多摩川やその支流秋川の上流域には豊富な石灰石の埋蔵が知られており、鉄道が発展した明治時代にはセメントの原料である石灰石は深川まで運ばれ、加工されていた。主に栃木県安蘇郡葛生付近で採掘された石灰石が鉄道で深川まで運ばれ、また隅田川の泥土も原料に使われという。


日露戦争後、日本のセメントの需要は次第に上昇。特に第一次世界大戦後の増加は著しかった。同郷の安田財閥創始者・安田善次郎の支援を受けた総一郎は、第一次大戦に乗じて巨利を得て"セメント王"の地位を獲得した。

浅野セメントの系譜にある日本セメントが合併して生まれた現太平洋セメントは1881年を創業と謳っているので立派な「100年企業」である。

総一郎はセメント以外の事業でも才覚を発揮した。1883年には渋沢栄一、井上馨らとともに「共同運輸」(後に岩崎汽船と合併して日本郵船)を設立、1896年には安田善次郎らの出資によって東洋汽船を創立(後に航路と共に旅客船部門を日本郵船へ吸収合併)。海運業に乗り出した総一郎は、日本の港湾が欧米に比べて大きく立ち遅れていることを痛感し、ただちに東京~横浜間の遠浅な海岸に注目。そこに大型船が着岸できる港湾機能を有する工業用地を造成する計画に取りかかる。


東京都に品川湾埋立出願を、神奈川県庁に鶴見~川崎間の埋立許可願書を、東京市に東京湾築港の事業許可願書を提出した。いずれもスケールが大きすぎる計画であったため認可されなかったが、1908年に「鶴見埋立組合」を組織し、神奈川県庁に「鶴見・川崎地先の海面埋立」の事業許可申請を提出し、受理される。鶴見埋立組合が現在の「東亜建設工業」で、同社は1908年を創業と謳っているので、こちらも「100年企業」である。


この計画は、埋立面積5000万平方メートル、延長4100メートルの防波堤、運河の開削、道路・鉄道の施設、橋梁、繋船設備、航路標識なども完備した一大工業用地を建設するといった壮大なもので、埋立地建設のノウハウは京浜工業地帯や北九州小倉地区の埋立にも寄与した。

総一郎は今日のJR南武線、青海線、鶴見線、常磐線など、物資輸送を担う社会基盤も数多く残している。工業地帯の輸送には鉄道が不可欠なので、セメントや建設業とは切っても切れない関係にある。またコークス処理ノウハウを有していたことから、東京瓦斯(東京ガス)の設立にも総一郎は深くかかわっている。同社は1885年創業の「100年企業」だ。


1916年に設立した浅野造船所は、後に総一郎の息子が「日本鋼管」に発展させ、2002年、川崎製鉄と経営統合し、「JFEスチール」が誕生。同年、船舶・海洋部門は日立造船と経営統合し、ユニバーサル造船が誕生した。「沖電気」の前身である明工舎(1881年)の設立も総一郎が資金を提供して実現したもので、妻サクの伯母の夫・沖牙太郎が初代社長を務めたが、実質は浅野財閥の傘下であったといえよう。沖電気もまた「100年企業」のひとつである。


By Master K/益田 慶


100年企業 7 旧財閥系の100年企業 旧古河財閥

旧古河財閥は、古河市兵衛が鉱山業で財を成し、工業、海運、貿易、銀行などに進出し、多角化を進め、戦前には15財閥のひとつに数えられた。
幕末の盛岡で生糸の売買で財を成し、両替商や鉱山経営など幅広く事業を展開していた小野組。その幹部であった義父とともに生糸の買い付けを行い、小野組で頭角をあらわしたのが古河市兵衛だ。明治政府の金融政策によって小野組が破綻したのち、小野組が手がけていた草倉銅山(新潟)の払い下げに成功したのは1875年(明治8年)のことである。同年、古河鉱業(のちの古河機械金属)を設立。よって「古河機械金属」の創業は1875年、設立は1918年と記されている。創業から見れば「100年企業」である。


草倉銅山の経営が順調に進み、市兵衛は1877年に廃山同然であった足尾銅山を買収した。渋沢栄一も共同出資者として参加した。不振を続けた足尾銅山だったが、1981年に大鉱脈が発見され、またたく間に日本を代表する銅山へと発展した。これが古河財閥の基盤である。
市兵衛はほかに10以上の鉱山を経営して「鉱山王」となり、銅の産出だけでなく、工業製品化することを考えた。古河財閥の事業は、ほとんどが旧古河鉱業の一部門としてスタートしているのが特徴だ。日露戦争や第一次世界大戦による好況が追い風となり、古河は1917年に東京古河銀行(のちに第一銀行に吸収合併、現みずほ銀行)を開業し、営業部門を古河商事として独立させ、古河鉱業、古河銀行、古河商事(のちに倒産)を直系企業とする財閥コンツェルンが成立する。


足尾銅山で産出される銅の工業製品化を企画して誕生したのが「古河電気工業」通称「古河電工」だ。精銅、電線製造から始まった古河電工の事業は、海底ケーブル、アルミニウム、電池製造、光・情報通信へと発展し、今日に至る。古河財閥は鉱山からスタートし、ビジネスの鉱脈をエレクトロニクスや情報通信に見出したということだ。古河電工の創業年は1884年と記されているので、立派な「100年企業」である。


当時、水力発電を中心とした電気事業の著しい成長期にあり、電線業界は長距離送電用ケーブルや通信ケーブルを主軸とした産業が拡大していた。古河電工はケーブル事業を中核とした電線事業に進出し、横浜電線や矢部電線、日本電線など電線業界の有力企業を次々に傘下に収め、拡大した。この古河電工の子会社が「ファナック」や「ニフティ」だ。そしてアルミニウム製品の製造を目的に創業されたのが「日本軽金属」ということになる。


一方で銅線を大量に使用する電話交換機製造のために古河鉱業とドイツのジーメンスとが合併した誕生したのが「富士電機製造(現富士電機ホールディング)」だ。さらに同社の電話部所管業務を分離して誕生したのが「富士通信機製造」(現富士通)である。古河電工からすれば孫会社にあたる富士通だが、現在の売上高だけ取ってみれば古河電工の約6倍も稼いでいる。ちなみに富士通の「富」は古河グループの「ふ」とジーメンス社の「じ」をとって漢字を当てたものだ。旧富士銀行とは無関係である。

また、古河鉱業が化学部門を分離して生まれた東京電化工業所が旭電化工業になり、現在の「ADEKA」(アデカ)につながっている。「横浜ゴム」や「日本ゼオン」も古河グループに属し、日本ゼオンの主要株主に古河電工や横浜ゴムの名前が並んでいる。

ほかに現在「古河グループ」(古河山水会)と呼ばれる企業の中で「100年企業」を挙げるなら、1888年創業の「朝日生命」がある。「帝国生命保険」として設立し、朝日生命に改組したものの、現存する生命保険会社では最古参だ。創業者は福原有信で、かの資生堂の創業者でもある。朝日生命といえば「みずほファイナンシャルグループ」の色合いが強いが、古川財閥が旧第一勧銀グループと密接な関係にあったことから、旧第一勧銀をメインバンクとした朝日生命は古河グループにも参加しており、実は古河機械金属の筆頭株主が朝日生命であり、朝日生命はほかに富士通や日本ゼオンなど古河グループ各社の主要株主に名を連ねているのである。


By Master K/益田 慶


100年企業 6 旧財閥系の100年企業 旧鴻池財閥・旧東京川崎財閥

資産を蓄えた江戸時代の豪商が江戸や京都・大坂で両替商を興し、江戸幕府や明治政府の政商へと成長し、やがて財閥に発展していく過程は三井家や安田家が典型である。明治以前の最大財閥といえば、おおよその予想だと三井となるのだろうが、実は江戸時代は鴻池(こうのいけ)家が最大であった。鴻池家は現在の兵庫県伊丹市で醸造を始めたのが起源だ。やがて大坂から江戸へ送る大量の酒は、陸路では間に合わず海上輸送を始めた。事業は大名貸しから両替商に拡大し、全盛期には全国110藩が鴻池家から融資を受けていたらしい。鴻池家は幕府の全資産に匹敵する額の資産を蓄えていたとのことだ。


時代劇で描かれることはないが、新撰組の設立資金を提供したのが鴻池家だ。当時から「鴻池銀行」の様相を呈していたようだ。
しかし鴻池家は明治政府が開かれてからは、三井や三菱のように政府のスポンサーとなる道をとらなかった。企業立ち上げの発起人として名を連ねる程度だが、いくつかの「100年企業」にかかわっているので紹介していこう。

1880年に大阪で創業された「鴻池運輸」は、現在も鴻池を名乗る社長が経営者であることを見ると、正真正銘の鴻池家の流れであるようだ。
1889年(明治22年)日本で3番目(明治生命、帝国生命、日本生命)の生命保険会社として設立され、現在保険料収入において国内第2位(1位は日本郵政グループの「かんぽ生命」)を誇るのが「日本生命」である。同社は第百三十三国立銀行の頭取が関西の財界人に呼びかけ、社長に第11代鴻池善右衛門を迎えてスタートした。鴻池財閥の企業という色合いより、鴻池家の当主の名前で関西政財界の信頼を得ることが眼目であったのだろう。


時間を少しさかのぼり、鴻池家の銀行経営を見てみよう。鴻池家は1877年(明治10年)に第十三国立銀行を設立し、国立銀行の満期にともない、1890年(明治30年)、個人経営の「鴻池銀行」を興し、第十三国立銀行の営業を継承した。1933年、いずれも大阪に本店を置く鴻池銀行、山口銀行、三十四銀行が合併して誕生したのが、かの「三和銀行」である。関西の旧財閥系企業グループとして「三和グループ」を挙げる場合があるが、それは同行をメインバンクにしている銀行系列の意味合いが強かった。有名な企業としては、1905年創業なので「100年企業」に該当する「神戸製鋼」や1918年創業の「帝人」、積水化学、宇部興産などがある。


鴻池家同様、金融財閥として君臨したのが旧東京川崎財閥。関西にも川崎財閥があるので、所在地から東京川崎財閥と呼ぶことにする。「8大財閥」といえば、三井、三菱、住友、安田、浅野、古河、大倉、川崎(東京)という顔ぶれになる。


幕末に水戸藩御用商人を務めた、大庄屋の川崎八右衛門が起こした為替取扱い業「川崎組」が起源だ。初代・八右衛門は1876年、先週紹介した安田財閥の祖・安田善次郎とともに日本橋に第三国立銀行を開業。1881年に単独で設立した川崎銀行を核にして保険、貿易、鉱業などに進出し、同族による企業統治を固め、東京に川崎財閥を築いた。二代目・八右衛門は1878年、安田善次郎ととも第百銀行を設立。のちに川崎銀行と合併し、常陽銀行、千葉合同銀行、足利銀行などを系列化した。二代目はほかに川崎信託銀行を設立。これが日本信託銀行に改名され、のちに三菱銀行に救済、現在の三菱UFJ信託銀行へと発展していく。


当時の直系会社22社を管理する会社として1906年に設立した不動産業「川崎定徳合資会社」が、旧東京川崎財閥を代表する「100年企業」である。同社は川崎定徳株式会社に改組し、現在も日本橋に本社を構え、六本木や新宿に賃貸物件を管理・保有している。また同年、日本火災保険を買収。これが現在の日本興亜損害保険火災海上に発展する。川崎財閥は戦後の財閥解体で解散したが、関東エリアで金融業務を手広く展開した戦前の金融財閥として覚えておこう。


By Master K/益田 慶


100年企業5 旧財閥系の100年企業 安田財閥

第二次世界大戦前まで「四大財閥」と呼ばれたのは、三井、三菱、住友、安田であった。旧安田財閥は富山県出身の安田善次郎が幕末の1866年、日本橋小舟町に両替商「安田商店」を開いたのが起源だ。善次郎は幕府の御用両替を担い、巨額の富を得た。これが安田財閥の源流である。


明治に入ると、善次郎は発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の不換紙幣や公債を率先して引き受け、その流通に積極的に協力した。つまり額面割れした太政官札に対する正金貸付業務を行ったのである。1870年に正金金札等価通用布告がなされると、太政官札を額面引き換えし、巨万の利益を得ることになる。


善次郎は1876年(明治9年)、東京川崎財閥の祖・川崎八右衛門とともに「第三国立銀行」(のちに安田銀行に吸収)を設立。明治13年には安田商店を安田銀行に改組する。戦前の安田銀行は多くの銀行を吸収し、金融財閥財を築いた。この安田銀行が財閥解体によって富士銀行に商号変更し、のちに富士銀行、第一勧銀、日本興銀が合併し、「みずほファイナンシャルグループ」が発足する。

さらに1887年に「安田保善社」(現安田不動産)を設立し、釧路硫黄山と釧路鉄道、函館倉庫の経営など銀行業以外にも進出。1893年に「帝国海上保険」、翌年に「共済生命保険」を設立し、事業を損保、生保業務にも広げた。前者の帝国海上保険がのちの安田火災海上保険で、さらに安田火災海上保険と日産火災海上保険が合併して誕生したのが「損害保険ジャパン」である。同社は会社案内で「創業1888年」と謳っているので、「100年企業」ということになる。
共済生命保険はのちに安田生命へ改組し、これが現在の「明治安田生命」へとつながっている。


善次郎の事業への意欲は衰えず、1896年には不動産業務の「東京建物」、翌年には「安田製釘所(現安田工業)」を創業。ビル開発・マンションメーカーとして展開する東京建物、釘・線材メーカーの安田工業とも「100年企業」に該当する。1898年に事業を統括する「安田商事」(のちに安田銀行と合併)を設立し、同年、紡績業にも進出し、「西成紡績所」を設立した。


また、1898年に安田財閥グループが関与して設立された「東京物品火災」はのちに「日動火災」となり、2004年に三菱グループの「東京海上火災」と合併し、「東京海上日動」となった。ちなみに東京海上火災の前身である「東京海上保険」は日本最初の海上保険会社で、創業は1879年。出資者は華族集団が51%、三菱関係者が17.5%、その他に三井物産、三井銀行、渋沢栄一、大倉喜八郎らに並んで安田善次郎も名を連ねている。善次郎はほかに「帝国ホテル」の発起人や、東京-大阪を私鉄電車で結ぶ幻の計画「日本電気鉄道」の発起人、日銀創立時に理事を務めるなど精力的に活動した。さらに浅野財閥や大倉財閥、根津財閥などに積極的に融資を行い、日産自動車や森コンツェルンなどを支援したのも安田財閥である。戦前、金融資本においては他の財閥の追随を許さず、日本最大の規模を誇っていたようだ。


さて、旧安田財閥系の企業といえば、財閥解体によって生まれた富士銀行の融資系列である「芙蓉グループ」に直結する。流通取引で各社と関係の深い「丸紅」を中心に、日産自動車や大成建設、昭和電工などが同グループに属する。その中から「100年企業」を挙げるなら、1878年創業の「四国銀行」、1881年創業の「沖電気」、1897年創業の「帝国繊維」などがある。


さて、旧安田財閥が再編されて生まれた芙蓉グループだが、現在では他の企業系列との境界線は曖昧になっている。これは富士銀行が第一勧銀、興銀と合併して「みずほファイナンシャルグループ」が誕生し、芙蓉系列と旧第一勧銀グループ、旧興銀グループが混じ合ったことで、もはやどこからどこまでが芙蓉グループなのかわからなくなっているからだ。ともあれ、戦前に安田財閥が日本経済の発展に大きく寄与したことは確かである。

By Master K/益田 慶


100年企業 4 旧財閥系の100年企業 住友グループ

住友の起源は、三井よりも古い。江戸時代の寛永年間(1624~1643年)に住友政友が洛中(京都市街)に書籍と医薬品を扱う「富士屋」を開いたことに始まる。この住友政友を住友家の「家祖」とするなら、事業の「業祖」は粗銅から銀を分離する精錬法を開発した蘇我理右衛門となる。理右衛門は政友の姉婿である。政友は理右衛門の長男・友似と娘を結婚させ、住友家に迎えた。のちに住友友似は大坂に進出し、銅商「泉屋」を営み、父親から受け継いだ粗銅から銀を取り出す技術によって莫大な利益を上げていく。友以は銅貿易をもとに糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商になり、さらには友似の末子が両替商を開業し、泉屋は「大坂に比肩するものなし」と言われるほどに繁盛した。


友似の孫にあたる代にあたる1690年、住友家は幕府直轄地であった別子銅山(愛媛県新居浜市)の開発に着手し、世界最大級の産銅量を誇る銅山に成長させる。この住友家が運営を担った別子銅山が住友財閥の出発点であり、それ以降約280年にわたって住友グループの重要な事業となったのである。幕末から戦前までの住友財閥の特徴は、「総理事」と呼ばれる住友家の当主に代わって事業を監督処理する代理人を置いたことにある。住友家の「君臨すれども統治せず」の姿勢は、三井財閥・三井家や三菱グループ・岩崎家とは対照的である。


初代総理事の広瀬宰平が、最初に住友家と事業を分けた人物である。別子銅山の支配人として近代化を推し進めた人物で、幕末には別子銅山を没収しようとした新政府の使者に向かって「確かに別子銅山は幕府領であるけれども、住友家が発見し、独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである」と訴えたとされている。明治に入り、製鉄・化学工業の重要性を痛感した広瀬は、硫酸製造や製鉄にも乗り出した。こういった先見性のある総理事が住友財閥を支えたのである。


さて、住友グループの「御三家」といえば、住友銀行(現三井住友銀行)、住友金属工業、住友化学があり、「新御三家」には住友商事、住友電気工業、NEC(日本電気)が並ぶ。1895年(明治28年)、住友家15代当主・住友吉左衛門の個人経営によって大阪でスタートしたのが旧「住友銀行」である。三井との連合がなければ「100年企業」に該当したわけだが、バブル崩壊後の長期不況に加え、住友不動産、住友建設といった直系企業が抱える巨額の不良債権、メインバンクであった熊谷組の経営危機(最終的に債権放棄)、金融のグローバル化による銀行再編の波を受けていた住友銀行にとっては三井との合併は賢明な選択肢であったといえよう。


「御三家」の住友金属工業、住友化学、「新御三家」の三社も「100年企業」には該当しない。それでは住友グループの「100年企業」を紹介していこう。


1888年(明治21年)に別子銅山で修理工場として創業したのが「住友重機機械工業」である。銅山が滅び、修理工場からスタートした同社が総合機械メーカーとして生き残ったのは時代の流れを物語っている。二代目総理事・伊庭貞剛が、住友の事業の起点となったアルミと銅のメーカー「住友軽金属工業」を創業したのが1897年 (明治30年) 。また発電機や変電機の製造で名高い「明電舎」も同年に創業されている。伊庭は翌年、別子銅山に山林課と土木課を設立した。その山林課が現在の「住友林業」に発展したのである。製造業に欠かせない倉庫業では、「住友倉庫」(1899年創業)が「100年企業」に該当する。「住友生命」と「住友大阪セメント」はともに1907年創業なので、本年が100周年にあたる。


さて、2001年に住友銀行と三井グループのさくら銀行が合併して「三井住友銀行」が誕生した際には、住友グループと三井グループの合併が進み、経済界の再編成が加速するかに見えたが、2003年に住友化学と三井化学が経営合併を撤回したように、メリットのない業界では合併はないということだろう。企業カラーの異なる三井との合体は、今後も注目していきたい。


By Master K/益田 慶


100年企業 3 旧財閥系の100年企業 三井グループ

旧財閥系企業グループ企業の「100年企業」といえば、三井と住友の両雄が挙げられる。三井財閥の起源は三井高利が1673年に創業した「越後屋」(現在の三越)だ。よって三越は「300年企業」と命名できる。「現金掛値なし」「反物の切り売り」などの新商法は、統治の呉服界では斬新で、現在の言葉に当てはめるなら「流通革命」「呉服の構造改革」「イノベーション」であった。1683年には両替商を併置する。これが今日の「三井住友銀行」である。「三井銀行」として創業したのが1876年(明治9年)なので、「三井住友銀行」も広い意味で「100年企業」といえよう。のちに三井銀行の理事に就任する中上川彦次郎が手腕を発揮する。長年、三井銀行の常務として陣頭指揮をとった池田成彬は、のちに日銀総裁、大蔵大臣に就任した。


大蔵省から実業界に転じた益田孝が「三井物産」を設立したのも1876年だ。初代物産社長・益田の活躍なくして戦前の三井財閥は生まれていなかったともいえる。しかし、三井物産は戦後の財閥解体で一度解体しているので、現在の三井物産の創業は1947年となり、残念ながら「100年企業」のグループからはもれる。戦前の三井物産は、現在では「旧三井物産」と呼ばれている。


江戸時代から明治にかけて三井が大きく成長した要因は、とりもなおさず呉服業と両替商での成功である。三井は幕末に幕府の御用商人となり、幕末から明治維新にかけては「政商」として活躍した。江戸幕府はもとより軍資金のない倒幕派も三井の資金をあてにしたほどである。


明治に入って「旧三井物産」が飛躍的な発展を遂げたのは、益田孝が明治政府から払い下げを受けた三池炭鉱の石炭によってである。「旧三井物産」は石炭の市場を中国やシンガポールなどに求めて進出した。1889年(明治21年)、益田は「三池炭鉱社」(三井鉱山)を設立する。つまり、この老舗のエネルギー企業「三井鉱山」も三井グループの「100年企業」なのである。


同社の初代事務長が、かの團琢磨である。マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んで帰国した秀才だ。逸早くイギリスのポンプを導入し、三池炭鉱を「金を産み出す山」に仕上げた團は後に三井の総帥となり、日本経済連盟の理事長、会長を務め、昭和3年には「男爵」の称号を授かる。三井の総帥が日本経済界のドンになったことで、三井財閥はさまざまな恩恵を受けたのであろう。有能な人材を多く配したのも三井グループの特徴である。


戦前の三井財閥を支えたのが、三井物産、三井鉱山だけではない。「造船の三菱」と激しい競合を繰り広げた「商船三井」も1884年創業の「100年企業」である。同社は「大阪商船」としてスタートし、1942年に旧三井物産の船舶部門が「三井船舶」として分社化。のちに「大阪商船三井船舶」を経て現在の社名になる。ちなみにクルーズ客船として名高い「にっぽん丸」やフェリー「さんふらわあ」は「商船三井」の所有である。


三井グループの「100年企業」を紹介しておこう。三井広報委員会に名を連ねる「王子製紙」が創業地の名を冠し、商号を「王子製紙」と改称したのは1893年。しかし、その前身は1873年に渋沢栄一によって設立された「抄紙会社」だ。同社が日本の洋紙産業の始まりである。同じく三井広報委員会に名を連ねる「サントリー」の創業は1899年。1907年(明治40年)に創業した「日本製鋼所」は今年100周年を迎えたばかり。1909年創業の「三井倉庫」は2年後に「100年企業」となる。


By Master K/益田 慶


2 旧財閥系の百年企業 三菱財閥・日本郵船

創業から百年以上続いている「百年企業」を紹介するにあたり、最初にピックアップすべきは、旧財閥系企業グループであろう。太平洋戦争まで日本経済を牽引し、戦後に実施された財閥解体後は企業グループに移行し、現在もなお日本経済の中核を成す巨大グループばかりである。


旧三菱財閥、現三菱グループの源流は、1885年に創業した百年企業の「日本郵船」である。三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎は、明治政府の支援を受けた政商でもあった。1875年、明治政府は国有会社であった日本郵便蒸気船会社の経営を三菱商会に吸収させ、郵便汽船三菱会社が誕生する。そして岩崎弥太郎が他界した1885年、同社と三井系の国策会社である共同運輸会社が合併し、「日本郵船会舎」が設立。政府は両社のダンピング合戦による海運業の衰退を危惧して合併を促し、三菱と三井は対等合併とされたが、一説によれば政府は三菱に巨額な補助金を与えたといわれている。


当時のライバルは、米国の船会社パシフィック・メール社と英国系の船会社ペニュシュラル・オリエンタル社であった。明治政府はアメリカやイギリスの名門海運会社に握られていた航海自主権を奪取することを目指していた。香港、上海、横浜に航路を開いた外国船に対抗し、岩崎はマスコミを利用して愛国心をあおり、運賃を引き下げる一方で、政府に支援を求め、国家を挙げての闘いの体制を作った。と同時に大胆なリストラを行って経費を節減し、運賃引き下げに対抗できる経営基盤を築こうとしたのである。やがて日本の海運をほぼ独占した三菱は、為替業務、海上保険、倉庫業など業態の多角化に乗り出す。日本郵船と契約すれば、為替、海上保険、製品の管理まで関連したビジネスでの独占体制を築けるのである。日本郵船が三菱グループの源流と呼ばれるのは、こういった背景があったからだ。


岩崎弥太郎の死後、三菱の総帥となったのは、実弟の弥之助である。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と拡大し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として三菱社を創設する。いわばこれが後の財閥形成の基になった会社である。弥之助は1881年に弥太郎が買収した高島炭鉱と1884年に政府より借り受けた工部省長崎造船局官営長崎造船局を長崎造船所と命名し、これらを中核として、事業の再興を図った。この年に本格的に開始した造船事業は、のちに三菱造船株式会社に引き継がれ、大きく成長する。
同時に1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に「三菱倉庫」を設立した。よってこの三菱倉庫も三菱グループの百年企業のひとつである。


1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒(現キリンホールディングス)の設立など、事業がいっそう拡大された。ちなみに三菱グループの宴会では、「キリンビール」が銘柄指定されることは慣例である。


「三菱御三家」の三菱商事(1918年創業)、三菱重工(三菱重工業としては1934年創業)、東京三菱UFJ銀行(三菱銀行としての創業は1919年)がどれも百年企業ではないことを考えると、三菱グループが意外に歴史が浅いことがわかるだろう。三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治の動乱期に台頭した岩崎弥太郎のマンパワーとそれに続く兄弟、息子たちが短期間で基盤を築いた一大グループなのである。


では、次週は、三菱より歴史のある三井、住友系の百年企業を見ていこう。


By Master K/益田 慶


100年企業 1 はじめに

日本には創業から百年以上続いている企業が約15,000社ある。150万社の1パーセントだ。これを「百年企業」と呼ぶことにする。明治維新という空前絶後の構造改革、世界的な不況、帝国主義によるアジア侵略、敗戦、財閥解体、焼け跡からの再スタート、高度経済成長、オイルショック、貿易摩擦、円高、バブル崩壊、銀行再編、外資系の進出、不良債権の解消などをくぐりぬけ、現在もなお健全な経営を続ける企業は、いかにして生き残ったのか。なぜ生き残れたのか。


百年以上の歴史を刻んできた背景にはそれなりの理由、経営の秘訣、競合他社に勝つだけの商品の差別化やサービスに魅力があったからだろう。時代の変化に敏感に対応できる、革新を拒まない体質もあったと想像できる。あるいは代々の経営者が受け継いできたしっかりとした経営哲学もあるに違いない。


「百年企業」は合理的・近代的な経営手法を取り入れてきた企業でもある。お菓子製造や伝統工芸品のメーカーなど、世に言う「老舗」のように、昔からずっと同じ商品だけを販売してきた企業もあるだろう。しかし、どの時代にあっても社会に歓迎される要素を宿してきたということは、やはり何かしら独自性があったからといえよう。単独で、あるいは自力だけでは百年もの間、経営を続けることができなかった企業もあるだろう。それらの企業は、財閥や企業グループに属すことで潤沢な運転資金を得たり、原材料の仕入れや販売ルートを確保したりしてきたのかもしれない。それも百年もの長きにわたり継続してこられた理由のひとつである。


今週からスタートするこのコラムは、百年企業が百年もの間、生き抜いてきた理由を探るものである。その歴史は各社で異なるものの、カメラを引いて見れば日本における資本主義経済の発展の歴史でもあり、経済大国への発展に寄与した歴史、さらに日本における近代経営の発展の歴史でもある。つまり、「百年企業」の特徴を研究すれば、日本経済や近代経営の発展の軌跡が見えてくるのである。


経営面では、年功序列や終身雇用など雇用制度、メインバンク制や企業グループによる長期安定的な取引関係、業界団体内調整による規制の強い市場など「日本的経営」と呼ばれる経営慣行の是非にも及ぶ。近年、能力主義・成功報酬制度、契約社員や派遣社員などを導入する企業が増えた一方で「日本的経営」を見直す経営者も少なくない。


巨大企業にとっては、貿易摩擦や不良債権、バブルの崩壊、外資系グループの進出、合併・買収が大きな分岐点になったであろう。百年企業はそれらの分岐点、ひいては危機をいかにして乗り越えてきたのか。その秘策にも迫ってみたい。そして商品開発の特徴にもふれてみたい。

また「百年企業」は、日本の企業グループや企業系列を理解するうえでの参考になり、業界地図を俯瞰して眺められる機会にもなることだろう。


皆さんがご存知のように旧財閥系企業グループには、三菱グループ、三井グループ、住友グループ、芙蓉グループ、みずほグループ、UFJグループなどがあるが、銀行再編によって東京三菱UFJ銀行、三井住友銀行が誕生したことで旧財閥系企業グループにも大きな変化が生まれている。三越や高島屋、伊勢丹など百貨店業界の老舗の再編も著しい。


さらに、「百年企業」は業界によって生存率が異なることも興味深い。これには業界の歴史や市場規模、独占企業の有無、新規参入を拒むような法律的な規制などが大きな鍵になっているようだ。また政治とのつながりの深い業界もあるので、研究の対象は幅広い。


このように「百年企業」は、いろんな角度から分析することができる対象である。百年企業の成り立ちや発展、経営方針、業界地図などを知ることが、FXライフを豊かに彩ってくれることを期待する。


By Master K/益田 慶